キッカケをつかむまで
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4.

 一次会が終わった瞬間にも店を飛び出していた。幹事を任されていたのに、とんだ無責任ぶりだ。
 若菜は渋い顔をする高橋を拝み倒し、引き止める課長には三次会までには絶対に戻ってくると約束する。ここで意外な助けになってくれたのは和人と大輝だ。二人は口裏を合わせたように課長達を説得し、次の会場に導いてくれた。
 そんな二人の結託ぶりに驚いた周囲と同様に、若菜も思わず目的を忘れて驚いていた。
 和人は相変わらず不機嫌そうに、そして大輝は苦笑して少し困ったように若菜を解放してくれる。ここでようやく、大輝は厚志のことを知っていて話を持とうとしていてくれたのだなと、若菜は避けていたことを悔やんだ。
 二人に感謝して若菜はひとまず自社に行く。厚志の住んでいたマンションと会社とを比べれば、会社の方が近い。
 夜の八時ともなれば正面玄関は閉鎖している。明かりのついている部屋もない。今日は仕事納めだ。こんな日にまで残業している部署はない。
 若菜は裏口に回り、ガラス扉を覗き込んで守衛室を見た。そちらには緑のランプがついているだけで、肝心の守衛の姿がない。もしかしたら最後の見回りに行っているのかもしれない。
 若菜は焦燥しながら周囲に守衛の姿がないかと捜した。しかし、影も見当たらない。戻る時間が分からない以上、ここで立ち尽くしている時間が惜しい。
 もう一度正面玄関に回った若菜は会社全体を眺めた。ときおり守衛が見回りのときに部屋の明かりをつけたりするが、今夜はそのような部屋もない。
「ああもう」
 ため息が漏れた。
 新年になれば厚志と向かい合って話ができるだろうと思っていた。けれど、相手はそんな時間すら待ってくれないらしい。もう顔も見たくないと思ったのかもしれない。
 若菜は自嘲した。
 ため息をついて鞄を探り、カードを取り出す。
 傍から見れば右往左往して、不審人物に見えるだろうなと思いながら再び裏口に回る。守衛の姿はやはりない。けれど若菜はガラス扉を押し開けて、中に入る。外側のガラス扉は誰にでも入ることができるが、問題はこの次だ。内側のガラス扉は防犯のため分厚くなっており、施錠されているため関係者以外入ることができない。
 若菜は握り締めていたカードを、壁に設置された小さな機械に通した。ディスプレイに誘導されるまま、普段は使わない暗証番号を入力する。社員ならば誰にでも与えられる、専用のカードと暗証番号だ。暗証番号は個別に違う。誰が、いつ、どの場所から会社に入ったのか、分かる仕組みになっている。
 ディスプレイは「OK」の文字を返し、カードを吐き出した。次いで認証機械は変形する。カバーが自動で外れ、指紋認証と血流認証に移る。
「これが嫌いなんだよな」
 寒さで冷えた手を摩擦し、息を吹きかけ、温めてから読み取り部分に指を添わせた。
 数秒の間を空けてピピッとエラー音がした。
「ほぅらな。絶対一回じゃいかねぇんだから」
 憮然と唇を尖らせ、もう一度挑戦する。今度は正常に認証された。
 施錠が外れる音が三回響き、ガラス扉が自動で開く。
 若菜は素早く体を滑らせた。
 誰もいない廊下は照明が落とされている。緑色の非常灯に照らされ、不気味だ。照明をつけようかと思った若菜だが、我慢して階段を駆け上がった。全力疾走だ。
 直ぐに、純一と厚志が利用していた部屋へ辿り着く。そのまま中へ入ろうとドアノブをひねったが施錠されていて扉は開かず、若菜は勢い余って鼻をぶつけた。ガン、という音が響く。
「しまった……」
 鍵は1階の守衛室にある。再び戻らなければいけないのか。
 もう一度ドアノブを回したが、やはり扉は開かなかった。
