契約が切れる時
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3.

 衝動的に走り出した若菜は廊下へ出た。暖房設備は建物全体に巡らされているらしく、廊下に出ても寒さは感じない。
 若菜は素早く左右を確認する。誰もいない。行き先が分からないまま、体が傾く方へと走った。直ぐ背後で扉が開く気配がし、厚志の声が響く。
 格式高いホテルの廊下。
 全速力で逃げる若菜と、追いかける厚志。従業員は出払っているようで、二人を見咎めたり巻き込まれたりする者はいない。人の熱気で息苦しかった広間とは違い、目の前は長く延びている。
 いつもの憤りではなく、悲鳴を押し殺して若菜は走っていた。
 ――最悪。最悪。最悪。
 泣き出したい。腹立たしい。悔しい。恐ろしい。嬉しい。
 すべての感情がない交ぜになって収拾がつかない。どれが本当の気持ちなのか分からない。奇妙な焦燥に捉われたまま若菜はひたすら走った。
 ヒールにドレスという格好の若菜では直ぐに捕まるだろう。それが恐ろしくて、若菜は足を挫いても構わない、とまで追いつめられながら走っていた。
 後ろから厚志の声が聞こえる。けれど振り返ることはない。その腕に捉われることに強い恐怖を感じている。
 若菜はただ無心で走り続ける。転ばないことが不思議だ。
 出発点を同じにして二人を走らせたら早いのは厚志だ。ホテルの直線廊下に障害物を期待するのもおかしく、若菜は背後から腕が伸ばされようとする気配を感じるたび、必死で掻い潜った。
 厚志が追いかけてこない場所であればどこでも良い。誰か道を示してくれないかと思いながら全力疾走する。今ならトイレに駆け込んでも厚志は普通に入り込んできそうな勢いで、逃げ込めない。
 ホテルの角を曲がり、階段を猛然と駆け上がり、自分の位置がどこにあるのか分からなくなる。
「若菜!」
「来るな!」
 声はもう直ぐ側まで迫っている。
 若菜は目頭を熱くさせながら必死で叫ぶ。
 腕に厚志が触れたことに気付き、息を呑んで足を踏ん張る。厚志の腕を潜って急ターンする。小柄な若菜だからこそできる荒業だ。頭の上で厚志の舌打ちが零される。厚志はそのままバランスを崩して廊下の壁に激突したようだった。何とか隙ができた。
 息も絶え絶えに厚志を追い越し、若菜は廊下の突き当たりにあった非常階段へと続く扉を押し開けた。
 ――開けた途端に鋭い風がドレスを煽った。
 非常用の螺旋階段。他に道はない。
 重い扉を必死で押し開け、できた隙間に体を滑らせる。途中、左手の薬指にはめられた婚約指輪が視界に入った。静かな煌きが癪に障るくらい綺麗だ。
 ガァンという重たい音を響かせて非常用の扉が閉まる。
 若菜ならば重たい扉は時間稼ぎになるだろうが、相手が厚志では時間稼ぎになりそうもない。
 外では雪が舞っていた。
 螺旋階段の手すりに走り寄れば、地上まで結構な高さがあると知れる。密かに高所恐怖症である若菜は喉を鳴らせて顔をしかめる。焦燥した気分を抱えたまま螺旋階段の支柱に視線を向ける。
 ここで時間を食っている余裕はないのだ。厚志から本当に逃げたいと思うならば、もう一秒の猶予もない。
 吹き上げる風に煽られた若菜は唇を噛み締め、決意を固めた。
「最近じゃ、こんなことしてたら間違いなく頭おかしいと思われるよね」
 煽られたドレスを必死でたくし上げ、手すりに足をかけてよじ登る。高鳴る心臓を宥めながら手すりの上に立ち上がった。
 ――大輝に抱きしめられたとき、その感触がおぞましいと思った。唇の感触は嫌悪感しか抱かせず、思い出せば泣きたくなった。厚志のときはそこまで思わなかったのに。
