キッカケをつかむまで
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3.

 厚志のことは意識して考えないようにした。
 仕事納めまで日にちがない。考えることは沢山あるし、呑気にしている時間はない。大輝がときおり何かを言いたそうに見ているのが分かったけれど、あえて避けた。仕事とは別の話題を持ち出されそうになると意図的に話を変えた。いつもより気を張って、話題に敏感になって、何としても厚志のことには触れないようにした。
 美智子は婚約発表の日から休んでおり、姿を見かけない。それは心配だったが、若菜は少しだけ安心していた。逃げる対象は少ないほどいい。
 窓の外を見れば静かに雪が舞ってた。若菜の心は重くなる。
 唇を引き結び、目の前のことに集中するため視線を逸らし、前を見つめる。会議室へ向かった。
 中では既に高橋が寛いでいる。その態度に腹立ちを覚えた若菜だが、敢えて何も言わず、ただ彼の向かい席に腰を落ち着けた。親睦会の企画書を机に広げる。
「一次会は例年通りの場所で、二時間にしましょう。あの店は割引が効きます。今年は大輝先輩たちの送別会も兼ねてますから、店は大きい方がいいですし」
 若菜は提案しながら自分の言葉に衝撃を受ける。
 先日発表された人事異動には大輝や課長、美智子と和人の名前があった。今更ながらにじわじわと焦燥が込み上げた。
 和人はきっと、せいせいしたという顔で、最後まで若菜の敵であり続けるのだろう。そして厚志の傍に戻り、彼が望む仕事をするのだろう。彼は今、美智子と同じで休みを取っていた。引継ぎがあるはずだが、若菜は何となく、彼は出社しないまま異動の日を迎えるような気がしていた。社会人として非常識な話だが、彼ならば考えられる。
「阿部。大丈夫か?」
 若菜は我に返って高橋を振り返った。彼は企画書を手にして不審そうにこちらを見ている。何度か呼びかけたのだろう。慌てて頷き、自分も書類をめくる。
「すいません。場所は決まりましたよね。挨拶と乾杯は課長にお願いするとして、食事の前に、辞令が下りた人にも挨拶して頂きましょう」
 大まかな流れは書類に記載したが、細かな指示は入れていない。この打ち合せで決めて行く予定だ。若菜は広く取っていた空白の箇所に予定を書き込んでいく。
「会費はどうするんだ?」
「まだ店に連絡も取ってないですし――あ、店に繋ぐのは高橋さんにお願いしますね」
「俺っ?」
「だって高橋さん、まだ何の役にも立ってませんよ」
 驚く高橋だが若菜は当然のごとくサラリと流して次をめくる。
「さて、後は進行中のゲームですね」
 高橋は声を詰まらせて若菜を見たが、若菜はやはり意図的に無視して次を決めて行く。高橋などいなくても、若菜一人ですべてが完結してしまうように思われた。
 少しだけ素を出して強引に進めていく若菜に、高橋は複雑そうな表情を浮かべる。しばらく納得いかないように若菜を見つめていたが、彼はやがて大きなため息を吐き出して「あーあ」と呟いた。
 それまでほぼすべてを完了させていた若菜は顔を上げる。
「結局、美智子先輩とは何の進展もないまま終わるわけか」
 若菜は呆れる。
「まだそんなこと考えてたんですか」
「阿部が悪いんだぞ。阿部が協力してくれないから」
「馬鹿言ってんじゃないです。大輝先輩に勝てない高橋さんが悪いに決まってます」
 親睦会の企画書に書き込んだことをノートパソコンにも打ち込みながら若菜は吐き捨てる。再び高橋の大げさなため息が聞こえる。
「やっぱり美智子先輩は大輝先輩について行くのかなぁ。あの二人、大学まで一緒だったって言うもんなぁ」
 めそめそと泣き続ける高橋が鬱陶しくなってきた。
 彼は企画書など脇に寄せ、机に顔を乗せながら窓を見ている。
「恋愛に早いも遅いもないでしょう。時間より想いです」
 高橋が驚いたように見つめられて若菜は紅潮した。彼があまりにも鬱陶しすぎて出てきた言葉だが、自分でも何を言っているのか分からなかった。まさか自分が恋愛について語る日が来るなど思ってもいなかった。
