契約が切れる時
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1.

 建物の中には熱気が立ちこめていた。外の豪雪が嘘のようだ。優れた暖房設備のせいでもあるが、そこに集まる人々の数が尋常ではなく多いからだ、と若菜は彼らを眺めながら思った。
 白いドレスに身を包んだ若菜は薄く微笑む。
 最初こそ着心地悪くて落ち着かなかったが、次第に慣れてきた。今は裾を踏まぬよう素早く歩く術も身につけた。ただ、首周りが大きく開いたドレスの感覚には慣れない。ストールを巻きたかったが、誰かに首を締められそうで諦めた。厚志にそれを告げたら笑われた。
 このように露出度の高いドレスなど着たことがない。羞恥心が先に湧く。若菜はなるべく人目に触れぬよう、常に厚志の影に隠れてその場を凌いでいた。
 政府から贈られた恋人指輪が細い首を飾っている。
「顔の筋肉が引き攣ってきた」
 若菜は微笑みを崩さぬまま小さく呟いた。厚志が振り返る。
「まだまだいけるだろ」
「お前に私の辛さが分かってたまるか」
 どこか楽しそうに太鼓判を押す厚志を睨み、ため息をつく。改めて微笑み直そうとすれば、本当に右の頬肉が痙攣した。失敗した、と若菜は顔をしかめる。
「ぶっさいくな顔」
 遠慮なく笑い声を上げる厚志に殺意が湧いた。
「男はいいよね。ドレス着なくてもいいし、背だって直ぐに伸びて周囲の圧迫なんて感じないし、体は固いし、言葉遣いが乱れても関係ないし」
 もちろん男には男なりの辛さがあるのだろうが、若菜はそれらを無視して唇を尖らせた。厚志は笑いを堪えながら手を伸ばしてくる。先ほど痙攣した頬に触れた。
「お前が例え失敗しても、俺がその分取り戻せるから安心しろよ」
「――それはどうも」
 照れ臭いのを通り越して憮然とした。自分で出来なければ意味がない、と思ってしまう。
「お二人とも。お疲れ様」
 掛けられた声に二人は素早く振り返った。偽りない笑顔を向けた。
「安西さんたちこそ、お疲れ様です。お加減はいかがですか?」
「今日のことで余計に回復しているようだよ。こんなに嬉しいことはそうそうないからね」
 邦光の微笑みには何の裏もない。純粋に心から喜ばれ、若菜は心が痛んだ。持ち上げた左手を口許に当てて淡く微笑む。その薬指には、式の前半で厚志から贈られた婚約指輪が存在を主張している。
 前々から口にだけは上っていた婚約披露宴が先月決まり、現在はその只中にある。もちろん周囲は沸いて口々に祝意を述べた。向けられた多くの言葉と、まだ会ったこともない者たちからの贈り物に、若菜はただ呆然とするしかなかった。
 ドレスを選ぶときだって由紀子が意気揚々と選んだのだ。乗り気ではない若菜に気付く様子もなかった。
 主役二人を残し、周囲は滑稽なほど盛り上がる。
 この不自然さを何とも思わないのだろうか、と厚志を見上げた。彼が浮かべる表情が嘘か本当かは分からない。何を考えているのかも分からない。こんな所が大人にならなくたっていいのに、と若菜は苦々しく思った。演技を覚えてしまうと厄介だ。
 次第に気分が悪くなってきた。安西夫婦には好意を寄せているので尚更だ。偽りだらけのこの席で、真正面から向き合いたくない。
「若菜?」
 少し離れた若菜に気付いたのか、厚志が振り返った。
「……直ぐに戻る」
 若菜は遠くに見える扉を指差して踵を返した。厚志は意図を理解したのか手を振る。安西夫婦も手を振り、若菜は目礼してその場を離れた。
(……トイレの丁寧語って何? お手洗い、厠、用足し……どれもしっくり来ない。ていうかこういう場所で使う言葉が出てこない)
 そもそもその単語に丁寧語などあっただろうか。
