嵐の前の静けさ
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2.

 安西さん達に根回ししてたからそろそろだとは思っていたけれど。
 とうとうか――と、若菜はため息を吐き出した。
 視線の先には婚約指輪。綺麗な指輪は見れば見るほど阿部家に不釣合いな輝きを宿している。もし強盗に押し入られても、これだけは死守しなければ、と落ち着かない気分になる。
 若菜は左手を右手で隠すようにしながらストーブの前に戻った。
 鼓動の音がやけに耳についた。
 去り際の顔が曇っていたからだ、と若菜は勝手に補完する。
(この指輪を嵌めるべきなのは別にいるのに)
 脳裏に美智子の言葉が蘇った。
 ドキドキと早鐘を刻みながら唇を引き結ぶ。
(今の私は場繋ぎでしかないんだから。重い指輪だわ)
 朝食の用意が出来たようで、台所から由紀子が慌しく運んできた。指輪のことを追究されたくない。運んで頂戴、という非難の声も聞き流して二階に上がる。祝福などお断りだ。
 若菜は自室に入ると鍵を閉めた。
「指輪……」
 右手をそっとどけると宝石が現れた。冬の早朝では光もそれほど強くないが、宝石は少しの光をも掬い取って輝き、若菜を憂鬱の渦へ叩き落すのだった。


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 早朝に渡された指輪は、迎えに来た厚志に返却された。
 今回はサイズの確認をしたかっただけらしい。
 それならばその場で合う合わないを確かめれば良かっただけなのに、なぜ時間を置いたのか。
 次に見るのは本当の婚約披露の場で、と告げられた若菜は疑問を脇に追いやって安堵した。高価だと分かっているだけに、自分で持っているのは不安だった。
「馬鹿親父が――」
 若菜を車に乗せた厚志は疲れたようにため息を吐き出した。眉間には深い皺が刻まれている。若菜はシートベルトを装着しながら視線を向けた。
「婚約状を送ってきやがった」
「婚約っ? 厚志父がっ?」
 驚愕した叫ぶと額を叩かれた。
「今、親父が誰かと婚約するんだと思っただろ。俺たちの婚約だからな」
 胡乱な目で睨まれた若菜は顎を引いた。
「ああ……それなら納得……してたまるか。待て。何で自分らのことに口出しされなきゃいけないの」
 純一の笑顔は容易く想像できた。婚約披露宴への招待状のデザインを、彼が上機嫌で考えているところも想像できる。
 若菜が唇を尖らせると厚志は笑った。怒らせた肩を宥めるように手を置かれ、若菜が振り向くと体を乗り出して頬に口付けてくる。既にそんな行為は挨拶になってしまっているらしい。硬直する若菜だが、厚志は動揺もしない。そうすれば自分ばかりが動揺しているようで癪だ、と変な競争心まで湧いてきて、若菜は努めて平静を装うようにしていた。
「気付いたときには場所も時間も決められてた。俺に出来たのは指輪選びだけだな」
「厚志が選んだんだ」
「当たり前だろ。そこまで決められてたまるか」
 赤信号で停まり、ハンドルに顎を乗せる厚志が幼く見える。
 若菜は笑って前を向いた。
「遠かれ近かれどうせやるって決めてたんだから、まぁ、いいんじゃない? 主導権があっちにあるのは気に食わないけど、どうせ婚約ぶち壊して主導権握るのはこっちになるし」
 見てろよ厚志父、と不敵に呟く若菜は、当初の目的を忘れているかもしれない。厚志が複雑そうな表情で見つめてくるのには気付かなかった。
「――あのさ」
「婚約破棄が整っても、厚志は会社を継げるの?」
 厚志の声を途中で遮ってしまったが、厚志は視線を少しだけ揺らしただけで応えてくれた。
「今のところはな。尊敬はできないけど、一応父親だし。社員の奴らはもう認めてくれてる。それにどうせなら、奴の会社を乗っ取って俺の好きにするのが一番の復讐だと思わねぇ?」
 重く口火を切った厚志だが、最後にはいつものように不敵な笑顔を見せた。彼らしい言葉に若菜も頬を緩める。しかし直後に美智子の言葉が蘇り、笑顔が消えそうになった。厚志が会社を継いだとき、彼の隣にいるのは自分ではない。
「なんで麻衣子さんを遠ざけるの?」
 ぽつり、と。
 美智子の言葉を思い出していたからか、無意識に問いかけていた。
 若菜は慌てて口を覆い、厚志から視線を逸らした。厚志の瞳が驚いたように瞠られる。それを見返すのが嫌だった。
「厚志がこのままお父さんの跡を継ぐなら、隣にいて一番安心できるのは彼女なんでしょう? 反りが合わなそうだけど、これも仕事のためとか思って、割り切っちゃえば?」
 軽く肩を竦めて心にもないことを言うと沈黙が下りた。沈黙が重くなるほど焦って後悔するが、訂正することはない。
 やがて、痛むほど緊張した声が放たれる。
「安心する意味が違う」
「意味?」
 その問いかけは失われた。
 会社に到着し、厚志は無言のまま駐車場に停めると若菜を置いて歩き出した。
 その背中は一切の問いかけを拒絶している。
 少しだけ、若菜は哀しくなった。

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