優しい人
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1.

 厚志に会いたい。けれど会えない。時間ばかりが過ぎていく。時の流れは容赦ない。職場には新たな課長が配属され、人員補給のために派遣社員が雇われる。若菜は彼らに馴染むのに精一杯で、厚志とのことをどうにかする暇など許されなかった。
 新人の教育係には若菜と高橋が任命された。毎日のようにツッコミどころ満載の高橋に、若菜は心休まる暇がない。余計なことを考えずに済むことはありがたいが、高橋による精神ダメージが大きくて頭痛がする。限界間際まで疲労困憊していた。
「阿部」
 呼ばれた若菜は顔を上げてうなった。新たに配属された工藤課長が手招きしていた。
「ごめんなさい。ちょっと行って来ますね」
「いいえ。どうぞ」
 若菜は新たな派遣社員、馬宮に断って席を立った。若菜より二回り年上の彼女はパソコンを前にして微笑んだ。彼女はパソコンを苦手としており、現在も若菜からレッスンを受けている最中だった。派遣社員、とは直ぐ穴を埋められるような、優れた人材のことを指すのではなかったか、と若菜は遠い目で思ったものだ。
 立ち上がった若菜は高橋を窺った。彼は書類の束に埋もれている。大輝と美智子の引継ぎは彼に任されていた。そんな彼に馬宮のサポートを頼むのは酷だろう。馬宮には自分が戻るまで待機を命じる。
「何でしょうか、課長」
 なるべく早足で工藤の元へ近寄った。彼の視線はずっと若菜に注がれ続け、何とはない居心地の悪さを覚えてしまう。
 新たに配属された工藤は、以前の課長よりかなり若い。まだ30代だろうか。爽やかな好青年、という印象を与え、前部署は営業だったという言葉に納得する。話すときにも快活に話し、まさに溌剌としていた。いかにもスポーツをしていそうな浅黒い健康的な肌も好印象だ。周囲にも好意的に受け入れられた。
 しかし若菜は彼のことが苦手だった。職場で彼の紹介があってから、彼の視線が妙に気になる。言うなれば、第六感とでも呼ぶべきものが警鐘を告げている。昔から素直にその感覚に従ってきた若菜は、今回も従うことにした。この課長にはあまり関わらないようにしよう、と決めていた。
 数日前まで彼の机の上には、前課長より引き継がれた仕事が山のように積まれていたが、今はほとんどない。片付け終わったのだろうか。他の職員が噂していたように、確かに仕事は速いらしい。
 若菜は努めて平静に分析した。
 仕事は素早く有能。取引先の電話に出ても年下というハンデを物ともせず有利に交渉を進める。張りのある声は力強さも感じさせる。快活な言葉と笑顔は、大抵の女性社員を魅了するだろう。
 今回も笑顔を向けられた若菜だが、自身はまったく表情を変えずに工藤の前に立った。
「このデータエクセル作っておいて。馬宮さんと二人で分担して」
「はい」
 手渡されたのはファイリングされた分厚い資料だった。見た目にもかなりの重量がありそうで、若菜は両手を差し出した。しっかり受け止めて席に戻ろうとした若菜だが、ファイルは音を立てて床に落ちた。結構大きな音が響き、職場が一瞬だけ静まり返る。
「大丈夫か?」
 工藤は責めることも慌てることもせず、おかしそうに笑いながらファイルを拾い上げた。
 若菜はただ赤い顔で工藤を見る。もしかしたら睨みつけてしまったかもしれないが、自分では分からない。
「阿部の腕には重かったかな」
「いいえ。大丈夫です。申し訳ありません」
 再び差し出されたファイルを、若菜は今度は上からつかんだ。先ほど下で受け止めるようにしたところ、他の社員たちから見えない角度で、工藤が若菜の腕に触れたのだ。それくらいならば若菜も動揺しないが、彼は若菜の腕をつかむように触れ、そしてなぞるように離れて行こうとした。偶然ではなく、明らかな意思表示だ。危うく若菜は殴りかけた。鳥肌が立っている。
