契約が切れる時
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5.

 浴室から出た若菜は、居間でテレビを見ていた大輝を見つけて複雑な気持ちになった。本当に、自分は何をしているんだろうと思う。
 大輝が振り返った。
「やっぱり大きいね」
「すいません。迷惑ばっかりかけて」
 美智子の服は袖も裾も余って困る。苦肉の策として折り畳んだが、半分ほどムダになっている。美智子はどれだけ手足が長いんだと感心ついでに呆れてみる。
「俺にとっては迷惑じゃないけどね。むしろ阿部さんが近くにいてくれて嬉しいし」
「はぁ」
 笑顔で小首をかしげる大輝に、若菜はあいまいに頷いた。こちらの心の負担を軽くするためにそんなことを言ってくれているのかもしれない、と考えて更に落ち込む。
 ふと壁時計を見ると夜の11時だった。普段の若菜ならば眠気を覚えている時間だ。しかし今ばかりは目が冴えてしまっている。静かにしていると鼓動を刻む音まではっきりと聞こえてくるようだ。
 大輝の向かい側に腰を下ろし、若菜はテレビのニュース番組に視線を移した。
 直ぐに大輝が立ち上がる。その背中を目で追った若菜は、ビール缶を持って戻ってきた大輝に眉を寄せた。
「はい、どうぞ」
「気を使わないで下さいって!」
「いや、単に俺が飲みたかっただけ。遅れて行ったから会場ではほとんど食べてないし、アルコールだって飲んでないからさ」
「そ、そうですね」
 会場で大輝たちに出会ったとき、彼らは外套を着ていた。本当に着いたばかりのときに出会ったのだろう。あれから直ぐに大輝を外へ連れ出したのだから、彼は食べてる暇などなかったはずだ。
 若菜は蒼白になりながら思い返した。
「それじゃ、私が注ぎますから」
 立膝になった若菜は大輝からコップを奪う。今しも若菜側のコップに注ごうとしていた大輝からビール缶も奪った。意識してビール缶を傾け、泡が立たないように、手に力を込める。
「……阿部さんって裏表がないからいいよね」
「はい?」
 注いでいる最中にそんなことを言われ、声が裏返った。手が震えたが、寸前でビールが零れるのを回避する。若菜は顔を真っ赤にしてひとまず安堵した。半分ほど軽くなった缶を置いて、大輝を見る。
「うちの仲間は皆で感心してるよ。本当に良くできた女の子だって」
 若菜の頬が引き攣った。
 ほとんど素を知られていると思っていた大輝から、まさかそのような言葉が出てくるとは思わなかった。やはり彼も騙されている口だろうか。
「それは、どうも……ありがとうございます」
 まったく感謝が込められていない口調に大輝は笑う。
「ほら。まるっきり隠そうとしてないじゃない?」
 彼は何を言いたいのだろう。若菜は意図が見えずに首を傾げる。厚志のときのように胸倉つかんで問い質すわけにもいかないのであいまいに眉を寄せるだけだ。注がれたビールを一口飲んだ大輝が微笑む。
「阿部さんは嘘がつけないよね」
「そんなことはないと思います。先輩がどう思ってるか分かりませんけど、嘘つくことだって、忌々しく思うことだって、沢山あります。人前で出さないように、猫かぶってるだけです」
 普段なら決して口外しないことを口に出したのは何故だろうか。
 若菜は不貞腐れたように頬を膨らませて視線を外した。居住まいを正して奥歯を噛み締める。注がれていたビールを、沈黙を紛らわすように飲んだ。苦い後味が残って、鈍いアルコールの匂いが鼻に抜ける。
「阿部さんは1つのことをしてると、他のことができなくなるよ」
「何が言いたいんですか、先輩? 私の不器用さは今に始まったことじゃありませんよ」
 訝るように大輝を窺う。真剣な瞳が若菜を捉えていた。その瞳が何だか恐ろしく、若菜は慌てた。必死で平静を装うと瞳に力を入れ、改めて大輝を見つめた。