 両手で柱をつかんでいたが、恐る恐る片手を放す。バランスを取るように水平に上げる。靴がヒールのため、足場は更に不安定。爪先だけを引っ掛けるようにして足を伸ばす。
 視界の端で非常扉が開かれた。
「来るなって言ってるでしょう!」
 視線を足元に固定しながら、視界に入った厚志に怒鳴りつける。
 厚志は手すりの上に立っている若菜に気付いて驚いた。その場で足を止める。
 まだ若菜が小学生だった頃、近所の男友だちと一緒に何度も挑戦した遊びだ。大人たちに見つかり、危ないから止めなさいと何度もたしなめられた。それでも好奇心と冒険心豊かな子どもたちは自ら止めることができず、腕を磨き続けたものだ。今考えると実に無謀で危険なことをしていたと思う。
 スニーカーの代わりにヒール。ジャージの代わりに白いドレス。心だけは子どものまま成長していないのかもしれない。
 靴の踵部分だけを手すりから外し、つま先立ちになるようにしてバランスを定める。我に返った厚志が手を伸ばしてきたが、その瞬間、若菜は手すりを滑り降りていた。
「若菜!」
 その声に振り返ることはできない。一瞬でも意識を取られればバランスを崩し、若菜は非常階段から投げ出されるだろう。その先に待つのは落下死しかない。文字通り、死の物狂いで若菜は逃げていた。
 厚志の舌打ちが遠ざかる。
 三階、二階――若菜は支柱に手を預けながら順調に滑り降りていく。ところどころ、手すりまで凍り付いていたので滑りは好調だ。けれど一階に辿り着こうとしたとき、若菜は「げ」と声を凍らせた。非常階段は除雪されていたのだが、そこから続く通路が除雪されていなかったのだ。
 まるで、非常階段を除雪した人物はそれだけで疲れ、ここから先はまた後でやるかぁ、とでもいったように残されている。
 若菜は想像上の人物に殺意を覚えた。
 雪の深さを見ると結構な量だ。
 そちらに気を取られた若菜は一瞬にしてバランスを崩した。手すりから足が外れ、螺旋で大きくなった遠心力のままに外へ投げ飛ばされた。若菜は悲鳴を上げながら落ちた。
 ボスリ、と何とも間抜けな音を立てて若菜の体は雪に埋まった。手足をバタつかせ、頭を雪の上に出す。
「あ、危ねぇ……っ」
 動悸を抱えながら起き上がる。こうなれば除雪されていなかったことが幸いだった。身動きが取りづらいドレスをまとっているし、落ちていくときに死を覚悟したくらいだ。雪の深さが適度だったため生き埋めにもならずに済んだ。本当に幸運だったと胸を撫で下ろす。
 もがくように起き上がって鼻を啜り上げると、頭上からカンカンという音が響いてきた。
 どうやら厚志は普通に螺旋階段を下りて来ているようだ。その音は近い。早く離れなければ、危険を冒した意味がない。
 ――昔の厚志だったら、私と同じように降りてきたはずだけどね。
 一瞬だけ寂しさを覚えた。
「さて」
 この際、超絶走りにくいヒールなど気にしていられない。どうせここからは除雪されていない雪の中を強行突破していくのだ。ヒールでも長靴でもかんじきでも、歩き難さの程度は一緒だ。
 名前を呼ばれたが、若菜は無視をした。誰が振り返ってやるものかと強い憤りを覚える。
「逃げるな!」
 そんな声が聞こえた気がした。
 けれど若菜は非常階段からホテルの裏口へと走り、従業員用たち専用だと思われる裏路地をひたすら走った。狭く入り組んだ路地はどこも似通っている。自分がどこを通っているのか分からなくなる。
 雪の中に埋もれているゴミ袋を飛び越え、ドレスの裾を壁に擦りつけ、綺麗に結わえられた髪も崩れ、すべてが台無しだ。左手が視界に入るたびに存在を主張する指輪まで煩わしい。外そうかと思ったが、そんなことのために時間を取られるのも馬鹿らしい。
「うわ!」
 前方不注意。
