覆水、盆にかえらず
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1.

 夜が更けても東京の空は明るい。昼間と比べて交通量も変わらない。少しだけ違うのは、乗用車よりもトラックが多くなった、ということか。
 若菜は来た道と同じ道を辿っていた。
 両手を握り締めて顔つきは険しい。涙はもう乾いていたが、油断すればまだ零れそうだ。往来に人はいないが、誰に見られるか分からない。決して涙など流さないように意識する。
 厚志が追いかけて来ることはない。
 分かっていたことだが、それでも期待してしまった自分の浅ましさに腹が立つ。
 会社の敷地から出たとき、一度だけ振り返った。あのとき、なぜ振り返ってしまったのか分からない。振り返らなければ、そこに厚志がいないことなど知らずに済んだのに。
 この傷は二度と塞がらないだろうと思う。
 若菜は鞄を漁り、純一から貰ったカードを取り出した。
 銀色に輝くシンプルなカードだ。宿泊用のタダ券だと聞いたが、本当だろうか。
 唇を引き結んだまましばらく眺める。
 立ち止まったまま辺りを見回しても、純一の情報通り、ホテルなど見当たらない。明かりの落ちた建物ばかりが並んでいる。
「駅の向こう側に行かないとないって言ってたっけ……」
 純一の言葉を思い出して顔をしかめる。
 カードを顎に当てて、低いうなり声を出す。このような事態を想定していなかった訳ではないが、基本的に行き当たりばったりな性格の若菜は、楽観的に「何とかなるだろう」と思っていた。
 若菜は軽くため息をついて首を竦めた。カードをポケットにしまう。夜が深まってきたせいなのか、夕方に比べて風が少し冷たい。そういえばコードを着ていなかった、と今更気付いてコートを羽織った。
 もうこの町に用事はない。
 悲しく思いながら駅まで足を急がせた。
 もう少し時間が早ければ気を紛らわすためにショッピングを楽しめたかもしれない。仕方がない。こういうことになってしまったのだから、後悔しても意味がない。
 明かりが消えたビジネス街を歩きながら顔を上げる。排気ガスが凄まじく、徐々に息苦しさを覚えてきた。顔をしかめて唇を引き結ぶ。
 ふと、思いつきで路地裏に入った。途端に夜の静けさと暗さが深まったが、若菜はそれを面白いと感じて歩調を緩めた。知らない場所を探索するのは好きだ。
 オフィス街の裏通りは誰もいない。昼間はポツポツと人影が見えていたが、このような時間に歩く人間はいないらしい。もしいても、それは若菜のような者か、よからぬ考えを持つ者だろう。
 遠く聞こえる車の音を何気なく聴きながら観察する。
 最近まで暗い夜道は避けてきたが、今は危機感などどうでも良かった。投げやりな気持ちになっていると思う。
 しばらくその辺りをウロウロとさまよってみたが、所詮はオフィス街の裏路地。見て楽しめる物はそうそうない。太いパイプが繋がっていたり、大きなゴミ箱が転がっていたり、空になった木箱が積み重ねられていたりするだけだ。野良猫も見かけない。ひどく閑散としている。
 若菜はそれでもなぜかその辺りをさまよい続けた。
 自分でその行動に気付いて立ち止まる。
 ――厚志が来るのを待っているのか。
 理由もないのにこの場所を離れたくないと思うのは、そうとしか思えない。自分でも良く分からない行動に唇を引き結んだ。
 一度気付いてしまうと悔しさが込み上げた。腹が立って、乱暴に歩き出す。
 若菜は振り返らない。駅まで足早に進んだ。
「どうして私があんな奴のこと待ってなきゃいけないの。振られたんだよ、私。いい加減に諦めろ。仕方ないじゃない。せっかくのチャンス潰したのは私なんだから。後悔なんてしないのが信条だったはずだろ、私。いいから……もう、いいから」
 誰もいないことを幸いに独白は続く。そうしていると言葉が自身に突き刺さる。
 自虐的だと唇を歪めて笑った。
 込み上げてきた切なさを堪えきれず、涙に変えて零した。自分が世界で一番不幸になった気がした。
「――悔しい」
 俯いて涙を零し、肩を震わせながら呟いた。
 口を開けば嗚咽が洩れる。奥歯を噛み締めて耐える。少しでも期待した自分を激しく罵った。
 立ち止まり、衝動が過ぎるのを待つ。
 両手を握り締めて、手の平にわざと爪が食い込むようにした。そうすれば痛みで少しは気が紛れる。
 案の定、少し痛みが加わっただけで意識は厚志から外れてくれた。
 若菜は小さなため息を零して足早に歩き出す。
 感傷的になっているときは幾ら気を紛らわせても無駄だと知っている。だからこそ、次の衝動に囚われる前に、ゆっくりと休めるところに行きたい。そこでなら思い切り泣ける。
 焦がれる気持ちで駅に急ぐ。あまりに早く歩いたせいで足のすねが痛くなったが構わない。思い切って走ってみると、ヒールの音がやけに高く通りに響いた。
 駅までの階段を上った若菜は振り返った。
 延々と続くビジネス街。照明が落ちたその場所は静まり返っていたが、大通りを流れる車は途切れない。単調なトラックの走行音だけが通りに響く。
 遥か遠くに視線を向けたが、若菜の視力ではどこに厚志の会社があるのか分からなかった。
 この町には二度とこないだろう。
 変に感傷になっているな、と笑って踵を返した。駅はもう目の前だ。純一から貰ったカードを握り締めて、駅へ向かう。


 ――終電がとっくに出てしまっていることは、今の若菜には知る由もなかった。

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