契約が切れる時
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4.

 厚志から逃げ出した若菜は来た道を戻っていた。螺旋階段の非常口からホテルに戻ろうと思った。頭も胸も痛い。流れる白い息は薄く、一歩踏み出すごとに体重が軽くなっていく気がした。
 螺旋階段へと繋がる分岐点で、若菜は立ち止まった。厚志の気配はない。
 意識して呼吸をひとつ繰り返すと喉が悲鳴を上げた。
 若菜は重たい頭を上げて辺りを見回し、螺旋階段とは別の方向に足を向けた。しばらく歩くと除雪された歩道に出て、歩きやすくなった。遠くには街中に続くと思われる明かりが見える。
 酷く混乱していて、何も考えることができなかった。
 厚志にぶつけられた言葉が脳裏を過ぎる。その瞬間、泣きたい衝動に駆られて顔を歪め、唇を引き結んで瞼を固く閉じた。壁に手をついて体を支える。
「何で今更……」
 思わず洩らす。
 同時に、自分の気持ちにも気付いて歯痒さが込み上げる。
 思い出したのは、初恋を壊された瞬間のこと。
「ぜんぜん成長、してないじゃない……っ」
 拳を握り締めて壁に体を預けた。左手を持ち上げて婚約指輪を眺め、ふと自嘲する。
 厚志にはきっと応えられる。けれど忌まわしくは自分の体だ。無意識下で眠っていた幼い頃の恐怖に包まれ、どうしても受け入れられない。反射的に逃げてしまう。
 若菜はその場に座り込んで膝を抱え、額を膝に押し付けた。
「嫌い。嫌い嫌い嫌い嫌い」
 自分の腕を抱き締めて呪いのように吐き出す。厚志の元へ戻ろうかと思ったが、今あの瞳を直視する勇気がなくて足が動かない。頭が熱を持ってぼうっとして、立ち上がると視界が揺れた。喉が渇いて痛みを増す。
 ひとまずどこか温かな場所にいかなければと歩き出した若菜は双眸を瞠らせた。
 路地の終わりに大輝が立っていた。
 コートに身を包み、マフラーと手袋をしている彼は暖かそうだ。
 彼は路地裏の壁に背中を預け、何とはなしに人通りを眺めているようだった。
「大輝先輩……」
 呆然としながら若菜が呟くと、大輝が振り返って軽く瞳を瞠り、笑う。何も言わないまま手にしていたコートを若菜に被せた。それは紛れもない若菜のコートだった。なぜ大輝がそれを持っているのか。確信してこの場にいたからに違いない。
 若菜はただ大輝を見つめた。
 大輝は笑みを消して、若菜の額に手を当てた。
「ずいぶん無理したみたいだね。凍死するよ」
「はい……」
 若菜はただ頷いて大輝に腕を引かれた。操られるように歩き出す。
 街中はさすがに綺麗に除雪されていた。足を取られて転ぶ危険性が少ない。にも関わらず若菜の足取りは不安定だった。力が入らない。
 大輝に腕を引かれながら、若菜は伏せた瞳の瞼裏で厚志を想う。彼はあれからどうしただろうか。まさか、まだその場にいることはないだろう。
「阿部さんのお母さんね、今日はホテルに泊まるから、阿部さんによろしくって言ってたよ」
 若菜は顔をしかめた。大輝の前で暴言を吐くのも罵るのも憚られる。大通りを行き交う車のライトが眩しい。
「阿部さんはどうする? どこでも好きなところに送るよ。俺、今日はアルコール飲まなかったから」
 大輝の優しい声が耳に染みる。若菜は少しだけ鼻を啜り上げた。
「美智子先輩はどうしたんですか?」
「美智子も今日はホテル。彼女の本家が来てたらしいからね。そっちにつかまったよ」
「大輝先輩、傍にいてあげなくてもいいんですか。恋人役を任されたんでしょう?」
「ああ、それ」
 大輝は軽く肩を竦めた。
「当の本人が要らないって啖呵切ったんだよ。俺はお役目免除で、今は時間があるんだ」
