契約が切れる時
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2.

 本物そっくりに作られた雪像を見ていると厚志を連想してしまい、若菜は瞳を伏せる。隣には大輝がいるのに、頭の中は厚志が大部分を占めている。
「阿部さん。寒くない?」
「あ、大丈夫です」
 若菜は鼻の頭を赤くしながら笑顔で頷いた。
 ――本音を言えば寒い。
 何しろ今の若菜はドレスを一枚纏っただけだ。上着も持っていない。首周りが大きく開き、素肌は冷たく凍えている。
 けれど素直に「寒い」と言えば、大輝は気を使うだろう。強引に彼を外まで連れ出した自分がそんなことを言えるはずがなくて、若菜は条件反射的に否定する。大輝に「じゃあ中に戻ろうか」と促されるのも嫌だった。
 そう思っていると肩に何かが掛けられた。振り返ると直ぐ近くに大輝がいて驚いた。肩に掛けられたものは、美智子のショールだ。白いドレスの上に、黒いドレスが滲んで見える。
「美智子のものだけど、ないよりマシだよね」
「あ、ありがとうございます」
 若菜ははにかむように笑った。
 鼻を啜り上げて、視線を再び雪像に戻そうとしたときだ。
 広いバルコニーの端から誰かが歩いてきた。近づく声は次第に大きさを増す。彼らが若菜たちに気付くのと同時に、若菜も彼らが誰であるのか気付いた。
 いつの間にか姿を消していた、純一と由紀子だった。
「お母さん」
 由紀子は純一の腕に寄り添うようにしている。
 その様が信じられなくて、若菜は思わず呆然と呟いていた。
「あら、若菜」
 若菜の視線に気付いても慌てない。由紀子はマイペースに笑いかける。
 その一瞬だけで、由紀子は妙な恋愛感情なしに純一と一緒にいたのだと分かって安堵したのだが――誤解してしまうような構図を見たことが嫌だった。
 若菜は表情を強張らせたまま由紀子を見る。
 若菜よりも先に由紀子が口を開いた。
「厚志君は一緒じゃないの? ええと――以前お会いしましたね。確か、萩」
「萩山です。以前は大したご挨拶もできずに申し訳ありませんでした」
 由紀子が名前を間違う前に、大輝は一歩前へ踏み出して強く名乗った。純一が面白そうに唇を歪める。
「いいえ、こちらこそ。若菜がいつもご迷惑をお掛けしております」
 若菜はついでに胸中で、由紀子が迷惑を増やしませんように、と誰に対してだか分からないが祈った。
 大輝と由紀子のやり取りを視界の端で捉えながら、若菜は純一を見た。彼の腕は由紀子を支えるように、肩に回されている。若菜に睨みつけられても離れる気配がない。そんな態度に腹が立つ。由紀子はどうしてその腕を振り解かないのだと、詰問したくなる。
「萩山。由紀子さんを中に送ってくれるか? 温かい物でも取ってあげてくれ」
「え? はい」
 突然の指名に大輝は戸惑ったが、特に断る理由を思いつかなかったのか、承諾した。困惑した視線を若菜に向け、少しだけ首を傾げて由紀子をエスコートする。由紀子はニコニコと笑いながら「ありがとう」と頭を下げた。
 若菜も続いて広間に戻ろうとしたが、一人で戻ることが躊躇われる。何となく踏み留まってしまった。
「――戻らないんですか?」
「潔癖症なんだな」
 問いかけとは無関係な言葉に若菜は眉を寄せた。
 純一は静かな笑みを湛えたままバルコニーの端に近づき、先ほどまで大輝が立っていた場所に位置をずらした。体だけは若菜に向ける。半身を庭にひねってそちらを眺める。自ら開発に携わったものを眺める瞳は楽しげに緩んでいる。
「これまで一回も恋人を作らなかったって本当? 由紀子さんから聞いたよ」
