優しい人
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2.

 由紀子は厚志と別れたことを知っているだろうか。これまで日を空けずに家に来ていた厚志が来なくなったことについて、何も言わない。
 若菜はストーブの前に座りながらぼんやりとしていた。
 島田は相変わらず送迎を続けてくれている。由紀子との親睦も深めたようで、時折農作物を持ってきては由紀子自作の漬物と交換していたりする。まるで老後を謳歌する老夫婦のようだ。
 若菜はそんなことを思いながら深いため息をついた。首を振って髪を揺らす。
「あら若菜。帰っていたの。……広報?」
 ストーブの前に座り、コタツに足を入れ、テーブルに突っ伏す若菜。
 裏庭から戻ってきた由紀子は上着を脱ぎながら近づいてきた。投げ出されていた社報を拾って首を傾げる。取り戻す気力もない若菜は、ただその仕草を見守った。
 今朝配られた社報だ。待ち望んでいた若菜だったが、今ではそれは、絶望を与えるアイテムにしかならない。厚志や大輝の情報が載っていればいいなという若菜の希望には充分応えてくれた。厚志のことは見開きに載っていた。けれど。
「まぁ。厚志君、しばらく姿が見えないと思ったら東京にいたのね。頑張ってるみたいじゃないの」
 先ほど若菜が見ていた欄を由紀子も読んだのだろう。楽しげな声が響いた。
 若菜は無言で由紀子から視線を逸らし、テーブルに頬をつける。由紀子が次に何を見るのか、簡単に想像できる。
「あら……」
 由紀子が言葉を失くした。
 社報を鳴らす音が聞こえ、見開き部分が最大に開かれる。
「厚志君、婚約したのね。しっかりしてそうな子」
 叫ぶでもなく、冷徹に切り捨てるでもなく、由紀子はただ親戚の近況を知ったような口調で話した。
 若菜はテーブルに顎を乗せて下唇を突き出す。
 その社報に載っているのは若菜ではない。12月に行われた披露宴とは格式が違う様相の広間で、報道員まで導入されたらしい会見場で、厚志の隣にいたのは麻衣子だった。若菜も嵌めたピンクダイヤモンドを薬指に輝かせ、麻衣子は自信に満ちた態度で微笑んでいた。彼女が腕を絡ませる厚志も、彼女を肯定するように微笑んでいた。
「うーん。お父さんには見せない方がいいわね」
 ひと通り目を通した由紀子は常と変わらぬ口調で呟き、社報を閉じた。テーブルに置く。
「……なんで何も言わないの」
 そのまま台所に行こうとする由紀子に、思わず若菜は問いかけていた。
「だって若菜の自由だもの。厚志君と見合わせたのは母さんだけど、その先は若菜の領域よ。子どもの恋愛に口出しなんて出来ないわ。でもお父さんは厚志君を気に入っていたから、しばらくは内緒にしておきましょうね」
 人差し指を頬に当てて、由紀子は若菜に微笑んだ。
 若菜はその笑顔を複雑な思いで見つめる。由紀子はそのまま台所へ行ってしまった。夕食の準備をする音が、いつもと同じ調子で響き始めた。
「なんだかなぁ……」
 両手をテーブルに投げ出して大きなため息をつく。父にはまた後回しで知らされるのかと、少々哀れな気もしたが、気遣う余裕などない。自分のことで精一杯だ。
 仕事にも支障が出る恋愛感情とは何て不便な物なのだろう。
 社報をちらりと横目で眺める。衝動的に、厚志の笑顔を平手で叩く。編集後記には本社の住所や電話番号が載せられており、記者の名前も記載されている。
 麻衣子の笑顔も、厚志の笑顔も、癪に障る。胸がザワザワとして叫び出したい。大声で怒鳴りつけたい。どちらにしろ、何かしなければ一歩も前へ進めない。
 若菜は嫌々ながら社報を指先で摘み上げ、おもむろに紙飛行機を作った。先端を尖らせる。空気抵抗を少なくするには、と、小さな頃に没頭して習得した紙飛行機の作成秘訣をフル稼働して作った。
 完成した紙飛行機を見下ろして若菜は唇だけで笑う。空気に滑らせるように、紙飛行機を飛ばす。飛距離を競う子ども大会で優勝できそうな、見事なバランスを保ちながら、紙飛行機はゴミ箱に着陸した。


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 社方が配られてから一週間。痛む胸を隠しながら努めて笑顔で仕事に没頭した。しかし、笑顔でいればいるほど胸の奥には鉛ができる。胸の内側はその内、黒く塗りつぶされてしまうんではないだろうかと不安になる。押し潰されて吐き気がしそうだ。
「阿部!」
 大声で呼ばれて我に返る。顔を上げると、会議室の前で工藤が険しい顔をしていた。何を怒っているのか理解できなかった若菜だが、背後から馬宮に声をかけられて瞬時に思い出した。
「あのぅ」
 控えめに声をかける馬宮の手には大きなお盆がある。そしてその上には5つの湯飲。馬宮が淹れてくれたのだろう。
「あ――ごめんなさい」
 若菜は慌てて立ち上がった。先ほど他県の支社の課長たちが訪れていた。紹介されたばかりだったと思い出した。彼らは会議室へ入って行き、工藤からお茶出しを頼まれたのだ。
「大丈夫ですか?」
 由紀子と同じくらいの年齢であろう馬宮が心配そうに若菜を見つめる。
「大丈夫です。ごめんなさい、ありがとう」
 ペンキャップを閉じると馬宮からお盆を受け取った。いつもなら工藤から頼まれる前に率先して淹れる若菜だが、最近はそこまで気が回らないことも多くなってきた。お茶出しは本来なら後輩の女性社員の役目だったが、生憎と彼女は一週間の有休を使っている。
 嫌な動悸を抱えながら若菜は会議室の扉を叩いた。中から工藤が扉を開ける。
「お待たせいたしました」
 工藤の責めるような視線が降り注ぎ、若菜は頭を下げたついでに唇を軽く噛み締めた。それでも瞬時に仏頂面を消して笑顔を見せる。これまで敗戦知らずの笑顔だ。案の定、他支社の課長たちは騙されて笑顔を返してくれる。
 これで少しは工藤の機嫌も良くなるだろう、と若菜はこっそりため息をついてお茶を配った。
「ご苦労さま」
「いいえ」
 お盆を脇に抱えて去り間際、工藤の声が複雑そうに床を這う。他の者たちが見ている前で彼に恥をかかせるわけにはいかない。若菜はなるべく控えめに笑みを零した。

 
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