勢いにのって
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1.

 小さな頃は都会に住んでいた。けれど数年離れて戻ってきた東京は、まるで別世界のように思えて戸惑うばかり。東京の田町駅で下りた若菜は、これまで見てきたどの喧騒とも違う雰囲気に戸惑いを覚えていた。
 飲食店が立ち並ぶ地下作りの乗り場。人の流れに逆らわないようにひたすら歩く。
 どうやら帰宅ラッシュに遭遇したらしくて、駅は結構な混み具合を披露している。若菜は周囲の人たちよりも数センチ背が低いので、まるで埋もれるようになって閉塞感を覚えてしまう。
 他人に無関心な人たちが集う、妙な熱気に居心地の悪さを覚え。
 邪魔だと言わんばかりの視線を向けられて不愉快な感情を覚え。
 若菜は不快感に耐えながら彼らの背中を追いかけた。流れからはみ出てもいいのだが、どこまで行けばはみ出られるのかも分からない。体力と時間の無駄な気がする。
 足元を見ることも困難で、駅独特の匂いに顔をしかめる。
 そのまま数分歩いていた若菜は、ようやく改札から外に出る頃が出来て安堵しようとした。けれどそこで安堵は出来なかった。
 外の景色に表情を綻ばせたが、後ろから歩いてきた男に容赦なく体当たりされた。思わず呻いてたたらを踏み、眉を寄せて顔を上げると「いきなり立ち止まってんじゃねぇよ」という罵声と共に一人の男が去って行った。
 人通りの多い場所では歩行速度を緩めることも許されないと言うのだろうか。
 若菜は顔をしかめて怒鳴りつけたくなったけれど出てきた言葉は謝罪だった。納得行かない気分で「ごめんなさい」と呟いた。けれど罵倒した男は既に姿もない。他の歩行者が冷たく一瞥していくだけだ。
 若菜は自分を奮い立たせるように唇を引き結んだ。


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 ――現在、若菜は東京に来ていた。厚志に会うためだ。
 会社帰りの者たちが次々と田町駅に吸い込まれていく。スーツとコートで固めた会社員ばかりではなく、人ごみの中には綺麗に化粧を施した学生までいる。化粧など働くようになってから覚えた若菜は不思議な気分で彼らを眺めた。
 まるで別世界に来てしまったかのように疎外感を感じる。そんなことを思いながら、駅から出て少し歩いた先の壁に背中をつけて息を整えていた。
 若菜にとって東京の冬は暖かい。コートを着なくても震えないほどに。けれど東京に住まう者たちは誰もがコートを着込み、寒そうに前を合わせて足早に帰途についていた。そんな中でコートを腕にかけている若菜は目立つのか、不審がる目つきで誰もが一瞥していく。しかしそれだけで直ぐに興味を失い去っていく。記憶にも残らないだろう。
 若菜は人々から風景へと意識を移した。
 駅から真っ直ぐ、大通りへと続く舗道は綺麗に舗装されている。人の手が生み出したデザインも色も、安心して受け入れられるように計算された物。人々の流れを妨げない場所に観葉樹が植えられていたが、若菜にはそれまでもが作り物のように軽く見えた。
 工藤課長から休みを取って仕事を終え、そのまま自宅には戻らず新幹線に乗った。由紀子には一言だけ、今日は帰らないから先にご飯を食べていてと告げて電話を切った。このように急な外泊などしたことがないため、由紀子も今頃は驚いているだろう。現に何度か家から携帯に着信があったようだが、若菜はマナーモードに設定して、決して出ないようにしていた。誰かと話せば決意が揺らいでしまう気がする。
 時期が時期だけに、空席が目立つ新幹線。出張するサラリーマンたちしかいなかった。
 息を整え終えた若菜は、壁から背中を離して空を見上げた。星の明かりは街灯に消されて、微かに薄い闇が見えるだけだった。街灯に照らされた空気の中で白い息が上昇する。
 若菜は一度だけグルリと周囲を見回すと、ひとまず場所を確認しようと歩き出した。
 歩道橋に登ればある程度の周囲を確認することが出来る。けれど東京では、所狭しと高い建物ばかりが立ち並び、歩道橋程度の高さでは周囲を確認できない。最も高い建物に登らなければ分からないだろうか、と入れそうな建物を探したが、どこが会社でどこが店なのかも分からない。そして、そんなことをしている時間もない。街は夕闇も終わって夜に移行しようとしている。ひとまず、敵の居場所がどこであるのか、会社だけでも確認しておきたい。
 若菜は少しだけくたびれたスーツを直して歩き出した。
 駅から真っ直ぐに伸びる道を歩き、突き当たりまで行くと首を巡らせた。若菜が周囲を確認する、そんなわずかな時間すら許されないように後ろから人が追い抜かして行った。そうされれば若菜も知らずに焦ってしまい、追われるように階段を下りる。戸惑いながら手摺をつかもうとすると、後ろから来た人に手を弾かれた。若菜の邪魔をした男は特に振り返りもせず、そのまま足早に去ってしまう。
 若菜は憮然として鞄を握り締める。手摺には頼らず階段を下りきった。いつ押されて落ちるのだろうと冷や冷やした。それだけでも重労働で疲弊している。
「――ここをひたすら真っ直ぐ」
 途端に人の気配が消えて閑散としだした。階段を下りれば道が多岐に分かれているから混むこともないのだろう。
 けれど地元よりは明らかな人口過多で、若菜は喉を押さえた。
 誰の邪魔にもならぬよう隅に行く。紗江が描いた地図を取り出してしっかりと握り締める。鞄のチャックがしっかりと閉まっているか確認し、肩から掛け直すと脇に挟んで地図を見た。幸い、夜でも明かりが溢れているのでしっかりと確認が出来た。
「突き当たりの信号を渡って、更に真っ直ぐ」
 定規で書かれた丁寧な地図。分かりやすいように注釈も加えられている。
 直接的な言葉はなくても、その地図には密かな紗江の応援が込められている気がして温かくなる。
 ずっと険しかった若菜の表情が綻んだ。
 これから行く場所が最後の戦場だ、と気持ちを入れ替える。ゆっくりと瞬きをする。
 若菜は紗江の地図に従って歩き出した。