 少しだけ雪像を眺めた後は再び若菜に注がれた。決して真剣とは言い難い雰囲気に満ちていて、若菜は仏頂面を隠さずに睨みつけた。
「――そうですけど」
 一体母は何を言いふらしているのだろう。
「君が幼い頃に体験したことも聞かせて貰ったよ」
 若菜ですら忘れていた誘拐。
 その言葉を聞いた刹那、若菜は純一を睨みつけた。腕に力が入る。拳が握られる。微かに顎を引いて彼を見る。
 笑みを消さない彼の態度が不愉快だ。
 ふと、純一が湛えている笑みは、自分がこれまで湛えてきた偽りの笑みと同じなのかもしれないと思い至る。他人の振り見て何とやらだ。
「そんなこと知ってどうするんですか。過去に何があろうと私は私ですよ。大体、自分ですら忘れてたんです。そんなこと持ち出されたって、不愉快なだけです」
「攻撃的だな」
 純一は苦笑した。
「そうやって防御を固めるに至った理由を聞いて、納得したって言ってるだけだよ」
 まるで自分という存在が、それだけで決められてしまったようだ。
 若菜は無言のまま視線を落として不機嫌に唇を引き結ぶ。
「人の感情――というか男の感情には敏感なのに鈍くあろうとするのは、自己防衛の本能なのかもな、ってね」
「勝手に決め付けないで下さい」
「そんなことはないさ」
 思わず低い声が出たのは図星だからだろうか。そうだとは思いたくなかったが、若菜は自分の心が酷くささくれ立つのを感じて、苦々しく歯噛みする。
「俺がさっき由紀子さんをそういう目で見てたら、若菜ちゃんは一瞬で見抜いて睨みつけてきたじゃないか」
「そういう目って――!」
 カッとして肩を怒らせたが、純一は笑ったまま降参するように両手を挙げる。
「自分には向けられてないそういう感情には敏感なくせに、自分に向けられる物には鈍感だっていうのは、他に理由が考えられないじゃないか」
「考えなくていいです! どうせ私は誰とも恋人にはならないんですから、余計な心配は無用です!」
 若菜は断言して横を向いた。心の中がムカムカとして、今すぐに立ち去りたかった。吐き気がする。それなのに純一の言葉はまだ続く。
「考えたことはないのか?」
「何をですか!」
 横を向いたまま噛み付く。
「俺が由紀子さんに近づいただけで嫌悪感を持つ――潔癖で純粋な自分の気持ちを」
「はぁ?」
 何を言ってるのか分からず、胡乱な瞳で純一を見た。彼は相変わらずの笑みを湛えている。これ以上付き合っているのが馬鹿らしくなってきた。
 さっさと引き払ってしまおうと足を返しかけたとき、再び純一の声がかかる。タイミングを計りながら一言一言考えているのだろうか。ずいぶんと用意周到だ。それとも、それが経験の違いという物なのだろうか、と若菜は忌々しくため息を吐き出す。
 純一が笑顔で問いかけてきた。
「俺が若菜ちゃんにキスしたらどうする?」
 聞いた瞬間、そんな光景が脳裏に浮かんで若菜は絶句する。同時に鳥肌が立って肩を震わせる。ここまでリアルに想像できてしまう自分の想像力も嫌だが、違和感がない純一という存在にも腹が立つ。彼の存在など否定してやりたい。
「蹴り落としますよ? その手すりから」
 純一は手すりから下を覗き込み、笑い声を上げた。楽しげに喉を震わせる。その笑いはしばらく収まらない。
 いい加減に呆気に取られ、付き合っていられるかとばかりに若菜は今度こそ踵を返した。
「若菜ちゃん」
「何ですか」
 もう振り返りもせず、ただ背中に掛けられた声に返す。
「厚志のものになっちまえよ」
「お断りします」
 考えることなど放棄して返した。
 そうしてから思う。
 今回の婚約披露を彼は何と思っているのだろう、と。こんな言葉が掛けられる以上、彼は厚志と若菜のことなど看破しているに違いない。それでも若菜を迎え入れようとするのは、厚志のことを少なからず考えているからだろうか。たとえそこに若菜の意志が存在しないとしても。彼は充分、譲歩しているのかもしれない。
