優しい人
前へ目次次へ
3.

 ――転機は突然やってきた。
 未練ばかりを引き摺って一歩も前へ進めず、苛々ばかりが溜まって仕事にも悪影響を及ぼして。社報から厚志の居場所は得られたけれど、やはり今一歩が足りなくて二の足を踏み続けているばかり。
 一日一回は仕事上で納得の行かないミスを繰り返していた若菜は、帰宅するなり疲れて居間に倒れ込んだ。今はまだ自分で取り返せる範囲のミスで済んでいるが、これが二回三回と増え、重大なミスに発展したら周囲も黙ってはいないだろう。
 若菜はカーペットに頬をこすりつけるようにして瞼を閉ざした。
「若菜。郵便が届いてたわよ」
「あー?」
 玄関の扉が開き、由紀子の足音が居間へ入ってくる。
 彼女は呆れたような声を出した後、手紙を投げつけた。少し重みのあった封筒は若菜の頭にボトリと落ちる。
「痛ぇな」
 動くのが億劫で眉を寄せ、重いため息を洩らしながらヤレヤレと体を起こす。座り込んで振り返ってみるが、既に由紀子は二階へと上がったらしくて側にいなかった。
「誰からー?」
 返答がないと分かっていて間延びした声を上げる。
 横長の封筒はダイレクトメールや請求書を連想させたが、封筒窓から見える、印字された宛名や差出人を見た途端に若菜の表情は改まった。眠りに落ちようとしていた意識が瞬時に目覚める。
 差出人は安西紗江だった。
 忙しさに埋没していた名前に若菜の背筋が伸びる。ハサミで封を切った。中からは達筆な文字が書かれた便箋が三枚ほど出てくる。イラストや記号が氾濫することない、いたってシンプルで真面目な文面だ。
 拝啓、阿部若菜様
 出だしはそんな一文で始まる。
 読み慣れない丁寧な手紙を、多少おかしく思いながら字面を追いかける。そのうちに違和感など吹き飛んで最後を読む頃には目頭が熱くなっていた。
 紗江からの手紙には、以前の電話を詫びるような事が書かれていた。そして、手書きだと思われる地図。若菜にその気があるのなら、厚志に会って欲しいというような文章だった。
 まるで本当に保護者のようで、これでは厚志が彼らを真摯に想っても仕方ない、と改めて思う。なんていい人たちなんだろうと、何度も手紙を読み返す。
「よし」
 気合を入れるように呟いて手紙を封筒に戻した。手に残ったのは、紗江の直筆である本社の地図。それをしっかりと握り締める。
「今度こそ、紗江さんたちの期待は裏切れないよね」
 天邪鬼にそう呟いて若菜は笑った。カレンダーを確認し、明日休みを貰おうと決意する。急に休めば迷惑だろうから、明日仕事に行って片付け、次の日に休みを貰えば週休と重なって連休になる。その間に厚志に会おうと意志を固めた。


 :::::::::::::::


