キッカケをつかむまで
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2.

 いつもより少しだけ遅い出勤。休む前は、いつもより少し早目に出勤して机の整理をしようと思っていたのに。
 島田に見送られた若菜は自社の玄関口に佇み、そこから伸びる階段を睨んだ。ここにきて再び憂鬱になる。島田から勇気は貰ったが、それは厚志と対面できるほどのものではない。もう少し落ち着かなければ、たとえ厚志に会えたとしても、再び傷つけるしかできない気がした。
 足の重たさを感じながら階段を下り、活気付く周囲を通り抜ける。
 若菜の出勤時間がいつもより遅いため、周囲も違う。いつもは若菜が一番乗りで廊下は閑散としているが、今日は就業前の開放的な声が聞こえてきた。なぜか若菜は焦って階段を昇る。
「あ、阿部先輩。お早う御座います」
 階段の上から可愛らしい声が降ってきた。
 顔を上げれば後輩が手を振っている。彼女の反対の手にはポット。若菜がいない間もしっかりと務めは果たしてくれていたらしい。若菜は安堵して笑みを浮かべる。
「お早う」
 軽く手を振り返すだけで彼女に応えた。それ以外の言葉は持たない。彼女もそれは分かっていたのか、奇妙な沈黙が流れる前に給湯室へと急ぎ向かう。若菜はその後ろ姿を見送って階段を昇る。
 ふと、更に頭上を見上げた。
 屋上まで行けば厚志がいる。緊急に設けられた特別室だ。
 若菜は無意識に足を向けかけたが、一段上ったところで我に返った。逡巡して階段を下りる。鞄を握り締めて俯き、職場へ急ぎ向かった。
「あ、阿部!」
 職場に足を踏み入れようとした一歩手前。
 呼びかけられた若菜は振り返る。その先には高橋がいた。彼は若菜と同じ年に入社した同期生だ。年齢も一緒だったということは最近発覚した嬉しくない事実だ。
 高橋は笑顔で駆け寄ってきて、若菜の背中を軽く叩いた。
「もう出てきていいのか? 課長なんて、一週間くらい休みかなぁって言ってたけど」
「まさか。そんなに休めませんよ」
 課長の口調を真似する高橋に苦笑して若菜はかぶりを振る。高橋はニッと口の端をつりあげて笑った。
「そうか。俺としても阿部がいなけりゃ親睦会の何もかもが滞るから、出てきてくれて嬉しいんだがな。俺としたことが、忘年会のプランを練ってなかったこと、すっかり忘れてたぜ」
 背中を押されるようにして自分の机に移った若菜は瞳を瞠る。ここ最近、忙しすぎて親睦会のことなど忘れていた。呆れてしまう。
「そうか……もう、一週間もしないうちに仕事納めなんですね」
 社内掲示板の脇に貼られた大きなカレンダーを見ながら呟いた。
 しまったな、と顔をしかめる。普段よりも20分ばかり遅い出勤となったが、既に出勤していた課長へと足早に近寄る。近づいてくる気配に気付いたのか課長は笑顔で出迎えた。
「一昨日はお疲れ様だったな、阿部」
「おかげさまでした。お構いもできずに申し訳ありません。今日からはまた普通に頑張りますから」
 立ち上がって労う課長に内心で慌て、若菜は頭を下げる。
 一昨日の話題を持ち出されて苦々しい。しかし課長はあの後のことを知らないのだから、挨拶するのは当然か。むしろこれで彼が何もかもを知っていたら、怖すぎる。
「もっと休むかと思ってたんだが、本当に阿部は真面目だなぁ」
「休んでたら仕事は溜まる一方じゃないですか。おちおち休んでもいられませんよ。忘年会のことも忘れてましたし」
 課長席の背後にある出勤簿に印鑑を押して、若菜は笑う。
 振り返ると課長に見つめられていて、戸惑った。
「どうしましたか……?」
 課長は微笑んだままかぶりを振る。クルリと椅子を回し、再びパソコン作業に戻る。それ以上の追及は許されず、若菜はそのまま自席へ戻ろうとしたが、そこでは高橋が満面の笑みで待っていた。思わず足を止めた若菜だが課長席に留まるわけにもいかない。嫌々ながら席に戻る。
 丁度そのとき、先ほど廊下で挨拶した後輩が帰って来た。
