契約が切れる時
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6.

 早朝、市内のビジネスホテルをチェックアウトした若菜は自宅に戻っていた。いつだったかストーカーに襲われた神社を通り、自宅を眺めて誰もいないことを確認する。さすがに厚志は一晩中待っていることはしなかったようだ。
 緊張しながら鍵を開け、玄関に踏み込む。由紀子はまだホテルだろうか。家の中は閑散としていた。そういえばドレスを大輝の家に忘れたままだったことを思い出し、後で取りに行こうと思った。
 もしかしたら厚志が勝手に上がりこんでいるかもしれないと思ったが、家の中は拍子抜けするほど静かだった。
 ひとまず部屋に戻って着替えてしまおう。いつまでも美智子の服でいるわけにはいかない。
 壁時計を見ればまだ朝の7時だ。今日は出勤日だが、若菜は年休を取っていた。仕事一筋で年休など滅多に取らなかったため、年休管理簿にはまだ結構な日数が残っていた。初めて管理簿を見た若菜は驚いたものだ。早目に消化しなければ捨てるだけになるのでもったいない。今後は計画的に休んで行こう、と若菜は考えた。
「さて……」
 テーブルに投げ出されていたパンを頬張り、簡単に腹を満たした若菜は呟いた。
 厚志は今日、必ずここに来るだろう。しかし待つ時間が苦痛だ。自分から彼のマンションに出向こうかと思ったが、入れ違いになる可能性と、管理人室の前で締め出される可能性を考えて踏み出せない。
 時計の長針が五分を指す。待つことに早くも飽きた若菜は、先にお風呂でも入ってしまおうかと自室に戻った。
 大輝のアパートでシャワーを使わせてもらったとは言え、他人の家ではゆっくりしていることもできなかった。披露宴での煙草の匂いが、まだ体中に染み付いている気がする。
 携帯を開いて誰からも着信が入っていないことを確認し、若菜は着替えを揃える。
 誰もいない家というのは落ち着かない。一階へ戻るときにわざと大きな足音を立てて駆け下りてみる。由紀子はいつ頃戻ってくるのかとふと思い、ついでに純一を思い出して顔をしかめた。
 結局は彼の言う通りになってしまったわけだ。
 そう思うと無性に癪に障った。厚志との関係が上手くいったら協力して純一を困らせてやろうと決意する。きっと厚志は快く協力してくれることだろう。そのときのことを思うと自然に笑みが零れる。
 若菜は風呂場の温度を調整すると一度居間に戻った。風呂焚きが終わるまで、またしばらく暇になる。
「あ、そういえば指輪……」
 左手に嵌められているピンクの指輪を見る。厚志から贈られた婚約指輪だ。政府から支給された指輪は首に掛けられている。
 ストーブの前で膝を抱え、いざ厚志に会ったら何から言おうか頭を悩ませる。再び緊張してくる。
 そのとき、外に車の音が響いた。若菜は弾かれたように飛びあがって窓に近づく。外を見れば厚志の車が停まっていた。厚志が下りてくるところだ。
 先ほどまで安穏としていた心臓が突然激しく鳴り出して呼吸が苦しくなった。
 まだ言葉を考えていなかった、と焦る。厚志の姿が玄関に向かうのを見送りながら視線をさまよわせる。けれど無情にも時間は止まってはくれず、玄関が開く音がした。
 こうなればぶっつけ本番、自棄だ。
 若菜は顔をしかめながら玄関に向かう。そこにあった厚志の姿になぜか衝撃を受けた。嬉しいものではない、逆にそれは、不安な予感をさせる衝撃だった。
 若菜を見た厚志は疲れたようにため息を吐き出して視線を落とす。昨夜から迷惑と心痛ばかりかけていたのだから、それも当然だ。若菜は無言のまま厚志に近づき、彼の前に立つ。
「あの……」
 若菜の言葉を待たず、厚志は若菜の左手を取った。そしてそのまま無造作に婚約指輪を引き抜いた。
「これで俺たちの契約は終了だ」
 平淡な声。昨夜の情熱的な言葉とは裏腹に、そこには何の感情も含まれていないように思えた。ただ淡々と事実のみを伝える。その声はとても冷たく若菜を突き放した。
「厚志?」
 左手は直ぐに放される。空虚な気持ちで胸に引き寄せた。婚約指輪など大した重さはなかったはずなのに、極端に軽くなった気がした。