 触らないで、と今にも飛び出そうだった言葉を飲み込んで、若菜は唇を噛む。さすがに課長と敵対すれば今後の仕事に支障が出る。条件反射で赤くなった顔が誤解を与えてしまいそうで不愉快だ。
 若菜はまだ動揺している自分を忌々しく思いながら仏頂面を作り、席に戻った。一連を見ていた馬宮は戻ってきた若菜を面白そうに見つめる。そんな視線にも若菜の心はささくれ立つ。彼女に声はかけずに席に着き、渡されたばかりのファイルを開いた。
 工藤の視線が背中に張り付いているようだ。
 若菜は無意識に厚志の姿を思い浮かべていた。


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 建物に念願のエレベーター設置が決定したのは、新年が明けて少し経つ頃だったように思う。各部署に知らせが回り、着工の案内が回り、使い方マニュアルまでが回覧された。それほどエレベーターを渇望していたということだ。
 コピー用紙が切れる頃だったので、若菜はエレベーターに乗り込んだ。
 そう頻繁に使うことはないと思っていたエレベーターだが、あればあるで常用してしまう。運動不足は確実だと分かっていても、ついつい楽な方を取ってしまう。
 若菜はエレベーターのドアが勝手に閉まるのを待った。壁に背中をつけ、少し大きくため息を吐き出した。
 厚志と連絡が取れなくなってから一ヶ月が経った。
 そろそろ彼がいないことにも慣れてきた。
 けれど時々、ふとした拍子に叫び出したい衝動に駆られてしまい、困っている。
 木輪を模されたエレベーターの内装を眺めながら虚ろになっていた若菜は、扉が閉まる寸前で誰かが滑り込もうとしているのを見た。慌てて開くボタンを押す。
「あー、間に合った。良かった。助かったよ、阿部」
 その声を聞いた瞬間、若菜は思わず「閉」ボタンを押したくなった。否、それでは足りない。「押し出し」ボタンを作りたくなった。
 飛び込んできたのは工藤だった。
 まさか今から若菜が下りるわけにもいかず、向けられた爽やかな笑顔に適当な笑顔で返しながら、エレベーターの扉が閉まるのを待つ。こうなったら「開」ボタンを延々と押し続けていたい気分だ。
 工藤の手には茶封筒が握られていた。これから彼は社外会議に出席する予定だった、と思い出した若菜は「なるべく会議が長引きますように」と祈った。
「阿部は今年でいくつになるんだ?」
 エレベーターが下降する。若菜はさり気なく操作パネルの前に移動して振り返った。
「さぁ。いくつになったか忘れました」
 人の年齢なんか知って何するつもりだ、という胡乱な瞳はもちろん隠して若菜は微笑む。工藤は何ら気付いた様子もなく「そうか」とだけ頷いた。
「ここに配属されるまで、阿部の噂は結構聞いてたよ」
「噂、ですか」
 若菜は顔をしかめる。
 どのような噂が流れていたのか、想像がつくような気がした。
「どんな奴だろうと思って、まぁその、俺は君の上司になるわけだし、無理難題ふっかけて、苛めてやろうと思ってたんだ」
「はい?」
 これはどんな反応を返せばいいのだろう。
 若菜は迷ったまま彼の瞳を見返した。工藤の瞳には、今告げられたような意地の悪さは感じられない。基本的にお人よしだろうという瞳があるだけだ。
「何ですかそれ」
 笑ってみせた。
「きっと凄い高飛車なんだろうなと勝手に思ってただけだよ。会ってみて、実際には噂なんてアテにできないって知ったけどな。あ、悪い阿部、待ってて」
 悪意のない笑顔の次には茶封筒を押し付けられた。靴紐が解けかけているのに気付き、その場でしゃがみ込む。エレベーターが音を立てて止まった。