(何言ってんだ、私。まともに恋愛したこともないくせに)
 高橋の視線がうるさい。意図的に無視したまま立ち上がり、会議の終了を告げた。
「後で正式な案内持って行きますから、それ見て最終決定しましょう。それで良ければ全員分作りますから」
 ノートパソコンを閉じた若菜は、熱くなったそれを抱えて退出した。高橋からは何の応えもない。会議室から出ると直ぐに昼のチャイムが鳴り響いた。良い時間だったらしい。自分の席に戻り、ようやく息をついた。


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 12月28日
 ようやく今年の仕事も終わり、こんな時期だが異動する者たちから別れの挨拶をしてもらい、乾杯の挨拶となる。
 若菜は幹事でありながら彼らの挨拶を聞き流していた。
 体は仕事納めの場にありながら、心は別のところへ飛んでいる。そんな若菜に気付いているのか、高橋が驚くほど幹事に奮闘してくれた。
 とりを務める課長の挨拶が終わり、乾杯の挨拶となった。その段階になっても若菜の心は戻らない。高橋が、注いだビールを強引に持たせた。若菜はゆるく視線を巡らせる。
「乾杯」
 前後をすっ飛ばしていたが、課長の声にようやく若菜は我に返った。
「あっ」
 皆が高々とグラスを掲げて乾杯するとき、若菜はわずかだがビールを零して慌てた。布巾をつかんで畳みに落ちないようにする。
「阿部さん。お疲れ様」
「大輝先輩。お疲れ様です」
 席順はくじ引きで決められた。本日の主役たちは特別席に案内されていたが、大輝はわざわざ末席にまで出向いてきた。誰の挨拶よりも先に若菜のところへ来る。そのことに驚いた若菜だが、続いて美智子と課長にも出向かれ、更に恐縮した。まるで取り囲まれるようになる。
「今日で総務課ともお別れだなぁ」
「課長はまた営業に戻るんですか?」
「そう。向こうの課長補佐になって、二年もすればまた課長」
 出世街道まっしぐらだ。
 若菜は頑張って下さいね、と告げて部屋をグルリと見渡した。
 大きなお座敷だ。結構な人数が入っているが、それほど狭くは感じない。やはりここにして良かった、と安心する。一番大きな部屋を取れたのは高橋のお陰だ。最後の最後に務めを果たしてくれた彼には素直に感謝したい。
「美智子先輩は大輝先輩と同じ企画部でしたっけ?」
「そうよ。絶対、誰かの陰謀を感じるわよね」
 美智子は憮然として言い放った。隣で大輝が苦笑しながらビールを空ける。若菜はすかさずビールを注ぎ足した。
「何の因果か、また秋永とも一緒だよ。まぁ、今度は大きな会社だから配属される部屋が違うかもしれないけど。会議には顔合わせするんだろうな」
 ビールを注ぎながらの言葉に若菜は目を丸くした。
「ありがとう」
 適当なところで大輝はグラスを掲げ、微笑んでビールに口をつけた。
 若菜は訊ねようと口を開いたが、言葉が生まれなくて視線を逸らす。視線の先には見知らぬ人たちがいた。
 異動は通常年度末に行われるため、この時期に異動というのは珍しい。しかも、四人もだ。他部署からも驚きの声が上がっていた。そのため、今日は四人と親交があった他部署の人間にも参加して貰っている。親睦会とは別口のため料金は割高だが、それでも参加したいという人たちは多くいた。ひとえに異動者の人望だろう。
 若菜は一人、黙々と食事をしている和人を見つめた。絶対、会社に出てこないだろうと思っていた彼だが、意外なことに次の日からしっかりと出社してきた。彼が担当する仕事は元から少なかったが、それらをしっかりと完了させて引継ぎも行った。そして更に珍しいことに、大人しく仕事納めにまで参加している。いつだったか鮫島と交際していたようだが、もう終わっているのか、二人が近づくことはなかった。和人は一切交流を持たず、ただひたすら食事に勤しんでいる。
 今日の主役である三人がここにいれば、他の者たちは挨拶もできなくて不愉快だろう。
 若菜はそんな言い訳を呟きながら立ち上がった。
 課長は残念そうな顔をしたが、誰も何も言わず、引き止めない。若菜が離れた途端、四方八方から声をかけられて対応に追われる。
