キッカケをつかむまで
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5.

 会社を出た若菜は次に、厚志のマンションへ向かった。
 いつもより往来の多いタクシーをつかまえて乗り込む。仕事納めの会社が多いため稼ぎ時なのだろう。
「ニュータウン方面までお願いします」
 ここまで来るとアルコールなど醒めきっている。
 タクシーを使うか悩んだ若菜だが、背に腹は代えられない。いつも倹約生活を送っていることだし、これくらいの贅沢は構わないだろう、と強引に納得させる。
 運転手が少々驚き顔だったのは、若菜が切羽詰った表情をしていたからだろう。それほど余裕がなくなっているのかと、若菜は視線を逸らす。
「今までお仕事ですか? 頑張りますねぇ」
「――ええ。そうですね」
 愛想笑いを浮かべる余裕もなかった。冷たく返す。
 しっかりと握り締めていた拳から何かが零れてしまいそうで、奇妙な焦燥に駆られている。もう二度と会えないと思ったことはないが、このままでは例え死に別れなくても、そうなるだろうことは予想できた。
 遊楽街に騒々しく灯る明かりを眩しく見やって瞳を細める。
(このまま終わるのは、嫌)
 ひどいわがままだと自分でも分かるが、心の準備をする少しの時間くらい許してくれてもいいじゃないかと頬を膨らませる。空になった容器が満たされようとしていたのに、突然穴を空けられた気分だった。針金で空けた小さな穴。弧を描いて勢い良く零れていく。蓋をきっちり閉めた容器に注ぎ足すことはできない。
「ここを曲がれば良いですかな?」
 運転席の声にハッとして顔を上げた。
 運転席と後ろを隔てる防護壁の向こう側で、帽子を被った運転手が小さく振り返っていた。どうやら若菜があまりにも険しく黙りこくっているので、声を掛けかねていたようだ。
 自分の思考に没頭していた若菜は慌てて我に返り、周囲を確認する。
 何度か来た厚志のマンション。
 昼間と夜では違う景色に眉を寄せる。車のスピードを落としてもらって記憶を辿る。
「……次は左折してください。ええ、そして直ぐに右折、そしてそこの自動販売機の前を左折、そのまま直進――」
 通りを外れると途端に道は狭くなり複雑になる。
 一度、この夜道を怯えながら帰ろうとしていたなと思い出した若菜は懐かしさに瞳を細めた。
 今はどうだろうかと考えてみる。
 今でも、誰もいない夜道は怖いだろうか。
「この突き当りのマンションで止めてください」
 木立を潜り抜けて現われたマンションに、若菜は小さく表情を輝かせながら告げた。
「やっぱり大きな会社勤めの人は住んでる場所も違うねぇ」
 一万円札を取り出した若菜は眉を寄せた。運転手の正直な感想であろうが不愉快だ。そんな気配を察したのか、運転手は素早く両替しておつりを返し、若菜を外に送り出した。
「ありがとうございました」
 引き攣った愛想笑いを浮かべて運転手が頭を下げる。
 ひとまずタクシーから降りて走り去るのを見送り、夜闇に佇むマンションを見上げる。非常に間取りが大きなマンションであるため、明かりが灯っている部屋は数える程しかない。現在ついている明かりはほとんどリビングに相当する場所であろう。
 若菜は厚志の部屋を探そうとしたが、外からではどの辺りになるのか見当がつかない。
 冷えた風に体が震えたことに気付いて早々に中へ入ろうとした。
 一足先に東京に戻ったという和人の言葉が蘇る。
 疑う訳ではないが、自分の目で確かめるまでは納得できなくてこんな所まで来た。何しろ言ったのは和人である。若菜を陥れようとしても頷ける。
 今回は鍵を持っていないため、さてどうやって中へ入ろうかと首を傾げた若菜はマンションの裏へ向かった。非常用の階段である。以前はそちらから中へ入ることが出来たので、今回も同じ手を使おうと思ったのだ。
 しかし、裏へ回った若菜は落胆した。
 以前は開いていた非常用階段への鉄柵が、今は硬く閉じられている。試しに手をかけてみたが、鍵が掛かっていて開かなかった。
 鉄柵は高く、足を掛ける場所もない。越えることは不可能だ。であれば下から潜って入ろうかと思った若菜であるが、それも不可能であると眉を寄せた。鉄柵下の幅は、子供でも潜り抜けられないであろうという幅しかなかった。
 正規の方法で入るしかないのか。
 若菜は苦虫を噛み潰したような顔で再び正面に回り、エントランスに入った。途端に温かな空気に包まれ肩の力が抜ける。管理人室に目を向け、明かりが灯っている事に安堵する。若菜が知る限り、ほとんど不在を通している管理人室には現在、若い男性がいた。
「あの、すいません」
 以前のお爺さんはどこへ行ったのだろうと思いながら、恐る恐る声を掛けた。
 若菜よりも少々年上だろうと思われる男性は、視線だけを若菜に向ける。彼の手には競馬雑誌が握られていた。
 愛想の欠片もない視線に若菜は一瞬怯み、直ぐに持ち直して声を硬くさせた。
「ここの三階に斎藤厚志っていう人が入ってるはずなんですけど、繋いでくれませんか?」
 男は不躾に若菜を眺め、面倒そうに隣の棚に手を伸ばした。
「貴方の名前は?」
「……阿部若菜です」
 明らかに疎んじられていると分かったが、若菜は引かない。相手が平身低頭する人のいいお爺さんだとしたら若菜はアッサリ引いただろうが、今回は傍若無人ぶりを感じられる若い男性である。つい負けず嫌いが頭をもたげて強気になる若菜だ。
