嵐の前の静けさ
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3.

 大輝は今日も出社してこなかった。
 掲示板を見ると、彼は一日出張ということになっていた。
 だが若菜たちには彼がどこに行くのか知らされていない。いつ戻ってくるのかも分からない。普段ならば掲示板に行き先や時間も記されるが、今回は何も情報がなかった。
 若菜は今月の仕事を見返しながらぼんやりとしていた。見直す手だけは止めず、思考だけを止めるという器用さを発揮する。美智子は有休を取っているため若菜の様子には誰も気付かない。
 暇だ……と呟きかけた若菜は慌てて口を閉じる。さすがにそれは発言してはいけない言葉だ。
 代わりにため息をつき、時計を見る。
 そろそろお昼だ。
 職場に配達された雑誌や新聞をめくっても、情報が頭に入ってこない。話し相手もいない。来年から大輝と美智子がいなくなったら、こんな毎日が普通になるのだろうか。そう思うと余計に憂鬱になる。
 総務課には毎年決められた事務処理しか仕事がない。他の会社ではどうなのか分からないが、若菜が勤める職場はそのような物だった。人数の増減で仕事も増減するが、仕事内容に変化が生じるわけではない。
 暇なときはごく稀に社内の雑用も任され、それはそれで楽しいが、若菜は時間配分を考えずに仕事に打ち込むため、気付けば膨大な時間が余ってしまう。
「阿部ー」
「はいー」
 誰もが暇を持て余しているなか、課長の間延びした声が響いた。若菜も負けじと間延びし返す。課長は苦笑して手招いた。
「何でしょうか?」
「上からの命令でねぇ」
 そう告げる課長は面白そうに笑っていた。
 直感で“ろくでもないこと”だと悟った若菜は足を止める。どうしようか迷う。最近の課長は若菜で遊ぶことを覚えたらしく、暇を持て余すと思いつきで関係ない仕事を任せてくる。迷惑な話だ。
「阿部っていつも、昼は弁当だったよな?」
「はい」
 沸々と嫌な予感を育てる若菜は「違います」と訳もなく否定したくなった。
 時計を再び見上げ、あと数分で休憩時間に入る、と確認する。
「では君に命じよう」
「課長。キャラが変わってますよ」
「暇なんだ」
 嬉しそうにする課長を呆れて見つめ、若菜は課長から封筒を受け取った。社内用の回覧だ。課長の他、他部署の課長たちの名前にも印が押してあった。ほぼ全員が回覧したものらしい。
「何ですか? これ」
「お偉い人からの出席命令だよ」
「はぁ?」
 課長の説明は良く分からない。
 若菜は腑に落ちない気分で頷きながら、これを届けて来ればいいのかと封筒を引っくり返した。そしてそこに、信じられない名前を目撃する。
「課長。私、パス」
「許さん」
 敏感に悟った若菜は踵を返そうとしたが、課長は若菜の腕に縋りついた。和人が呆れたように見てくる。
「絶対に嫌ですよ!」
「そうかぁ。阿部もやっぱりこの人は苦手かぁ。でもな、阿部」
 若菜が鳥肌を立てながら叫ぶと課長は納得したように何度も頷いた。その表情はどこか嬉しそうだ。けれど若菜の腕をつかむ手は放されない。彼が諦めていないことは明白だ。寧ろ先ほどは合法的に拒否を却下した。
 課長は身を乗り出し、人生を諭すように言い含める。
「結婚すれば相方のお父さんとも付き合わなければいけないんだぞ? 今のうちに克服しておくのが阿部の為だ」
 うわああああああ、と若菜は声を限りに叫びたくなった。
 実際にはヒクリと頬を引き攣らせ、課長を睨みつけるだけに留まる。だが課長はそれだけで体を引いた。若菜の怒りを感じたのか無理に封筒を押し付けた。
「休憩は遅れても構わんから。な? 頼むよ、阿部」
 課長に頭を下げられて、彼の頭頂部が微かに禿げてきていることが判明した。哀しき四十代前半男の運命だ。
 職場で声を荒げるわけにもいかず、若菜は押し付けられた封筒を潰しかねない力を込めながら禿げ間際を見つめた。
「休憩取らせないで働かせるのは労務基準法に反してますから」
「そうか。ならお昼は休憩し、一時になったら弁当持ってくっていうのはどうだ?」
 課長は笑顔で提案する。
 この前まで若菜の味方だった課長はもういないらしい。
 結局若菜は課長に勝てず、弁当を抱えて大人しく斎藤純一のところへ行くことになった。