 若菜は顔を輝かせ、目的ができたとばかりに彼女のもとへ向かおうとしたが、寸前で高橋に止められた。
「待っていたぞ阿部」
 そんなことを言われて殴りたくなった。
 若菜はうんざりと思いながら仕方なく振り返る。つかまれた腕を、乱暴ではない程度に振り解く。
「……忘年会プランの話なら昼にして下さい。今の時間は忙しいんです」
 貴方と違って、とは胸の内に留めながら若菜は高橋を睨む。けれど高橋は堪えた様子もない。ニヤニヤと癪に障る笑みを浮かべる――否、彼に悪意がないことは分かっているから、単に若菜の思い込みなのだが。
「噂に聞いたんだが、お前、結構偉い奴の恋人なんだって?」
 どこの誰だ、そんなことをこいつに吹き込んだ奴は。
 若菜は問答無用で諸悪の根源をはたき倒したくなった。
「課長から聞いたんだ」
 若菜は背後の課長に殺意を抱きかけたが、待てよ、と首をひねる。あの課長が、こういうことを吹聴するだろうかと高橋をまじまじと観察しつつ、睨みつけた。
 若菜の視線にうろたえた高橋は、半歩だけ後退して頬を引き攣らせる。
「いや……実際には俺が立ち聞きしてたんだけど。途切れ途切れにしか聞こえなくて」
 素直に白状した。いささか弱すぎるとも言える。
 若菜は、ふん、と顔を背けて両手を腰に当てた。それだけで高橋には不機嫌だと伝わる。しかし高橋はそこで引いたりせず、更に首を突っ込もうとしてきた。
「なぁなぁ、どうやって知り合ったわけ? そもそもこの会社にそこまで偉い奴なんていたか? いつだったか、阿部を迎えに来てた奴がそうか? 課長、凄いへつらってたもんな」
 言葉を選ばない高橋に機嫌は急落下。彼の足を踏み潰したくなったが必死で耐えた。怒りをぶつける先が見当たらずに奥歯を噛み締め、再び高橋を見る。彼は若干体を引いた。自分が地雷を踏んだと気付いたのか気付いていないのか。
「……関係ないだろ」
 若菜は低い低い声で呟く。
 高橋は一瞬だけ硬直したあと、不思議そうに瞬いて辺りを見渡した。幻聴だと思ったらしい。
 それでも若菜は幾分胸のつかえが下りて、細い息を吐き出すと席を離れようとした。先ほどすれ違った後輩の元へ向かう。しかし途中、出勤してきた大輝を見つけて瞳を瞠った。
「先輩!」
 高橋の前とは態度が一変。若菜は驚いて彼に駆け寄った。
「あれ、阿部さん?」
 左頬に白い湿布を貼った大輝は少しだけ喋り難そうだったが、驚きは純粋なものだった。唐突に、若菜は「殴ってきた」と言った厚志を思い出した。
「その怪我……」
 大輝が苦笑する。
「まぁね。避け切れなかった最初の一発だけはご覧の通りさ。せめて顔じゃなくて腹にして欲しかったよね」
「そういう問題じゃ」
 本気で言っていると思われる彼に呆れる。
「俺が先に腹を殴ったから、反撃する力もなかっただろうけど」
「……殴った? 先輩が、厚志を?」
 そんな場面は想像できない。しかし大輝は頷いた。
「そう。一度手を出したら二人とも止められなくなって、アパートの前で殴り合い。何事かと出てきた他の人たちが止めてくれなかったら、骨まで折るくらいの喧嘩になっていたかもね」
 大輝は明るく笑った。後悔など微塵もしていないようだ。
「ささやかな意趣返しに阿部さんのドレス投げつけて挑発してみたけど……それだけは後悔したな。阿部さん、何事もなかった?」
「それは……」
 若菜は口ごもる。厚志に振られました、などと言ったら大輝はどう思うだろう。自分のせいだなどと後悔されてはたまらない。突き詰めれば自分と厚志が悪いわけで、大輝に非はないのだから。
 そんな態度を妙だと思ったのか、それまで明るく笑っていた大輝が眉を寄せた。
 大輝が口を開く直前、それまでのけ者にされていた高橋が割って入ってきた。
「大輝先輩。やっぱり先輩も阿部の恋人は気になりますよね!」
 嬉々として口を挟んだ高橋は、哀れ大輝の一睨みで撃沈した。

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