「他人の前で猫かぶるなんて、誰もがやってることだよ。俺だって美智子だって、全部を周りにさらけ出してるわけじゃないしさ」
 缶を傾けられて、再びコップにはビールが注がれて。若菜は軽く頭を下げてそれを受け取る。注がれてしまえば飲まないわけにはいかない。再び一口飲む。喉が渇いてきたところだったのでちょうど良い。熱い塊が胃の中に落ちていく。お返し、と大輝にも注いだ。
「俺が尊敬してるのは、猫かぶりも素も、阿部さんは本気でそれに向き合ってるってこと」
 目を丸くして大輝を見ると、彼はニコリと笑った。その笑顔はいつもより大輝を幼く、無邪気に思わせる。
「俺だったらさ。物凄く乗り気しない仕事を誰かに押し付けられたら、本当に腹が立つ。丸々そいつに押し返す。それか、押し付けた相手のミスに見えるよう、考えながら手抜きして仕事する」
「え、ええっ?」
 とんでもない告白を聞いた若菜は仰天した。本当にそんなことをしているとは考え難い。半分ほど冗談だろう。
 大輝は若菜の反応に笑い出す。
「つまり、腹の底では真っ黒いこと考えながら猫かぶってても、他の奴らには穏やかな気質に思われてるってこと。俺、これでも演技歴は長いよ」
「ええと……」
 困惑して視線を逸らす。しかし大輝の視線はいつまでも若菜から外れない。その視線が真摯なものであるため、若菜は落ち着かない気分になる。
「その点、阿部さんは本気で嫌だと思っても、引き受けたら精一杯やろうとするし、どうしても出来ないと思えば断る。どちらにしても、直ぐ顔に出るからね」
 純粋な褒め言葉なのだろうが、最後の言葉に若菜は複雑な気持ちになった。
 そんなに分かりやすい顔をしていたのか、と過去を思い出して呪いたくなる。緊張も手伝ってか、本の少ししかアルコールを口にしていないのに酔ってきたのが分かる。眉を寄せる。
「だから厚志君にも本気なんだと思うよ」
 さり気なく付け足された言葉に、本気で驚いた。落ち着かせようとしていた心臓が途端にうるさくなる。顔が紅潮するのが自分でも分かる。何を言うべきなのか分からなくて大輝を見つめたが、大輝もまた、そんな若菜を見つめていた。
 若菜は視線を外した。
「……好きだったら何をしてもいいのかって、そう思いませんか。同じ男としてどう思いますか?」
「そうだね。好きな人には優しくしたいよね」
 和むような瞳で笑い、大輝は頷いた。その言葉に勇気を貰った若菜は勢い良く頷いた。
「自分が不幸でも相手が幸せならいいや、なんて、思えれば確かに立派だけど。偽善者みたいな、そんな言葉、思ったりはしませんけど。でも! そんな純粋な気持ちを忘れては駄目ですよね」
 自分も幸せになれるなら言うことなしだが。
 涙ぐんで顔を上げた。
「男なんて皆、自己中で馬鹿で救いようもない弱虫で。だから世の中、女性が強いだなんて言われるんですよ。真実です。男は体だけじゃなくて精神も強くなくちゃ、駄目なんです!」
 大輝は笑い出した。なぜそれほど笑うのか。若菜が疑問に思うくらい、腹を抱えて大輝は笑う。
 若菜はアルコールのせいで揺れる視界を理解しながら拳を握り締めた。これくらいのアルコールで倒れるなど青天の霹靂だ、と堪える。
「だいたい。小学校一年生の段階で私の初恋をぶち壊したってことが、いまだに燻る原因なんですよ。私が好きなら最初から正面切って言えば良かったんだ。遠回りしてぶち壊すなんて、フェアじゃない。あれしきのことで逃げ出す初恋の人も、今じゃ呆れる存在だけど」
 無性に泣きたくなって唇を引き結んだ。不明瞭になる意識を自覚する。何でもいいから眠りたいと思った。大輝の言葉が木霊する。
