キッカケをつかむまで
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1.

 由紀子が帰宅したのはお昼近くだった。
 純一を伴っての帰宅。二人は若菜が先に帰宅していたことに驚いたが、厚志のことは追及せず、婚約披露のことを口にすることもなかった。純一は玄関先で由紀子と別れ、若菜と言葉を交わさないまま帰って行った。それが若菜にとってはありがたい。
 そのまま何をするでもなくストーブの前に座り込んでいた若菜の様子に、さすがに由紀子が妙だと思ったのか、おもむろに体温計を差し出して熱を測るように命令する。
 あまりにも色々なことが起こり過ぎた。だから、熱を出したのだ。
 体温計は平熱をはるかに超える熱を示した。
 布団に横になって天井を見上げ、ようやく熱い何かが込み上げてくる。眉を寄せて寝返りを打つ。固く閉じた瞼の間を縫って涙が滲み、枕を濡らす。
 失恋した、という想いがジワリと胸に広がる。それは体のすみずみまで浸透し、手足を動かす気力さえなくなって、ため息をつく。
 失恋とはこんなものか、とこんな時だが若菜は笑いたくなった。初恋が壊されたときもこんなだったかと思い出そうとしたが、失望した場面は思い出せても、その後のことがどうしても思い出せなかった。だから今回のような事態は初経験だ。何も考えられず、何も考えたくない。ただ胸に穴が空いたようで、虚しさが押し寄せる。
「もう……」
 再び寝返りを打って、ただ言葉を零す。眠れば確実に厚志の夢を見そうで、顔をしかめる。体中が悲鳴を上げていた。これで死んだらお前のせいだぞ、と毒を吐く。そんなことをしても、聞く者は戻ってこないのだが。
 仕事を休んでいて本当に良かった、と若菜は大きく息を吐く。
 何も喉を通らず、夜になれば熱は更に上がって39度を超えた。
 病院へ連れて行こうか迷う由紀子に若菜は否定し、明日になれば治ると豪語して、そして次の日、本当に熱を下げた。前夜にうなされていたとは思えないほどの回復っぷりを由紀子に見せる。
 不思議だったが、その日は出勤日。心情とは裏腹に、仕事を休むわけにはいかないと、体が自然と熱を下げたのかもしれない。
 けれど出勤する時間が近づくにつれて心は重く沈んでいく。会社へ行けば必然的に大輝と顔を合わせるだろう。そうすれば厚志とのことを話さなければいけない。それを考えると憂鬱だ。
 このまま今日も休んでしまおうか。
 若菜にしては珍しくそんなことを思い、時間ぎりぎりまで思い悩んだ。いつまでもストーブの前から離れない。
 そんな若菜をどう思ったのか、由紀子は首を傾げながらも深くは追求しない。それも珍しいことで、若菜は居心地悪くなる。仕方なく、重い腰を上げて仕事用の鞄を引き寄せたときだ。インターホンが鳴り、若菜の心臓が飛びあがった。
「誰かしら?」
「私が出る!」
 台所にいた由紀子を制して若菜は玄関に向かう。
 早鐘を打つ心臓を宥めながら玄関の鍵を開け、緊張で険しくなった顔を上げる。
 目の前に佇む人物は微笑んでいた。
 若菜はしばし、呆然とする。
「おはようございます、若菜さん。今日はずいぶんと寝坊されたようですね」
 目の前にいたのは島田だった。
 若菜は髪の毛を整え、苦笑して一歩後退する。途中まで本気で今日は休もうと思っていたため、髪もとかしていなかった。
「おはようございます」
 驚きから覚めやらぬ顔で挨拶を返す。窺うように彼の周囲を確認してしまう自分が悲しく、次第に腹が立ってきた。馬鹿な期待をしてしまった自分にも、思い通りにならない周りにも。単なる八つ当たりだと分かってはいても、若菜は重いため息をつく。
 一度視線を落としてから再び島田を見据えた。
「厚志から聞いてないんですか」
 単刀直入に、若菜は訊ねた。
 その攻撃的な口調に島田は瞳を瞬かせる。しかし再び柔和な笑みを浮かべると、ゆっくりと頷いた。
「窺っておりますよ」
「それなら、私を迎えに来るのは丸っきり無駄な行為だと思いますけど」
「それは心外ですな。私は純粋に若菜さんの送迎を楽しんでおりましたのに」
 チクリと若菜の心が痛んだ。