 若菜はどうでもいいことに頭を悩ませた。
 扉までの距離は長い。厚志に関わりある者たちばかりが集められ、若菜に関わりある者はと言えば、由紀子くらいだ。本来は両親が出席するのだろうが、今回は若菜が断った。
 どうせ偽りの婚約披露なのだ。そのようなことで義之を呼び戻すわけにはいかない。彼の嬉しそうな顔を見るのも嫌だ。
 厚志側の会社に顔見せするような披露宴だし、結婚式には呼ぶつもりだから、今回は私側は絶対に呼ばないつもりだから、お父さんも来ないでよ。
 と、そんな親不孝な説明で強引に納得させた次第だった。
 両脇に並べられたテーブルには豊富な食材が盛られている。それを取り囲むように人々が談笑し、若菜が通りかかると誰もが声をかける。主役なのだから当然だ。
 若菜はそつなく笑顔でやり過ごすが、それは結構な重労働だった。
 立食のため、中には追いかけてまで若菜と話をしようとする者もいる。彼らにはトイレ、と告げると納得してもらえるが、いちいち話をするのは骨が折れた。廊下までの距離が果てなく思える。
「――阿部さん」
 何人かに引き止められて苛々していた若菜はうんざりして振り返る。しかし視線の先に見慣れた姿を見つけ、瞳を瞠った。無条件で嬉しくなり、本当の笑顔を浮かべる。
 明るい灰色の礼服に身を包んだ大輝がいた。
「大輝先輩!」
 彼の後ろには美智子も控えていて、ますます嬉しくなった。ここには味方など誰もいない気になっていたため嬉しい不意打ちだ。
「お疲れ様」
「先輩たちも」
 若菜は苦笑することで応えた。大輝が少しだけ瞳を細める。美智子はグルリと周囲を見渡した。
「貴方が一人でいるなんて思わなかったわ」
 少し離れた場所に厚志の姿を見つけると、美智子は問いかけるように視線を若菜に戻した。
「厚志の側にいると色々と面倒な挨拶が舞い込んでくるから、少し一人になろうかと思いまして。トイレを口実に逃げて来たんです」
「仮にも婚約者とは思えない発言ね」
 小声で本音を告げる若菜に、美智子は肩を竦めて見せた。外から来たばかりなのか、彼女は黒い光沢のあるドレスの上に、暖かそうな肩掛けをまとっている。部屋の中は薄着でも暑いくらいの熱気が立ち込めているため、美智子は静かに肩掛けを外すと大輝に預けた。ごく自然な動作だ。
「純一おじ様はいらっしゃる?」
「来てますけど……一番最初に挨拶したあとは、あの人もどこか行っちゃって」
 捜す素振りを見せた美智子につられて若菜も首を巡らせたが、いつの間にか周囲は人だかり。皆が注目していることに気付いて狼狽した。その視線の中には、純粋に祝いを湛えた瞳だけではなくどことなく敵意も感じられ、若菜は思わず睨み返した。彼らは一様に驚いて瞳を瞠る。そんな視線は主に女性からだ。
「――今までこういう場に出たことがなかったから知りませんでしたけど、厚志って本当に――何ていうか、お坊ちゃんなんですね」
「誰がお坊ちゃんだ」
 頭上から降ってきた声に小さな悲鳴を上げて、若菜は飛び退こうとした。その腕をつかまれて引かれる。高鳴った心臓のまま見上げれば、不機嫌な顔をした厚志がいた。
「いつまでも戻って来ないと思っていたら」
 驚いて声も出ない若菜から視線を外し、厚志は大輝を見た。若菜の前に立ちはだかって睨む。が、その視線は一瞬にして作られた笑みに塗り替えられた。
「お招きに預かり光栄です。どうぞ、末永くお幸せに」
「それはどうも。あんたに言われなくてもそうさせて貰うよ」
「ちょっと厚志!」
 どうやら厚志にとって大輝は気に障る存在らしい。社交辞令も使わず最初から喧嘩腰になる厚志に、若菜は焦って彼の腕をつかんだ。しかし厚志は意に介さない。美智子に視線を向けた。