 指輪を外した厚志はそれを小さな箱に収め、ポケットにしまう。そのときに見えた彼の手は怪我をしているように擦り切れていて、血がかさぶたになっていた。もしかして昨日、置き去りにした後に何かあったのだろうか。
 言葉は脳裏を巡るだけで声にはならない。
 泣き出したい気持ちで厚志を見つめていると、ようやく彼の視線が若菜に向けられた。ただし今までの優しい瞳はそこにない。まるで憎むかのように鋭い敵意を含んだ瞳だ。
「本望だろう?」
 強烈な皮肉だった。
「これで俺との関係は一切ない。もう、若菜の前には現われないから」
「ちょっと厚志!」
 こちらが一大決心したばかりだというのに、こいつはまた何を言うのかと、若菜は焦って叫んでいた。けれど厚志は聞く耳持たない。そのまま去ろうとする。
「た、確かに契約は婚約披露までだったけど、何でいきなりそんな」
「これからお前にも俺にも、二ヶ月の縁談免除が与えられる。良かったな。一万浮いたぞ」
 その言い草に若菜は腹を立てた。
「失恋申請は俺がしておいてやる。若菜には今日から、今まで通りの日常が戻ってくるわけだ」
「そんなの! ――私を安西さんたちに引き合わせたのは、彼らを本当に安心させたかったからじゃないの?」
 卑怯な言葉だ。ここに来てまで言葉を繕う自分に顔をしかめる。厚志はそんな言葉を一笑した。
「上辺だけの恋人で、あの人たちが本当に安心するわけないだろ」
「だ、だから……上辺だけじゃなくて、本当の恋人になってやろうって、言ってるじゃない……!」
 真っ赤な顔で怒鳴りつけると沈黙が流れた。微かに瞳を瞠らせた厚志だが、その雰囲気はとても喜んでるとは言い難い。厚志の気持ちが途端に分からなくなって、若菜は不安を抱いたまま黙り続けた。
 厚志の瞳が若菜に向けられた。微かだが、表情が強張っている。
「もう一つの借金の件なら要らないと言ってただろ」
「借金に縛られてるんじゃない! そうじゃなくて!」
 たった一つの言葉が出てこなくて、若菜はもどかしく足を踏み鳴らせた。赤い顔で縋るように厚志を見つめる。どこまで虚勢を張るつもりなのかと、いい加減自分自身に呆れてくる。
 ふと、厚志が微笑んだ。虚を突かれた若菜は瞳を瞠る。
 厚志の腕が伸ばされ、その力に逆らわず、引き寄せられる。黙ったまま抱きしめられて口付けを交わす。しかし直ぐに、それは離れて。
「――言わせてもらえば」
 厚志は耳元で囁いた。
「単なる保護者も俺はゴメンだ」
 訂正しようと若菜は口を開いたが、厚志はそれを許さない。
「そして」
 若菜を解放した厚志は体を離す。続いた言葉に、若菜は瞳を見開かせる。
「俺との婚約披露が終わったあと、他の男と一緒にいたがるような恋人なんてのも、俺は要らない」
 向けられた瞳には怒りが込められていた。初めて見る厚志の、そんな怒りに若菜は一言も発せない。急速に目の前が暗くなっていく。ただ立ち尽くす。
 若菜の視線が厚志の手に落ちた。昨夜まではなかった怪我。
「先輩に、会ったの?」
「殴ってきた」
 若菜の腕が震える。
「私が先輩のところにいた、理由も聞かないで……?」
「理由なんて必要ない。ああ、それと。お前が昨日着てたドレスは俺が引き取った。だからあいつの家に、取りに行く必要はないからな」
 誤解だと叫ぼうとしたが、予想以上に厚志が傷ついているような気がして何も言えない。厚志の言葉に自分が傷つけられても、それは当然のような気がした。ただ受け止める。
「あいつならお前も安心なんだろ」
 そう言って、厚志は右手を掲げた。
「これも俺から返しておくから」
 その右手には銀の鎖があった。鎖の先では政府から贈られた恋人指輪が揺れている。無意識に自分の首に触れた若菜は、そこから鎖が外されていたことに気付いた。先ほど厚志に抱き締められたときに外されたのだろう。
「じゃあな。阿部さん」
 厚志が背中を向け、そう締めくくって玄関を見る。
 若菜は追いかける勇気もない。ただその背中を見送った。


END
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