 自分の迂闊さに舌打ちし、踵を返したときだ。階段下から一点の明かりが揺れて近づいてくる。若菜はその眩しさに息を殺して腕を翳した。
「誰だ?」
 緊張を孕んだ男の声が聞こえる。
 ライトが若菜の顔から外され、足音が近づく。暗闇から姿を見せたのは、制服に身を包んだ守衛だった。彼は若菜の顔に見覚えがあったのか、特段急いだ様子もなく近づいてきた。
「こんな遅くまでお勤めですか? ご苦労様ですな」
「いえ……」
 悪いことをしている訳ではないのに、若菜は妙な後ろ暗さを感じて曖昧に笑った。守衛が持つライトが周囲を照らし、若菜が先程音を立てていた扉に止まる。
「こちらに用がおありで?」
 守衛の声が不審を含む。当然だろう、ここは元々会社全体の会議室として使われていた場所だ。その後改装され、厚志たちの仕事部屋となったのだ。守衛である彼でもそれくらいは知っている。
 若菜はためらいながら頷いた。
「わ、私の婚約者の……」
 言葉にするのには酷く抵抗がいった。もしかしたら解消のことも知っているかもしれないと恐れはあったが、今はそれぐらいしか言い訳が思いつかない。
 案の定、守衛は直ぐに思い当たったのか「ああ」と声を上げて微笑んだ。
「なるほど、貴方が噂の方でしたか」
 思わず「噂って何ですか」と低い声で問い返したくなった若菜であるが、グッと堪えて微笑んだ。肯定も否定もしない。
「本社へ異動になったそうですからな。またここも落ち着きますわい。忘れ物でもあったのですかな?」
 守衛は勝手に一人で補完しながら、首に提げていたマスターカードを取り出した。
「あの方々が来る前は、ここにこんな物は必要なかったのですがね」
 苦笑しながら、視線の高さに設置された小さな機械にカードを通す。暗証番号を入れることもなく、扉は直ぐに鍵を外した。
「ありがとうございます」
 若菜は動揺しながらドアノブをつかみ、押し開ける。
 ――緑色の絨毯が敷き詰められ、広い会議室には重厚な本棚が幾つか設置され、その奥のデスクではノートパソコンを広げた厚志が面倒そうに書類と向き合っている――過去に見られたそんな光景は、今やなかった。若菜の瞳に入り込んできたのは灰色の部屋。
 いつでも会議が出来るように、横長のテーブルが四角を描いて設置されている。床の絨毯も撤去されていた。本棚もデスクもない。
 恐らく業者が入って片付けたのだろうと思ったが、若菜は気付かなかった。一転して簡素になった部屋を眺める。その脇を通って守衛が中に入る。
「特に何も落ちとりゃせんが――何をお忘れか、お聞きになっておりますか?」
 部屋の照明の眩しさに若菜は我に返る。
「い、いえ。何もないのが確認できれば、いいんです。ありがとうございます」
 守衛は少し不思議そうに首を傾げたが、人の良さそうな笑顔で「そうですか」と照明を落とす。廊下に出て扉を閉めるとオートロックが働いた。
 一階に戻る若菜に付き合い、守衛も階段を下りる。暗い廊下に二人の足音だけが響いていく。
 若菜は守衛との会話を曖昧に受け答えしながら、脳裏では全く別のことに捕らわれていた。和人の言葉が蘇る。
「本社の場所って、どこですか?」
 入るのに苦労した裏口に近づいた時、若菜は唐突に問いかけた。
 話の脈絡に合わなかったのだろう。守衛は「は?」と間抜けな声を上げて若菜を見返した。
「この会社の、本社です。知ってますか?」
「そ、れは……東京だとは思ったが……」
 守衛の顔に、見る間に不審が広がった。
「そうですよね。今日は有難う御座いました。良いお年を」
 守衛に何か聞かれる前にと裏口を潜り抜けた。呆気に取られたような顔をする守衛に頭を下げて手を振った。

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