 この前抱きつかれた嫌悪感がいまだ体に残っている。
 若菜は工藤を睨みつけるようにしながら近づいた。気付いたのか彼が顔を挙げ、険しい若菜の表情に一瞬驚いたようだが直ぐに笑顔となった。課長とは雰囲気が似通る物なのか、そんな仕草は以前の課長と重なって見えて若菜は苦々しく思う。
 そういえば厚志のことは聞こえてきても、彼らの話は聞こえてこないなと少々寂しく思った。幾ら同じ系列会社で働いていても、場所が変わればそれまでか。
「年休簿貰いたいんですが」
「ああ、どこか行くの?」
 思い切り無礼な態度を取りたい衝動を必死で抑えて若菜は声を絞り出す。対して工藤は以前のことなど忘れたかのように平然としていて、嫌でも怒りが湧いた。
「プライベートですので」
 追及を許さずニコリと工藤に告げ、出された年休簿から自分の紙を引き抜いた。記入を工藤の側でするのがためらわれて自席に持っていこうとしたが、引き止められる。
「阿部、持っていくな。ここで書け」
 直ぐ側から丸いパイプ椅子を取り上げて工藤が示した。
「げ」
 思わず呟いた若菜は口許を手で覆ったが、工藤には笑われるばかりだ。
「俺って嫌われてんのな」
 さすがに頷けない。若菜は憮然としたまま丸いパイプ椅子を睨みつけ、意を決して座った。工藤の机から勝手にペンを拝借して年休簿に書き殴る。
「東京か?」
「――そうですけど」
「取締役に失礼のないようにな」
 若菜は顔を上げた。
 机に頬杖をついて、工藤が若菜を見つめている。まるで保護者のような眼差しだ。
「……知り合いなんですか?」
「俺の先輩」
 決して裏側を悟らせないようにニコリと笑って、工藤は答えた。
 若菜は返す言葉が見つからずに視線を落とす。続きを書いた。
「色々噂を聞いてたって言ったろ? 安西さんのことも阿部たちのことも、全部知ってるよ。厚志君は残念だったね。あれほど嫌ってた肉親から逃れようともがいてたのに、結局思い通りになってる。せめて阿部が隣にいてやってたら心労も和らいでたろうに」
「あのまま側にいたって、物理的に厚志の怪我が増えてそうな気がしますけどね」
 若菜はボソリと呟いた。側にいる工藤にも聞こえないような声量だ。
 案の定、工藤は聞き返すように首を傾げたが若菜は無視した。
 年休簿を書き終え、ふと眉を寄せて工藤を見た。
「――もしかして工藤課長がここに配属されたのって、厚志父の目論見なんですか」
 工藤は最初、何を言われているのか分からないようにキョトンとした目をしていたが、その唇に徐々に笑みが浮かんだ。紛れもない肯定だ。
 若菜は息を吸い込んで悔しく睨みつけた。
「どこまでも私はあいつの手の内ってことですか」
「子どもを守るのは大人の役目ってことだよ」
「スッゴイ不愉快です」
 若菜は吐き捨てるように告げて席を立った。自席から印鑑を取って来ると工藤と視線が絡む。
「人から自由を奪っておいて何が大人ですか」
 工藤は苦笑したようだ。
「これでも俺らは心配してるんだよ、子どもたちのこと――って、結婚もしてない俺が言ったって説得力ないけどな。極端な話、世界を良くしようと動くのだって最終的には子どもたちにそんな世界を見せたいからだろう?」
「自己満足」
「素直じゃないなぁ」
「放っといて下さい」
 若菜は素早く年休簿を完成させると工藤に突き出した。
 工藤は笑いながらそれを受取って課長印を押す。
「放っとけないって。厚志君も倒れたことだし」
「え!?」
 工藤の側を去りかけていた若菜は思わぬ言葉に勢い良く振り返った。工藤は笑っている。
「倒れた……?」
「他人の心配が出来てる限りは大丈夫だ」
 一番欲しい答えとは全く違う言葉に若菜は眉を寄せた。
 厚志が倒れたから、だから紗江があのような手紙を寄越したのだろうかと想像が広がりかけた所に工藤が一言。
「嘘だから悩むな」
 若菜は思わず工藤を蹴りかけた。
「厚志君の所に行くんだろう? さっさと行って来い」
「――っ。行って来ます!」
 どうしても弄ばれてしまう自分に苛立ちが湧き、それでも言い返すことも出来ず、若菜は肩を震わせた。
 思い切り声を荒げて背中を向け、怒りで床を踏み抜くように歩き出した。
 背後から工藤がおかしそうに笑うのが聞こえる。周囲の社員の視線が痛い。
 若菜は現状を不愉快に思いながら、それでも確実に心が軽くなった気がして、更に仏頂面を磨くのだった。


END
前へ目次次へ
Copyright (C) souheki All rights reserved