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 厚志たちが職場としている場所は建物の最上階にある。以前は会議室として使われていた場所だったが、厚志たちが来ると騒いだ会社の上層部が、急遽、臨時でその場所を改装したのだ。
 そういえば以前、業者が慌しく会社に入っていたことがあったなぁと思いながら、若菜は足取りも重く階段を昇っていた。信じられないことに、この建物にエレベーターはない。コピー用紙を大量消費する総務課には地獄の建物と言える。因みにコピー用紙は外にある建物から補給してくる。それも若菜の役目だ。
 若菜は最上階を見上げて足を止めた。このまま後ろに倒れたら不可抗力ということで課長も見逃してくれないだろうかと、そんな馬鹿げたことを考える。屋上への扉が開いているのか、冷たい風が吹き込んできていた。それぞれ部署内には備え付けの暖房があるが、建物全体には入れられていない。階段は冷え切っていた。
「誰だよ。開けっ放しにしてるの」
 若菜は八つ当たりに近い感情を抱きながら呟いた。力強く階段を駆け上がる。間違っても貧血では倒れない性格だ。むしろ貧血で倒れるよりも、頭に血が昇って倒れた方が、若菜自身も納得できる倒れ方だ――本人の意向は違っていても。
 若菜は解放してある扉に近づいた。目前に広がる屋上の様子に瞳を細める。
 昨夜から降り続く雪はいまだに衰えず、辺り一面を白く染めている。扉付近は吹溜りになっていて、一層積もっていた。
 若菜は息を白く染めながら観察した。
 不意に体を震わせる。寒さに耐えかねて扉を閉める。閉めてしばらくしても体の冷たさは抜けずに顔をしかめた。
「あ、しまった。手紙をここに投げて失くすっていう方法もあったか」
 決して本気ではなく呟いてみた。
「そんなところで何してるんだ?」
 背中に人の気配を感じて悲鳴を上げかけた瞬間、厚志の声に気付いて悲鳴を飲み込んだ。拳を作り、手の平に滲んだ汗を隠す。喉を鳴らせて振り返った。
 厚志は外出用の装いをして階段を昇ってきていた。どこからか帰ったところなのだろうか。若菜に近づき、腕時計を見て眉を寄せる。
「休憩時間も終わるだろう? こんな時間にここにいるのは珍しいな。いや、若菜がここにいること事態、珍しいことなんだが」
 厚志は軽く苦笑する。若菜は憮然として視線を逸らせた。
 課長の言う通り、彼と机を並べて昼食などゴメンだ。静かな休憩時間は夢の彼方に消え果てるだろう。
「丁度いい。厚志でもいいや。これ、おじさんに渡しておいて。私は単なる配達人だから」
「あ?」
 不審な顔をする厚志に、強引に封筒を押し付けて手を振った。
 受け取った厚志は封筒を裏返し、差出人を見て思い切り顔をしかめた。想像していた通りの反応に若菜は笑う。厚志は不愉快そうに眉を寄せた。
「じゃあねー」
 嫌な用事は手早く済ませるに限る。
 そそくさと手を振ってその場を離れようとしたが、厚志に手首をつかまれて焦った。妙な方向にひねりかける。
「な、なに?」
「……俺も俺で今更だけどな」
 心臓に悪い行動にうろたえる。早まる鼓動を感じながら振り返り、言葉を濁す厚志に怪訝な視線を向けた。その視線を受けた厚志は更に言い淀む。
「若菜。本当にいいのか? 親父が勝手に進めてる婚約披露の件」
 真剣な顔をして何を言うのかと構えていた若菜は、肩透かしを食らって笑った。
「だから今更だってば。ちゃんと厚志には最後まで付き合うって言ったでしょう」
 そう告げてから首をひねる。
「言ってなかったっけ?」
 眉を寄せる厚志に、若菜はまたしても自分の思い込みだったかと記憶を探った。
 緊張はそろそろ解れて来た頃で、厚志との距離が自然に思える。
「本当に?」
「疑り深いな。本当にいいってば。というか、私の意思確認してくるなんて珍しいね。青天の霹靂? まぁ、強引に進められるよりよっぽどいいけど」
 厚志が笑う。それは呆れたように、ではなく嬉しげで、若菜は瞳を瞬かせた。何が彼の機嫌を上昇させたのか分からない。厚志は若菜の手を放して封筒を示した。
「分かった。じゃあ、親父に渡しておく。詳細が決まったら伝えるよ」
「お、おう。よろしく……?」
 晴れやかな態度にまた企みがあるのかと疑心が過ぎったが、若菜に追究する術はない。それに、厚志の表情は企みとは少し離れたところにあった気がして、不審には思いながらも頷くに留める。厚志は肩越しに手を振って部屋の中に入っていった。
「婚約披露って……ただの、婚約披露、だ、よな?」
 いまいち信用しきれず、確かめるように呟く若菜だ。
 最後の時まではもう一ヶ月も残されていない。


END
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