 舗道の敷石を見つめた若菜は吐息を洩らした。大輝と共にいると時間がゆっくり流れているように思えた。厚志と共にいた先ほどまでは目まぐるしかったというのに。彼らが持つ時間の早さには極端な差があるに違いない、と若菜は思った。
 しばらく無言で進み、やがて大輝の車が停めてあるだろう駐車場に入った。
 どうやらそこは婚約披露が行われたホテル内の駐車場らしい。ホテルへの入口も見える。
 二人はエレベータで三階へ上がり、再び駐車場に出て歩いた。大輝の車までは直ぐだった。出かける前にエンジンをかけていたのか、それとも遠隔操作したのか、大輝の車にはエンジンがかかっていた。
「はい、どうぞ。阿部さん」
 当然のように助手席のドアを開けられた若菜は戸惑った。車内は暖房で温められている。窺うように大輝を見たが、彼は穏やかな笑みを湛えるだけで何も言わない。少しだけ首を傾げて促される。
 若菜はためらってから助手席に乗り込んだ。車の前を大輝が歩くのを見ながらシートベルトを締め、運転席のドアが開くと緊張する。
 大輝が乗ると微かに車が揺れ、冷気を遮断するように直ぐにドアが閉められた。


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 どこまで送っていけばいい? と問われた若菜は、迷いながらも自宅、と答えた。家以外に行くところが見つからない。置き去りにした厚志のことは常に頭にあったが、弁明するために彼の元へ行く勇気がない。いつの間にこんなに弱くなったのだろうと思いながら、若菜は流れる外の景色を眺めていた。
「先輩、通り過ぎて!」
 自宅付近まで近づいたときだ。
 若菜は思わず叫んでいた。
 大輝は何も言わずにその通りにする。
 ――自宅前に停まっていたのは厚志の車だった。
 若菜は反射的に逃げていた。自宅前を通り過ぎる一瞬、玄関前に佇みながら空を見上げている厚志の姿が見えた。
「阿部さん。どうする?」
 ひとまず速度を緩めながら走っていた大輝は首を傾げた。彼には若菜が叫んだ理由も分かっているに違いない。
 若菜は無言のまま俯いて自嘲する。なぜ自宅に厚志が来ているかもしれない、という想像ができなかったのだろう。自分には色々と他人を思いやる心が欠けているのかもしれない。
「行くところがないなら俺の家にでも来る? 小汚い安アパートだけど、眠る場所くらいは確保できるよ」
「え……」
「アパートにはほとんど寝に帰ってるだけのようなもので、ほんと、見たら驚くと思うけどね。でも、野宿するよりマシでしょう?」
 若菜は大輝の真意を探るように横顔を凝視した。住宅街を出て再び国道へ戻った大輝は、赤信号で若菜を振り返る。安心させるように微笑む。
「弱ってる阿部さんに手出しなんてしないよ」
 それはいつも若菜を助けてくれる、仕事上の先輩としての笑顔で、若菜は警戒心を解いた。安堵が胸に滲む。
 そんな若菜の変化を敏感に感じ取った大輝は笑う。
「よし。それじゃ決定ね」
 弾んだ声で大輝はハンドルを握り直す。
 既に若菜の中で大輝は安全圏におり、不動の地位を確立している。警戒心など元々働かない。もしも働いても、直ぐに消える。
 しばらく大輝の横顔を見ていた若菜だったが、自宅から離れるに従って心は落ち着き、シートにもたれた。ひとまず厚志とは距離を置きたい。一晩だけでも。
 そんな思いに、嘆息した。


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 大輝が借りているアパートは、彼が言う通り、お世辞にも『立派な』とは言えない代物だった。本当に、寝るためだけにあるようなアパートだ。彼のイメージとは合わなくて違和感が首をもたげる。