 なんだか釈然としない思いを抱きながら広間へ戻る。
 大勢の気配と華やかな雰囲気に飲み込まれる。バルコニーは落ち着いていたけれど、そちらから零れる光に包まれれば別の安堵が湧き上がった。
 勝手なことばかり言う純一に腹を立てながら広間に足を踏み入れた瞬間、若菜には自然と笑顔の仮面がつけられていた。大人しく、従順で、誰にも弱味など見せない。
 冷え切った体を温めるように腕を擦る。
 そのまま広間を眺めた若菜は、直ぐ側に大輝の体があって、仰け反るくらい驚いた。
「た、大輝先輩! そんなところでどうしたんですかっ?」
 カーテンに隠れるようにして佇んでいた大輝は、本当に若菜の直ぐ横にいた。若菜は飛びあがって後退する。
 どこか沈鬱な表情を浮かべていた大輝は、若菜のそんな様子に軽く笑みを浮かべた。かぶりを振って「何でもないよ」と呟いた。
「そ、そうですか……? あ、これ、ありがとうございます。お返ししますね。……母が……迷惑、かけませんでしたか?」
「え? ああ……ううん。元気なお母さんだね。羨ましいよ」
 その言葉に裏はないのだろうか。美智子の肩掛けを返した若菜はしみじみと大輝を観察したくなったが、大輝は意図したのかその問いかけを許さなかった。
「体が温まったら少し疲れたらしくて、控え室で休んでるよ。阿部さんも行く?」
「え……と……」
 若菜はどうしようか迷い、思わず視線で厚志を捜した。このまま抜けても大丈夫だろうか。後で文句を言われるのは御免被りたい。
 珍しく真剣な表情で大輝に見つめられ、若菜は落ち着かない気分で返事に窮する。
 大輝の腕が伸び、若菜の手を取ろうとしたときだ。若菜の死角から大きな影が現れて、若菜と大輝の間に割り込んできた。若菜は腕を取られてその人物に引き寄せられる。思いがけず強い力に引かれ、ニ、三歩よろけてぶつかった。
「ったく。どこまで世話かけさせりゃ気が済むんだ」
 横柄な態度に顔を上げれば厚志がいた。つかまれた腕は放されない。
 若菜は口をへの字に曲げた。世話を掛けた覚えなどない、と怒鳴りたくなった。大輝の前であるのが悔しい。
「そっちも。人の婚約者、勝手に連れ回さないでくれないか」
「傲慢だね」
 厚志の勝手な言葉に眉を吊り上げていた若菜は、大輝に視線を移した。最初から喧嘩腰だった厚志に対して、大輝は常に余裕ある大人の態度で受け流していたはずなのに、今は真っ向から厚志を見つめ、不機嫌な声を出していた。
 とうとう腹に据えかねたに違いない、と若菜は青くなる。厚志も鼻白んだように体を引いたが、直ぐに元の態度を取り戻す。
「なんだと?」
「俺は正直、君が好きじゃない」
「ふん。そんなこと今更だろ。俺だってそうだ」
 一触即発。殴り合いに発展しそうな空気だ。
 予想外な成り行きに、若菜はただ驚くしかできずに大輝を見つめ続けた。常に温厚な態度を崩さなかった大輝の言葉にも、その端々に含まれる悪意にも、ただ驚いた。
「阿部さんを渡してくれるかな」
 半眼を伏せて呟かれた大輝の言葉は、誰もが「は?」と聞き返すほど、突拍子もないものだった。若菜はおろか、厚志の目まで点になる。けれど大輝だけは淡々と続けた。
「厚志君に任せていたら阿部さんが不幸になりそうだ。我儘に振り回して労りもしない。自分の物だと豪語する君の側だと、阿部さんも辛いんじゃないかな」
 大輝の言葉には大いに頷けたが、同時にどこかで反発も覚えた。
 どうしようかと迷っていると大輝に二の腕をつかまれた。疑問に思う間もなく、引き寄せられて目元に口付けられた。