 男は棚から取り出した書類を捲り、視線を書類に向けたまま口を開いた。
「斎藤様は既にこちらを引き払っておいでです」
 口調は丁寧だが取り付く島も与えない簡潔さ。若菜は面白くない気分で少しだけ問う。
「どこに行ったか分かりますか?」
 男がちらりと視線を上げた。
「それはこちらの管轄ではありません。個人情報でもありますので、おいそれと教える訳にはいきません。お引取り下さい」
「――そうですね」
 唇を引き結んで、若菜は頷く。胸で燻る想いを抱えながら管理人室を離れる。
 自分でも非常識な問いかけだと思っていたが、もしかしたら教えてくれるかもしれないという楽観的な希望に縋って問いかけた。しかし結局は、いけ好かない男に、馬鹿だ、と思われただけだった。悔しい。
 鍵がなければ厚志の部屋に入れない。男の言葉が真実ならば厚志は本当にここにいないことになる。行っても無意味だ。
 エントランスの入口で、闇に染まる外を見つめながら若菜は携帯を取り出した。
 意を決して厚志の携帯に掛けてみたが、留守電に繋がることもない。現在は電話に出ることが出来ないため、後でお掛け直し下さいというアナウンスが流れるだけだ。試しに純一の携帯に掛けてもみたが、彼の携帯も同じだった。
 若菜は途方に暮れる。
 もっと早く素直になっていれば良かったのにと悔しさが込み上げるが、あれがあの時の自分の精一杯だったのだからと本当には後悔しない。何度繰り返しても同じことをするだろう。過ぎたことより、これからのことを考えた方が健全だ。
 若菜は細い息をついて気を入れなおし、今度は安西へ電話をかけた。
 彼らは携帯を持たずに家の電話だけのため、繋がる可能性が高い。厚志に深い関わりのある彼らであれば、厚志たちの居場所を知っているだろう。
 案の定、数回のコール音がした後に電話が繋がった。
「あの」
『もしもし、安西ですけれども、どちら様でしょうか』
 電話に出たのは邦光でも紗江でもない。声の感じからして家政婦だろうか。
 若菜は、掛けたものの何と聞いていいか分からず声を詰まらせた。
『もしもし? どちら様ですか?』
 家政婦が声の調子を変える。相手の眉間に皺が寄る様子が目に浮かぶようだ。このまま切られてしまっては不味いと焦り、何とか紗江たちを出して貰えるように伝えた。けれど家政婦は渋る。
『申し訳ありませんが、旦那様は既に就寝されております。日を改めてお掛け直し願います。お急ぎでしたか?』
「あ、いえ……」
 眠っている彼らを叩き起こしてまで聞くようなことではない、と若菜は慌ててかぶりを振った。これはただ自分のわがままなのだから。それでも落胆は隠せずに電話を切ろうとした時、不意に携帯向こう側の気配が変わった。
『若菜さん?』
 という声が聞こえてきて、若菜は瞳を丸くする。驚く暇もなく、今度は直ぐ近くで紗江の声が聞こえた。
『お待たせしてごめんなさいね、若菜さん』
「え、いえ……こちらこそ。お休みの所、申し訳ありません……」
 強張った声で告げると紗江はクスリと笑ったようだった。
『いいのよ。たまたま起きてきた所だったもの。貴方の声を聞けて嬉しいわ。どんなご用かしら』
 楽しげに響く声は紗江の笑顔を連想させた。若菜も安堵して表情を綻ばせる。
「えっと、厚志のことなんですけど」
 そう言った途端だ。弾んでいた紗江の気配が揺れたような気がした。
「あの……」
 若菜も戸惑って声を揺らすと、携帯電話の向こうから少しだけ困った声が聞こえる。
『厚志さんのこと?』
 まるで取り繕ったかのようにそつのない声。
 嫌な予感がして、何度か瞬いた。携帯を握る手に汗が滲んでくる。
「えと、今、厚志がいたマンションにいるんですけど……いなくて。どこにいるか、紗江さんたちなら知ってるかと思いまして……」
 告げた後に訪れたのは沈黙。
 紗江も若菜も黙り込む。若菜は不安を育てながらただ紗江の声を待った。
 まるで息を止めていたように紗江のため息が聞こえる。ためらうように視線を彷徨わせる紗江の仕草が想像できた。
「知りません、か?」
 多少の落胆を覚えながら吐き出した言葉は直ぐに否定された。しかし紗江の声は、先程までよりも少し硬い。
『厚志さんが今どこにいるかは知っているわ。けれど……若菜さんに教えることは出来ないわ』
「え?」
 素っ頓狂な声を上げて、若菜は驚いた。
 少しの沈黙の後、再び紗江が口を開く。
『貴方達の婚約解消を厚志さんから聞きました』
 若菜の呼吸が乱れた。唇を引き結んで全身が強張ったようだ。
『私は若菜さんを嫌いになった訳ではないし、厚志さんの事も大切に想っているけれど……彼の場所を貴方に伝えることは出来ないの。どうか察して頂戴』
 心に闇が舞い降りたようだった。
 柔らかな口調で話す紗江だが、言葉は完全な拒絶を示している。厚志を裏切った若菜など要らないと、そう思っているのかもしれない。
 紗江は『ごめんなさい』と言い置いて電話を切った。受話器を置く音が若菜の耳に残り、紗江の言葉が脳裏で巡る。
 若菜はユックリと手を下げて携帯を閉じた。軽い音が小さくエントランスに響く。
「さすがにへこむなぁ……」
 静かにしゃがみこんだ若菜は小さく呟いて目頭を熱くさせた。


END
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