 美智子は黙ってやり取りを見守っていただけで、厚志と視線が絡むと微笑んだ。挑戦的な笑みだ。
「お越しいただきありがとう存じます。貴方のように聡明な女性が側にいれば、萩山の将来も安心ですね。期待していますよ」
「ありがとう」
 厚志は美智子の右手を取ると、甲に口付けた。美智子は当然のようにその行為を受け入れて瞳を伏せる。唖然と見守った若菜は完全に蚊帳の外だ。大輝が非常に嫌そうに、鼻の頭に皺を寄せた。
「貴方たちもご婚約されたそうですね。式の日取りはお決まりになりましたか? 祝いの席には是非ご招待に預かりたいものです」
 非の打ち所がない完璧な態度だ。厚志は一瞬も大輝を見ず、美智子だけを見続けた。若菜の中になんだか得体の知れない感情が生まれる。
 厚志が使う言葉もそうだが、自分の好きな先輩を意図的に無視する態度に腹が立つ。大輝が何をしたのだと、理不尽な無視に苛立ちを募らせる。そして、いまだ美智子の手を握り締める厚志の手を凝視する。
(確かに美智子先輩は綺麗だけど! いつまでも握ってないでよね。馴れ馴れしい上に図々しいわ。今更なことだけど、何かムカつく! 私だって美智子先輩好きなのに!)
 凝視する若菜に気付いた訳ではないだろうが、ようやくその手が外された。
 若菜は次に大輝を見る。視線は直ぐに絡み、若菜は厚志の側を離れると彼に近づいた。
「大輝先輩、ベランダに出ましょう。さっきまでホテルの人たちが雪像を作ってたんですよ。そろそろ頃合です!」
 語気荒く詰め寄った。大輝の瞳が瞠られ、彼の口が開く前に、若菜は彼の腕を引っ張った。スーツが着崩れそうなほど強く引いて歩き出す。厚志の側を通り抜けようとした。
「若菜っ?」
「美智子先輩。厚志父の居所なら厚志が知ってるはずですから、貸し出しします。行きましょう、大輝先輩!」
「おいっ?」
「あら、そうよね。確かに、厚志君と一緒にいれば都合がいいわ」
「親父のことなんか……!」
 通り過ぎた若菜をつかもうとした厚志だが、その腕は美智子につかまれた。
 若菜は美智子と笑み交わす。何かが通じ合ったような気もしたが、それは一瞬だけで、直ぐに胸の中から消えてしまった。
 焦る厚志をその場に残し、若菜は皆の好奇に満ちた視線を掻い潜ってベランダへ向かう。注目する視線の中には安西夫妻の姿もあった。いつの間に来ていたのか佐藤麻衣子の姿もある。それら全てから背を向けるようにして、若菜はベランダに出た。
 一週間ほど前から降り続いている雪は、観測史上稀に見る降雪量となっている。毎朝毎晩、自宅前の除雪を任された若菜には「鬱陶しい」の一言に尽きる。
 しかしホテルでは若菜が除雪する必要もない。帰宅したら除雪作業が待っていることなど都合よく忘れ、若菜は「もっと降れ」と願った。
 吐息を白く染めながら外に出た若菜は、誰もいないバルコニーに感激して足早に歩いた。バルコニーの端へ向かい、そこから下を窺う。このホテルも斎藤のグループ会社らしく、随分な優遇のされ具合だった。大きなホテルは玄関と門が離れており、一面に広がる庭は丁寧に手入れされている。まるでどこかの城に迷い込んできたような錯覚を抱かせる。
 門から玄関に入るまでの道路の脇に、今は従業員たちが汗を流して創り上げた雪像が並べられていた。その光景は圧巻の一言に尽きる。
「うわー……先輩、見てください。人が歩けそうな歩道橋まで出来てますよ!」
 先ほどまでの不機嫌さを忘れた若菜は歓声を上げる。視線は興味を覚えたものから外されない。そのまま後ろにパタパタと手を振る。楽しげに笑う大輝の声が若菜に並んだ。
「本当、凄いね。いつもよりグレードアップしてる」
「いつも?」