「……でも、小学校一年の男なんて、みんな根性なしのガキだよ。クラスの仕切り屋みたいな女はうるさいし、いさかいを起こしたくない女はずるいし、男は馬鹿だし。だいたいあの頃って、大抵は男より女の方が大人びた考え持ってたんだよね。俺もその頃は泣いてばかりだった」
 若菜は無言でその声を聞いていた。
「ほら。一般にも女性の方が、精神成熟が早いって言うし。阿部さんが言うような精神を一年生に求めるのは酷なんじゃないかな。その頃の子どもにとって、環境って大事だよ。今の俺たちには些細なことでも、あの頃の子どもは鋭利に感じ取ってしまうものだし」
 大輝の言葉が胸に響くたび、反発して言葉を探そうとする。しかし心のどこかでは納得してしまっており、言葉が見つからない。そういう物だと割り切るしかない。納得して付き合っていくしかない。一年生の少年にそこまで強さを求めるのが間違いだ。
「でも」
 しぼり出すように若菜は呟く。
 圧迫される闇の中。頭のてっぺんが引き絞られていくようだ。重力を感じなくなる。
「壊したのが厚志だったから……その衝撃も大きかったんだよ」
 あらかじめ言っておいてくれていたら、若菜は若菜で精一杯考えただろうに。
「いいです! 私もう考えません」
 強引に締めくくってかぶりを振る。鈍痛が頭に響いて吐き気がする。瞳を固く閉じて宣言した。理由の分からないわだかまりが腹の底でうごめいているような、嫌な感覚があったが、無理に気付かないフリをした。
 ため息をつくと笑い声が振ってくる。見上げると、位置を移動してきた大輝が目の前にいた。その近さに驚きながらも若菜は表には出さないよう努め、首を傾げる。
「先輩?」
 大輝は笑みを湛えていたが、沈黙がなぜか恐ろしくて若菜は冷や汗を流した。隣に寄ってきた大輝が肩を竦めて口を開こうとしたとき、どこからか携帯の着信音が流れてきた。二人は弾かれたように振り返る。
 自分の携帯だ、と気付いた若菜は表情を強張らせて脱衣所へ向かった。荷物を置きっぱなしにしてあった。
 厚志から着信があったことを忘れていたわけではない。できれば一生忘れていたい。しかしここで出なければ延々と掛け続けられるだろう。現に今、響いている着信は厚志からのものだ。大輝を待たせている状態で何度も鳴らされては困る。
 若菜は忌々しい思いで鞄を探り、手に触れた携帯のディスプレイを凝視した。
 ――斎藤厚志。
 いまだ鳴り止みそうにない仰々しい音が部屋に響く。予想に違わない名前に唇を噛んで、電話に出た。
「……もしもし」
 何を言ったらいいのか分からない。押し殺した声が響く。受話口の向こう側から、ためらう気配が伝わってきた。
『今どこにいるんだ?』
 若菜は間を空けた。携帯をつかむ手に力を込める。
「どこだっていいでしょ」
 厚志のため息が聞こえてきた。
『とにかく帰って来い。話がある』
「わ、私にはない」
『お前の都合なんて知ったことか。俺が話したいって言ってんだから、さっさと帰って来い』
「何よそれっ? 私を動かしたいならそれ相応の誠意を見せろ!」
 頭に血が昇って罪悪感など吹き飛んだ。厚志の傲岸不遜な態度が目に見えるようだ。一時でも心配した私が馬鹿だった、と手を震わせる。
「そんな言葉で誰が帰ってやるか!」
『外じゃないな』
「は!? 何!?」
『声の響き方が違う。どこにいる? わずかに反響して聞こえてくる』
 若菜の心臓が飛び跳ねた。慌てながら首を振る。関係ないでしょう、と厚志を突き放す。とにかく私は帰らないから、と電話を切ろうとしたとき、背後の引き戸が音を立てた。
「阿部さん。厚志君から?」
「だっ」
 その声が聞こえた瞬間、若菜は飛びあがって電話を切った。その寸前、厚志の声が聞こえた気がしたが、何を言ったのか分からない。若菜は引き攣った顔で大輝を振り返った。
 もしかして大輝は確信犯なのだろうか。彼は何の罪悪感もないような顔で笑っている。先ほど聞いた、彼の裏の顔を思い出す。