 厚志を撒くためだけに、とにかく突き進んでいた若菜は、角を曲がったところで行き止まりに出くわした。分岐点を色々と間違えたらしい。曲がり角だと思ったそこは、ただ単に他の壁より引っ込んでいただけだった。壁に勢い良く額をぶつけて涙目となる。眼鏡ではなかったことが幸いだ。コンタクトレンズは暴れるときに都合がいい、と若菜は実感した。
 引き返すしかないかと踵を返したとき、直ぐに近くから厚志の声が聞こえた。
「しつこいな」
 若菜は舌打ちして焦った。
 辺りを見回して唯一逃げられそうな細い路地を見つけ、そちらに走ったが直ぐに後悔した。単なる行き止まりだ。逃げられる場所はもうない。間違えたと思われる分岐点まで戻ろうかと思ったが、厚志と鉢合わせになる可能性の方が高い。
 今はまだ厚志の姿はないが、きっとまだ捜しているはずだ。ここに来るのも時間の問題だろう。厚志を完全に撒いて、人ごみの中に紛れるまで油断はできない。
 若菜は行き止まり付近に置いてあったゴミ箱に気付いた。そちらに走り開けてみたが、中には袋に包まれたゴミが沢山詰まっていた。この中に隠れるのは不可能だ。
 肩を落としたが、ゴミ箱の大きさは申し分ないと納得し、若菜は唇を引き結ぶ。
 ゴミ箱の裏に回り込んで、そこにしゃがみ込むと小さくなった。ドレスの裾がはみ出さないようにしっかりと握り締めたが、それだけでは心許ない。ゴミ箱の裏側で吹き溜まっていた雪を両手で掻き出して穴を掘る。僅かな窪みに入って小さくなる。これならば大丈夫かもしれない。
 若菜は息を殺した。
 ――1分が何時間にも感じられた。
 雪に直接触れたせいで体温低下が著しい。ただ黙って座り込んでいると芯から冷えていく。体の震えに気付き、止めようとしても簡単には止まらない。少しでも動けばゴミ箱の影から体が見えてしまうかもしれないので、そんな危険は冒せない。高鳴る鼓動が落ち着くまで深呼吸を繰り返し、痛みを訴える手を力いっぱい握って拳にし、ただ耐える。
 ――座り込んだ雪に暖かさを感じ、極限まで冷え切った体に麻痺してきた頃。
 若菜はそろそろいいかな、と顔を上げた。膝を抱いていた腕をぎこちなく解く。強張った肩に眉を寄せる。穴から出ようとすると、体全体に力が入らなくて、ただ前のめりに倒れただけだった。意識まで混濁していくようで、若菜は必死で瞳を凝らす。唇を噛み締めて、もがくようにして立ち上がる。揺らめいた体が壁にぶつかった。早く温かな場所に行って休まなければ凍傷になる。
 衝立代わりにしていたゴミ箱を振り返って、若菜は硬直した。
 行き止まり路地の入口には厚志がいた。丁度この場を通りかかったところだったらしい。もしかしたら何度か往復したのかもしれない。通り過ぎようとしていた厚志は若菜に気付いて驚き、その表情を強張らせる。
 ここは行き止まりのため、もう若菜に逃げる術はない。
 厚志は走らず、ただ不機嫌な顔で歩いてきた。
 若菜はただ呆然と、彼が近づいてくるのを待つ。もう少し隠れているべきだった、と後悔したが、体は限界に近い。もう少し隠れて厚志から逃れられても、そのまま凍死する可能性の方が高い。
「いい加減、逃げるなよ」
 厚志の言葉にギリリと奥歯を噛み締める。ようやく我に返って厚志を睨みつける。厚志のスーツは雪まみれだ。
 体全体にもう一度力を込め、近づいてきた厚志に走った。
 つかまる前に、厚志の腕を掻い潜って逃げようとしたのだ。ほとんど自棄で駄目元だった。
「若菜……!」
 苛立った声がし、若菜はうるさい、と眉を寄せる。
 ――右手は掻い潜った。時間差で伸びてきた左手にドレスをつかまれたが、しっかりつかまれる前に強引に振り解く。あとは全力で再び逃げるだけだ。
 けれど。
 二歩走って派手に転んだ。