 カンカンと音を立てる、鉄骨の階段を上がって若菜は招かれた。
 部屋の中を見渡して、大輝は苦笑する。
「俺以外にはいないからさ。女の子にとっては何の面白味もない部屋だと思うけど」
「いえ、凄く――綺麗に片付けてるんですね」
 閑散としてる、と言いかけて言葉を選び直した。大輝は笑い声を上げる。雑多に散らかしている若菜の部屋とはえらい違いだ。
「とりあえず暖まらなきゃだね。いつまでもその格好は寒くない? シャワー使って、着替えは――あ、美智子のがあるか。ああでも阿部さんには大きいかな。しまった。何か買ってくれば良かったか」
「先輩、先輩。そんなに気を使わなくてもいいですから。私なら大丈夫です。泊めて貰えるだけで充分ですから」
 若菜はそのまま、玄関でも眠れますよ、という勢いで大輝を制した。良く分からない勢いだ。しかし大輝は首を振る。
「俺のところに来たからには風邪なんか引かせられないよ。そんなことになったら課長に殺される」
「そんなの……」
 決して本気ではない彼に若菜は苦笑する。それで風邪を引いても自業自得だと言いかけたが、大輝の瞳に押さえられた。
「課長の阿部さん好きは有名だからね。本当、阿部さんが入った年は、課長はこれ以上ないってくらいにご機嫌だったんだから」
 真摯な大輝の声につい笑い声を上げた。課長のそんな様子は容易く想像できた。
 その隙に大輝は若菜の腕を取り、玄関から引き上げて靴を脱がせた。若菜が戸惑っている間に浴室へ押し込める。
「阿部さんが上がってくる間に部屋も暖めておくよ。しっかり温まってから上がってきてね。阿部さんのお母さんから預かってきた荷物もここに置いておくから」
 どこから取り出したのか、若菜の手に女物の着替えが押し付けられた。若菜の物ではない。戸惑いに気付いたのか大輝は肩を竦めて「美智子のだよ」と告げる。ようやく納得できた。
 大輝は若菜の鞄も掲げて見せて、脱衣所の端に寄せて置いた。
「あの」
「うん?」
「厚志……呼ばないで下さいね」
 意気込んで言おうとした言葉は、瞬く間に違う言葉に置き換えられた。
 若菜は歯噛みして視線を落とし、苦々しく最後まで吐き出す。美智子の服を握り締めて踵を返す。大輝の視線を振り切るようにして脱衣所へ入り、扉を閉めると急かされるようにして服を脱いだ。
 大輝の家で、今、何をしてるんだろうか。
 笑いたくないのに笑いが零れる。最後に見た、自宅前で空を見上げていた厚志を思い出して目頭を熱くした。振り切るようにかぶりを振って仕度を整え、浴室に入った若菜は寒さに震えた。蛇口をひねると直ぐに水が出てきて悲鳴を上げる。しかし数秒も経てばお湯に変わり、若菜は全身を温めながら俯いた。
 細く長く、恐れるように吐息を洩らした。
 その瞬間だ。
 扉の向こうから賑やかな音楽が聞こえてきて、若菜は肩を揺らせた。シャワーの音に紛れてしまったが、自分の携帯の着信音だと気付く。そしてその音が、厚志の着信専用にしている音楽だとも気付いた。その瞬間、扉を開けて携帯をつかみたい衝動に襲われた。しかし若菜が実行に移すことはない。
 まるで見つかることを恐れるように浴室で小さくなり、シャワーを全開にして音を立てる。だがシャワーを脇に寄せて自分は寒さに震えている。着信音は長く続き、耳を塞ぎたくなったとき、唐突に音楽が止まった。
 若菜は肩の力を抜いてのろのろと手をシャワーに伸ばした。
 とめどなく流れ続けていたお湯を体に掛け直し、強張った表情を崩すように頬をつまむ。
「どうしよう……」
 そんな声が漏れる。
 若菜は途方に暮れるのだった。

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