 島田の視線が逸らされ、家の奥へ向けられる。つられてそちらを見た若菜は顔をしかめた。由紀子が若菜の鞄を持って、玄関へ来るところだ。
「おはようございます、島田さん。いつもありがとうございます」
 由紀子はそう告げると、立ち尽くす若菜にコートを押し付けた。
「いつまでも待たせてるんじゃないの。さっさと行ってらっしゃい」
 渋る若菜に力づくでコートを着せ、前ボタンまで留めて、由紀子は鞄を持たせると若菜の背中を押した。為すがままになっていた若菜は当然よろけ、島田の胸に飛び込む形になる。慌てて謝るが島田は楽しそうに笑い、鞄を引き取って踵を返した。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
 自分の意志などお構いなしに出勤させられるらしい。
 化粧もしていない若菜は苛々と「あー」と声を出し、背後で手を振る由紀子を睨みつけ、自棄になって島田を追いかけた。
「――島田さん」
 昨夜、由紀子が除雪したと思われる道が続くなか、彼は確かな足取りで車へ戻る。足場は凍って滑りやすい。若菜は何度か転びかけた。
 息を切らせて島田に追いつき、彼に促されるまま車に乗って一息ついて。暖房の音を聞きながら若菜はようやく口火を切った。
「無駄だと思わないんですか」
「思いませんよ」
「……どうして? 私はもう必要ない人間なんですよ」
 自嘲気味に呟いた。島田がバックミラー越しに若菜を見る。
「それを決めるのは若菜さんではなく私ですよ。それとも、誤解されるような態度を私は取ってしまいましたか?」
 若菜はかぶりを振る。
「でしたら私を信じてください。若菜さんは私にとって必要な方ですから」
 それは厚志のために? と、まだ立ち直っていない若菜は訊ねようとした。けれど口を噤み、堪えて代わりに細い息を吐き出す。そうそう自虐心の強い方ではない。一度浮上するキッカケをつかんだなら見失わない。振り切るようにかぶりを振る。
「ありがとうございます」
 まだ当分痛みは続くだろうが、強引な笑みを作って島田に応えた。
 島田は嬉しそうに頷いて微笑みを返す。
「こう見えて私はわがままな人間ですからな。本気で嫌だと思えば、上からの命令だろうとためらいなく職務放棄しますよ。逆に、本気でしようと思えば命令されなくてもしますからね」
 若菜はためらった後、恐る恐る訊ねた。
「契約解除、されないんですか?」
「なんの。それで職を失おうと本望ですから。家内も納得するでしょう」
 若菜は唖然と口を開き、やっぱり送迎はいいです、降ります、と言おうとしたが、島田に遮られた。
「けれど、今回はそんな危険はなさそうですよ」
「え?」
「私がいまだこうして若菜さんを送迎していますのは、もちろん私の希望もありますが、厚志様もご承知のことでございますから」
 若菜の心臓が高鳴った。
「若菜さんはトラブルに巻き込まれやすい体質のようですからな。自分が手を引いたら、若菜さんを守る者がいなくなると心配しておられました」
「嘘だ。厚志がそんなこと」
「若菜さんに嘘などつきませんよ」
 島田は唇を尖らせた。それは彼を子どもっぽく見せ、若菜は何となく可笑しくなる。
「厚志様も素直ではありませんから。一度解けた繋がりを直すのは容易ではありませんが、若菜さんはそれで諦めませんよね?」
 少しだけ、島田は心配そうに若菜を窺う。
 若菜は即答できない。
 手の平に嫌な汗が滲み、厚志に拒否された昨日のことが蘇る。二度とあのような痛みはごめんだと叫びたい。逃げ出したい。けれど、島田を裏切りたくない。それでも、それ以上に、あのような痛みはもう覚えたくない。
「私は――」
 視線を漂わせた若菜に島田は慌てた。
「申し訳ありません、言葉が欲しいわけではないのです。急ぎすぎました。言葉は――私ではなく、厚志様に伝えてあげてください」
 もしここで若菜が早計に否定を紡いでいたなら、揺れていた心は定まり、覆ることはないだろう。それを島田は知っているのか、若菜が答えることを許さなかった。彼も恐れているのかもしれない。
 後部座席に乗っていた若菜は、助手席の背もたれに抱きつくようにして視線を落とした。

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