 体温低下で上手く動けずバランスを崩したらしい。どうも自分は肝心なところでミスをする。まったくもってついてない。
 雪にめり込んだ頭を勢い良く上げ、憮然としながら「今度こそ」と起き上がる。逃げようと足を踏み出す前に、若菜はつかまった。
 強い力で腕を取られ、後ろへ掬い上げられるようにして引き寄せられる。肩を包み込む体温が痛い。
「死ぬ気かよっ?」
 思わず首を竦めるほど大きな声が頭上で響いた。抱いた若菜の肩の冷たさに驚いたらしい。
 厚志の体温に触れるまで、自分の体温がどれほどまで下がっているのか自覚がなかった若菜は、ようやく正常な感覚が戻ってきたかのように震えだした。尋常ではない寒気がして頭が痛い。厚志から離れたかったが、その温かな腕を放して欲しくなかった。
 若菜はしばし葛藤し、やがて強引に厚志を突っぱねた。
「いい加減にしろって言ってるでしょうっ?」
 厚志から離れただけで若菜は雪の中に倒れ、何とか力を入れて立ち上がる。見上げた厚志の表情は強張っている。
「私との婚約はただの契約! 演技を本物って勘違いしないで! 大輝先輩にあんな失礼なこと言って、よりにもよって大輝先輩の前で……!」
 顔を真っ赤にさせて思い出す。厚志から視線を逸らせた瞬間、視界が勢い良く揺れて体が何かにぶつけられ、衝撃に息を止めた。
「……っ?」
 両肩には厚志の手。背中には建物の壁。押し付けられたらしい。
 間近に迫った厚志の瞳には怒りがあった。読み取った若菜は恐怖を覚える。目の前にいるのは『男』なのだと再認識する。殺されるのかもしれないと思うと、意地も忘れて許しを請いたくなった。背筋が冷えて目の前が暗くなる。恐ろしさに口も開けない。いつか体験した悪夢が蘇ろうとしている。
 厚志の力がふと弱まり、殺気が消える。若菜の怯えを悟ったからかもしれない。代わりに厚志の瞳に宿ったのは傷ついた光。思わず腕を伸ばして抱き締めたくなった。けれどその前に厚志に抱き締められ、その強さに眉を寄せる。背中に回された腕が迷うようにさまよい、そのくすぐったさと暖かさに身をよじる。
「あいつが好きかよ」
 誰のことを言っているのか、直ぐに分かった。
「当然でしょう。厚志なんかと比べるべくもない」
 自分の声が自分の物ではないように思われた。これはもう条件反射と言ってもいい物だ。
 黙って厚志に身を委ねていると、不意に体が引き剥がされる。熱が離され寂しさが沸いた。厚志の表情は先ほどまでと打って変わって静かだ。間近で視線が絡んだまま吐息が近づく。
「俺が、本気で若菜を好きだって言っても?」
 唇が重ねられた。冷たい唇だったが、滑り込んできた熱は温かかった。
 口から鼻へ、ん、という音が抜けた。凍り付いていた胸の中が溶かされていくような感覚。厚志のスーツを握り締めて口付けに応える。
 厚志とのキスは嫌じゃない。もっとして欲しい。もっと触れて欲しい。けれど、そのキスが深まって息が乱れ、体が熱くなってくると恐れが湧く。
 若菜は潤んだ瞳を開け、伏せられた厚志の睫毛を見る。近すぎる距離に驚いた。微かに体を強張らせると厚志の瞼が震える。離れ、見つめられ、心が騒いだ。
「――嫌だ」
 厚志の表情が強張った。
 否定を紡いだ若菜は呆然としながら厚志を見つめ、その瞳に含まれる熱に体を引く。
 向けられる感情は本物だと知って嬉しくなった。しかし、その中に宿る情欲といった物が恐ろしかった。自分がその対象なのだと悟ると、歓喜と嫌悪感に苛まれる。若菜は強張った厚志の体から抜けると走り出す。
 混乱したままその瞳から逃げ出す。振り返る余裕もない。
 今度は、厚志が追いかけてくることはなかった。

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