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 駅から五分ほど歩いた頃だろうか。若菜は酷い頭痛を覚えていた。鼻の奥が突き刺すような痛みを訴える。何とはない気持ちの悪さに涙が滲む。
「緊張してるのかな……」
 若菜はあえて声を出して呟いた。
 眉を寄せて深呼吸すると、ズキンと鋭い痛みが頭を襲う。
「った」
 その時、傍を大型トラックが通り過ぎた。地響きを立てて排気ガスを噴き出していく。一台ばかりではなく、二台、三台とトラックは続いていく。そしてその度に若菜は咳き込んだ。
「あー……何となく……理由、分かった」
 滲んだ涙を指先で拭って呟いた。
 呼吸を制限して軽く咳き込みながら、大通りに視線を移す。
 地元とは比べ物にならない交通量。
 横断禁止に指定された広い道路。
 ――地元にも横断禁止の道路はあるが、誰もが気にせず渡れる道路だ。渡り難くするために柵が設けられている訳でもなく、せいぜいが往復四車線で、走れば五秒で渡りきれる。けれど今目の前に広がっている横断禁止の道路には、腰の高さよりも少し高い柵が設けられており、絶えず車が通って流れが切れない。車線も往復8車線ほどあり、交差点は遥かに大きい。この場所を横断しよう物なら、向こう側に辿り着く前に、確実に轢かれるだろう。
 若菜は眉を寄せた。
 地元とは比べ物にならない排気量が具合を悪くしている。
「ここまで顕著だとは思わなかったな」
 視界を遮った前髪を軽く手で払い、顔をしかめながら小さく呟いた。
 理由が分かれば呼吸もしたくない。けれど息を止めている訳にはいかない。
 一呼吸するたびに鼻の奥が痛み、喉が変に渇きを訴えて涙が滲む。これ以上耐えられなくて、若菜はたまらず大通りから離れて裏路地へと逃げ込んだ。それだけでも幾らか呼吸が楽になる。しかしそれでは会社の看板も探せず、大通りに比べて道は煩雑で分かり難い。
 会社の裏口ばかりが並んでいるようだ。稀に出てくる従業員が不審な顔で若菜を見る。
 若菜はその場で何度か深呼吸をした。
 意を決して大通りに戻る。意識をすればけたたましい通行音まで頭に響いてきて、正直辛い。
 歩き出して十歩。
 早くも涙が滲むのを感じる。
 若菜は焦りながら地図に従った。
 鋭い走行音を上げて再びトラックが傍を通り抜ける。衝動的に保健室を探したくなった若菜だが「ある訳ないだろう」と一人でツッコミを入れてみた。
 進むごとに疲労を訴える体を何とか宥めてひたすら歩く。幾つか信号を渡り、大きく仕切られたビル群を眺め、必死の形相で看板を探す。並ぶビルは、ほとんどが真上を見上げなければ確認できないほど大きな物ばかりだ。
 駅から出て三十分も経っていないのに疲れきっていた。
 見上げ続けいるので首も痛い。
 ――帰りたい。
 弱気が首をもたげた頃、若菜の視界にようやく本社のビルが映り込んだ。
 なんとか無事に目的地に着けた。
 若菜は目的も忘れて深く安堵した。

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