「せ、先輩」
「帰らないの?」
「か、帰りません。このまま帰ったら、厚志の言うことに従ったみたいじゃないですか」
 嫌な汗を手で拭ってそっぽを向く。大輝は楽しげに笑った。
「ふぅん。ねぇ阿部さん」
「はい?」
 ちょいちょいと手招きされ、若菜は携帯をポケットに突っ込むと大輝に近づいた。廊下に出て、居間から流れてくる温かな空気に包まれる。次いで若菜はもっと温かな腕に抱き締められた。
「先輩っ?」
 驚き、慌ててもがいたが拘束が強くなるだけだった。予測もしていなかった事態に一瞬でパニックに陥る。冷静な部分が「大輝は敵じゃないから大丈夫だ」と囁くが、見る間に膨れた恐怖はその言葉を理解しなかった。
「あのね、阿部さん。もう分かってると思うけど、俺は阿部さんが好きなんだ。正直、厚志君には渡したくないと思うし、阿部さんがここにいることを嬉しく思う」
 若菜は硬直してその言葉を聞いていた。
 力で敵わないことははっきりしている。下手に暴れて体力を消耗するより、頑なになっていた方が相手を怒らせないし、うるさい奴だと暴力を加えられることもない。どうせ避けられない痛みなら早く終わらせることができるように、相手に任せてしまえばいい。
 若菜は大輝の声を聞きながらそんなことを思っていた。そんな自分に驚きながら納得する。恐れていたのはこういうことか、と。
「阿部さんは警戒心がなさ過ぎるよ。ううん、自分を受け入れた者に対しての警戒心、かな。他部署の男たちには完璧すぎるくらいの警戒心持ってるもんね。俺にとってそれは嬉しいけど――今は複雑」
 大輝の腕が外された。若菜は微かによろめいて壁に背中をつけ、彼を見上げる。複雑そうな表情で笑われる。
「今、俺のことを拒否しようとしたろ?」
「あ……」
「違う。怒ってるんじゃなくて。いや、怒ってるのは怒ってるけど、阿部さんを嫌いになる怒りじゃなくて。阿部さんは拒否していいんだよ。そのことで嫌われることを恐れなくてもいい。阿部さんに受け入れられた奴らが、理由も考えずに嫌いになるわけないだろ? だから……もう少し、警戒心を養って」
 若菜は背中に汗が滲むのを感じた。視線を逸らす。唇を引き結ぶと涙が零れ、更に俯いた。良かれとして来たことが裏目に出ていたのだと知り、大輝に対してはずいぶん酷いことをしてきたのだと悟り、言葉もない。
 大輝が苦笑した。
「何もしないとか言っときながらこのざまだけど。次にこんなことになったら俺、絶対襲うからね。それで拒否されたらさすがにへこむからさ」
 若菜は視線を落としたまま頷いた。
「じゃ、家まで送って行こうか?」
 若菜は思い切りかぶりを振った。顔を上げると大輝は困惑していた。
「厚志君に応えてあげないの?」
「そ、れは!」
 瞬時に厚志の姿が脳裏に浮かぶ。邦光が死ぬかもしれないと震えていたときのように、寂しそうな表情をしているかもしれない。今すぐ駆け寄って抱き締めたい。しかし、若菜は息を整えて拳を握り締める。
「それは、まだ、心の準備ができてないから。今日はひとまずホテルにでも泊まります。家にはどうせ厚志がいるだろうし、明日になれば……きっと、気持ちの整理ができてると思いますので」
 一度落ち着かないことには厚志と話もできない気がした。
 そう告げると大輝は嬉しそうに微笑んで頷いた。
「頑張ってね」
 励まされて癒される。彼はたったいま失恋したばかりだと言うのに、とても優しい。こんな人を振ってしまったのだと思って、若菜は少し残念な気持ちになった。応援してくれる彼のためにも、かの敵には今度こそ素直にならなければと、そう思った。

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