 誰もが絶句した。
 大輝には直ぐに解放されたが、若菜は呆然と彼を見る。そんな視線に大輝は痛みを孕んだような苦笑を返し、若菜は罪悪感を覚えた。心を許した先輩ではあっても、キスをされた瞬間、彼に抱いた嫌悪感は消せない。
 大輝を怖いと思いながら後ずさり、何とはなしに、窺うように厚志を見た。
 彼は絶句していたが、その表情は見る間に憤怒に染まる。若菜をつかんでいた手がそのまま大輝に向けられる。
 若菜は思わず、すがりつくように厚志を止めた。このように大勢の人がいる前で暴力沙汰など冗談ではない。
 周囲は不穏な空気に気付いたのか注目し出した。視線の数はまだ僅かだが、伝染するのは目に見えている。早くこの場を収めなければいけない。
 腕を振り上げた厚志は、その勢いで若菜にダメージを負わせかけて、我に返る。しかし怒りは収まらないようだ。荒い呼気で大輝を睨みつける。
 対した大輝はそんな視線に怯えることもなく、肝を据わらせて厚志を見つめ返す。
 美智子はどこへ行ったのだろうと、若菜は情けなく周囲に助けを求めようとした。
「お前に何が分かる」
 爆発寸前のような低いうなり声は大輝に一蹴された。
「俺には分からないよ。でもその言葉に胡坐かいてたら阿部さんにだって伝わらないよ。厚志君がそうしてるなら、俺だってその間に阿部さん攫ってくけど」
 大輝の視線がちらりと若菜に向けられた。
 若菜は良く分からなくなってきた展開に呆然としている。厚志の腕から手を下ろし、その視線を受け止める。厚志の手前、彼は啖呵を切ったけれど、本当はこんな展開、彼も望んでいないのかもしれない。若菜を見るときだけ彼は申し訳なさそうな瞳をする。そんな風に感じてしまうのは何故だろうか。
 言葉を失った厚志の、力を込める音が聞こえたと思った。
 見上げようとした若菜は突然腕をつかまれて息を呑む。容赦ない力に引き寄せられる。厚志の顔が間近に迫り、そのままキスをされた。
 周囲が息を呑む。冷やかすように笑みが零れる。けれど当の本人たちはそんな周囲など眼中外で、気に掛けている余裕もない。
 若菜はつかまれた腕の痛みに顔をしかめた。キスの事実よりも、血が止まって痣になるのではないかという方が恐ろしかった。厚志には余裕が感じられない。若菜はそのまま押されるように壁に背中をつけた。
 歯列を割って入り込む熱に肌が粟立つ。自分が何をされているのか良く分からない。すべてを奪われてしまいそうな強さに恐怖した。
 固く閉じた瞼の端に涙が滲んで熱くなる。自由にならない体に刻まれた痕。
 長いと思われたキスだったが、時間にすればほんの何秒かで。
 耳までが熱くなって何も聞こえない感覚に陥ったあと、ようやく離れた厚志を、若菜は殴っていた。屈めていた腰を厚志が伸ばしたところで、若菜はとにかく暴れようと目視していなかったものだから、振り上げた拳は厚志の肩に当たった。若菜の手首が鈍い痺れを訴える。
 涙目で厚志を睨み、言葉が出てこなくて悔しくて、唇を噛み締める。
 側で見ていた大輝に視線を合わせることなど到底できなくて、若菜は踵を返した。
「若菜!?」
「るっさい!」
 追いかけようとする厚志の声に怒鳴り返し、若菜は全力疾走する。
 傍観者である周囲は微笑ましく見守ろうとでもいうのか。それでも、素で怒鳴り返した若菜の剣幕に驚き、呆気に取られて道を開ける。中には安西夫妻の姿も見えた。
 ヒールのある靴を履いているためバランスが悪く、ドレスを着ているため速度が落ちる。それでも、捨て身で綱渡りをするかのような感覚で、若菜は広間を走り抜けた。

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