 若菜はそんな彼らを誇らしく思いながら和人に近づいた。
「……なに」
「すごい暇そうだったから」
 和人は一瞥しただけで視線をお膳に戻した。そんな態度に腹を立てた若菜だが、気を取り直して和人の側に座る。あからさまに嫌な顔をされた。
「新入社員のくせに一年も同じ場所にいないで異動。それも、本社に異動だなんて、祝われるより、やっかまれる方が多いんじゃない?」
 半分ほど空になっていたグラスにビールを注ぎ足した。
 和人は一瞥しただけで頭も下げず、鼻を鳴らす。
「もともと俺はあっちに就職が決まってたんだ。こっちの奴らなんて眼中外なんだよ」
 不機嫌な口調で断言する和人に若菜は黙った。会話が途切れる。更に言えば、アルコールが入ったためか彼の声は少々大きく、隣にいた他部署の男性が嫌そうに眉を寄せた。グラスを持って立ち上がり、そそくさとその場を離れていく。その様子をため息つきたい気分で若菜は眺める。それでもまだその場に留まり続ける。
 確かにいけ好かなくて憎らしい男だが、その口調は自分に通じるところがある、と妙な親近感が湧いた。
 和人は若菜が直ぐに立ち去ると思っていたらしく、いつまでも動かない様子に戸惑いを見せる。しかし更なる暴言を続けることはない。彼もまた、どうしたらいいのか迷っているようだ。
 若菜は無意味にグラスのビールを回した。
 他の場所はそれぞれ華やいだ雰囲気を醸しているが、この一角だけがまるで通夜のようだ。
 和人が苛立つように箸を置いた。
「何であんたがそんな顔してんだよ」
「え?」
 呼気を荒げた和人は嫌そうな顔をしながら若菜を見ていた。
 嫌われてはいても認められているのかも、と思った自分を撤回したくなった若菜だ。条件反射で心に鎧をまとった若菜は無言で睨み返した。
「本当に傷ついてるのは厚志先輩だっつーの」
「それは――」
 不意打ちの名前に視線を逸らす。舌打ちが聞こえた。
「いまさら遅ぇんだよ。あんたのことだ。どうせ今は勇気が持てないからって、後回しにしてんだろ?」
 若菜は何を返していいのか言い淀んだ。彼がどこまで把握しているのか分からない。まさか厚志が逐一報告していたわけでもあるまい。しかし、それにしては和人の口振りはすべてを知っているようなもので、気になった。プライド高い厚志の、そんな様子は想像できない。もし伝えているにしても、それはほんの些細な愚痴だろう。
 若菜の戸惑いを嗅ぎ取ったのか和人は馬鹿にしたように笑う。
「見てれば分かんだよ。あんたの思考パターンは単純すぎ」
 送迎会の席で喧嘩にならぬよう必死に耐えてきた若菜だが、さすがに限界を感じて眉を寄せた。
 和人はビールを飲み干してグラスを突き出す。注げというのだろう。若菜は持っていたビール瓶をそのまま和人の前に置く。
「そこまで言われて誰が亭主関白のお膳立てしてやるか。自分でやれ」
 周囲に聞こえぬよう、低い声で告げる。笑顔だけは保つという器用な芸当を見せ付ける。
 和人は忌々しげにビール瓶を取り上げたが、ムッとした。
「空じゃねぇか!」
「入ってるとは言ってない」
 言いながら若菜は近くにあった別の新しいビール瓶に手をかける。ポンッと軽い音を響かせ、抜けたビール瓶の蓋が勢い良く和人に飛んでいく。
「危ねっ」
 和人は見事に避けた。若菜が自分のグラスにだけビールを注ぐのを見て歯軋りする。
「性格悪ぃなてめぇ!」
「お互い様だ」
 真っ赤な顔で怒る和人と、笑顔で対応する若菜。
 傍から見れば和人が若菜にじゃれているだけにしかみえない雰囲気だが本人たちは真剣に険悪だ。和人が舌打ちする。
「どうせ仕事が一段落ついてほとぼりが冷めたら厚志先輩のところに行こうとか思ってるんだろうけど」
 図星だったので若菜は何も言えない。
「無駄だからな。厚志先輩はもう東京に戻ったし、純一さんも同じだ。どうせあんたは本社の場所も知らないんだろ?」
「――え?」
 若菜はグラスを下げて瞳を丸くした。

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