「うん。毎年ここでクリスマスパーティー開くんだ。そのためにあれも毎年創られてるんだけど、今回は婚約披露宴のために職人たちも更に力入れてるみたい」
「へぇ……」
 手すりに頬杖つきながら瞳を細める大輝に、若菜はただ声を返すだけに留めた。今日は他の部屋も盛況だろう。
「阿部さん。あれがすべて本物の雪で造られてると思う?」
 微笑む大輝に首を傾げた。
「まさか人工雪なんですか? 今年はかなりの降雪量ですけど、確かにこの短期間で集めてくるのは大変……なのかな?」
 眉を寄せると大輝は笑う。
「ごめん。そういうことじゃないんだ」
「と言うと?」
「あれね、ライトアップされてるでしょう」
 示された方向に視線を向けて、若菜は頷いた。歩道橋のように大きな雪像には必ずライトが当てられている。その色は赤に青に様々で、それらも計算された芸術品なのだろうと思えた。
「実はあの大きな雪像はほとんどが影なんだ。ああしてライトアップしてるように見せてるんだけど、あれが投影装置」
「は?」
 若菜は思わず身を乗り出して雪像を凝視した。しかしいくら目を凝らしても、光を反射する雪の質感も、人が手作業で造ったと思われる素朴さも、しっかりと雪像には残されている。舞い散る雪の影すらそこにはあるというのに、あれらが造り物だというのだろうか。若菜には信じられない。
「今回だけじゃなくて、ほら、毎年クリスマスには市役所前にクリスマスツリーが飾られるでしょう。あれも同じ原理で投影されてたんだよ」
「クリスマスツリー……」
 呟きながら若菜は思い出した。
 最近市役所前を通りかかったとき、確かにクリスマスツリーが飾られていた。まるで空に浮かび上がるかのように君臨していた。幹が途中から消えていて、どうなっているのかと激しく疑問に思った記憶は新しい。同じく疑問に思った子どもがクリスマスツリーを触ろうとしていたが、子どもの体はツリーを突き抜けた。
 ちょうど隣にいた厚志から、あれは投影装置による偽者だと教わり、感心したものだ。
 こうして時代は進んでいき、私は何も知らないで取り残されて行くんだな、と年寄り臭くシミジミと思ったものだ。
 若菜は首を傾げる。
 確かにクリスマスツリーは納得できたが、今目の前にある雪像は別だ。それらはクリスマスツリーと違って途中から消えたりしていない。見れば見るほど本物そっくりだ。幻想さを感じさせない。
「手前の雪像が投影装置で作られたもので、歩道橋より奥にある雪像は、ちゃんと本物だよ」
 若菜は目を凝らす。本物と偽物とを見比べてみるが、やはり違いは分からない。
 大輝は笑った。
「改良を重ねて、見せ方にも幾つか種類を持たせたんだよ。そのプログラムを組んだのは斎藤純一。厚志君も一端を担ってる。まぁ、開発には彼らだけじゃなくて大勢の人間が関わってるんだけどね。経営陣が開発陣に加わるなんて珍しいよ」
 若菜は驚いて目を瞠った。けれど、彼が嘘をついている訳ではないと分かる。
「そういう意味でここは実験場だよ。あれらはまだ報道発表もされていないから。でも、あれを見る限りは大丈夫そうだ」
 そして大輝は更に続ける。
「あれね、人間にも使えるんだよ」
「え?」
「例えば写真があるとする。その情報を読み取って、立体的に投影することが可能になるんだ。厚志君たちは次にそれを開発しようと奮闘してる。なかなか上手くいってないようだけどね。人間を造るのは難しいよ」
「……凄いね」
 思わず呟いた若菜に、大輝はただ「そうだね」と頷いた。日華里の姿が脳裏に浮かぶ。若菜は複雑な気持ちになった。

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