「サンキュー。ところで阿部って、物凄く寛大なのか不憫なのか、どっちかなわけか?」
 エレベーターから降りた二人はしばらく同じ方向に進み続けた。その道中、そんなことを訊ねられた若菜は思い切り眉を寄せて工藤を見上げた。
「恋人指輪してないよな」
 何の前触れもなく左手を取られて体を強張らせる。
「それとも、俺が聞いた噂は最初から全部、間違いだったってことか?」
「何言ってるか分からないですよ」
 さり気なく手を振り解きながらそっぽを向く。契約当初はこれほど騒ぎになるとは思ってもみなかった。別れた今でも縛られ続けている。会って、怒りたいことが山ほどあるのに、仕事を抜けるわけにもいかず、また実際に、厚志がいる場所も知らない。ストレスが溜まっていく。
「今日配布された会誌、見てない?」
「あー、そういえば配られてましたっけ。休憩時間に見ようと思ってました」
 “会誌”とはいわゆる社内新聞だ。支社に留まらず、本社の動きや各社の人事異動も記載される。
 馬宮のパソコン練習のため、邪魔になる物はすべて脇に寄せていた。会誌も、山積みの書類に埋もれさせた記憶がある。
 今まで積極的に「見たい」とは思わなかった社報だが、今は強い興味があった。いくらかでも厚志の情報をつかみたい。もしかしたら居場所すら判明するかも知れないと思い、実は発行される今日を楽しみに待っていた。自分の楽しみよりも仕事を優先するのは性格だ。
 工藤は少し間をあけて「そうか」と吐き出す。二人で会社の外に出ると空を仰いだ。少し雲が厚く、まるで雪でも降りそうな空模様をしている。
 そのまま会社裏の倉庫へ足を向けようとした若菜は背後から引き止められて息を詰まらせた。
 振り返った若菜は間近に迫る工藤の顔に仰け反り、悲鳴を上げようとしたが何とか飲み込んだ。
「何か阿部って放っておけない雰囲気持ってるんだよな」
 一瞬だけ工藤に抱きすくめられた若菜は硬直していた。一瞬だけとは言え、抱き締められたことは本当で、彼の力がまだ腕に残っているような気がする。正面玄関から少し外れた場所だったため、受付の人には見られなかっただろうが、往来する者たちは一様にギョッとしたような顔をして振り返っていった。
 見る間に若菜の耳が赤くなる。
「な、何するんですか」
「ん?」
 指輪はなくても私は厚志の婚約者――という言葉は飲み込んだ。虚勢を張って嘘などつきたくない。余計に惨めになりそうな気がする。
 けれど他には拒む理由がなくなって、口を噤んで工藤を睨んだ。彼の台詞は以前も誰かから聞いたことがある。自分はそんな風に見えているんだろうかと不愉快だった。
 工藤は大きく笑い声を上げて若菜の頭を撫でる。
「つい衝動的にな。なぁんか、腕に包めそうなもの見ると試したくなる衝動があるんだよな」
 若菜は工藤から一歩離れた。その目つきは「最低」と物語っている。
 工藤は気にした様子もなく、鞄を掲げて「じゃあな」と告げる。
「破局したなら俺に乗り換えても平気だぞ。むしろ積極的に乗り換えろ」
 楽しげな笑い声をあげて、工藤は若菜に背中を向けた。その背に飛び蹴りしたくなった若菜だが、さすがに思いとどまって歯噛みした。工藤の姿が見えなくなってから、彼に触れられた場所から汚れを落とすように手で払う。
 何だか非常に不愉快で腹立たしくて、その怒りは厚志へ向かった。ここ一ヶ月震えていた自分を嘲笑い、今なら怒りに任せて何でも出来そうな気がした。沸々と湧き上がる意志が瞳の色を変えていく。
 若菜は拳を握り締めて、ひとまずは倉庫に向かった。

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