覆水、盆にかえらず
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2.

 暗い夜道から繁華街へ。その途端、賑やかなネオンライトと喧騒が若菜を襲った。思わず「うわ」と腕を掲げると運転席の男がおかしそうに笑う。
「あの、ここまで来れば大丈夫だと思います」
「気にするな。俺が安全だと思う場所まで乗っけてってやる」
「でも……」
 若菜は運転席の時計に視線を向ける。
 時刻は深夜を回っていた。若菜自身も眠たくなる時間だ。この男も当然、どこかで睡眠を取るのだろう。それを邪魔するつもりはない。
「気にするなって言ってるだろ。お前、出身は東京だって言ったよな」
「はい」
「こっちで最後に卒業した学校の名前は?」
 若菜は男を見た。
 スポーツ刈りをした男の横顔は厳つくて、とても力では敵いそうにないと感じる。けれど身の危険は感じなかった。彼が父親くらいの年齢だからだろう。
「……皐月林小学校です」
「皐月林か」
 男はニヤリと笑ってハンドルを切る。
 一瞬、遠心力で助手席の窓に張り付きそうになった若菜は息を止めて耐えた。いささか乱暴なスピードで交差点を曲がった男を非難の目で睨む。しかし男は堪えない。
「おお、悪いな。誰もいない夜道だとスピード出したくなるのよ」
「それは……分かりますけど」
 危ない、と注意しようとしたが、気が変わった。憮然としながら肯定すると、楽しげな笑い声が響く。
「免許は持ってるのか」
「持ってます」
「車は?」
「持ってません」
「そいつぁ残念だ」
 少しだけスピードが落ちた。住宅街が近いためだろうか。
 トラックのため、視界はずいぶんと高い。助手席も運転席もシンプルな革の席で乗り心地は良くないが、安堵する。小さい頃は義之の車もトラックだった。荷台に大工道具を乗せ、良く現場に連れて行って貰った。このトラックからも同じ雰囲気を感じて懐かしく思う。
 だからかもしれない。この男に声をかけられ、逃げることもなく助手席に乗ってしまったのは。
「貴方はどこに行くんですか?」
「まだまだ遠くさ。後ろの荷物を石川県まで届けなきゃならんからな」
 男は荷台を親指で示した。席から見える荷台には様々な荷物が積まれている。箱にはブランド名が印刷されていた。
「一緒に石川県まで行くか?」
「いいですねぇ」
 男の言葉に笑いながら若菜は頷いた。
 この車に乗るうち、自暴自棄な考えは消えていた。仕事一筋で生きてきた今までの生活に戻るだけだ。そのリズムが体に戻りつつある。早くも仕事の心配が脳裏をよぎり、課長たちの姿まで浮かんできた。彼らに迷惑をかけたくない。
 男の言葉に同意したのは単なる願望で、決してそうはできないことを知っていた。そんな若菜の思いを分かっているのか分かっていないのか、男は鼻歌まで歌いだした。
 若菜は黙り込む。口を割って出てきた歌には男のロマンがこれでもかと詰め込まれていたからだ。海だの仁義だのハチマキだの、若菜にとってはどうでもいい歌詞で朗々と歌われる。助手席に甘んじる若菜は「耳が腐る」とはっきり告げることもできず、生き地獄を味わうしかない。大体それは何の歌だ、創作歌か、旋律が良いだけに惜しすぎる。
「物騒な世の中になったよなぁ」
 不意に歌をやめた男は呟いた。
 若菜は無表情のまま振り返る。
「トラックの運転手なんて、昔は助手席に知らない奴乗せてるの、ざらにいたんだぞ。それが今じゃどうだ。ヒッチハイクもできねぇ時代だ。善意で乗せてやったっていうのに、ナイフを突きつけられる時代だ。恐ろしいよなぁ」
「貴方でもそう感じることがあるんですか」
 若菜は意外に思った。
 電車がない、と途方に暮れていた若菜に声をかけてきたのはこの男だった。
 行き先が同じなら乗せて行ってやる、と人懐こい笑顔で誘ってきた。
 彼が指したのは通りに停めたトラックだ。
 他にトラックが立ち寄るようなガソリンスタンドも飲食店もない。わざわざ若菜のために停めて声をかけたかのような状況に若菜は不審を抱いた。通常なら無視して足早に立ち去るが、そのときは自暴自棄になっていたため、「どこまで行くんだ?」という問いかけに馬鹿正直に答えていた。
 誘拐されるのも殺されるのも、どうでもいいと思った。覚悟して男の車に乗り込んだはずなのに、気付けば男は不審人物からお人好しへと格上げされていた。今では着々と若菜の信頼を積み上げつつある。
 そうして若菜を誘ったように、他の人にも軽く声をかけて誘っているんだと思っていたが、どうやら違うらしい。顔をしかめる男を見つめる。
「もちろんあるさ。普段だったら絶対、声なんてかけないね」
「でも私にはかけたじゃないですか」
 若菜が口調を強めると、男は眉を寄せた。それは不機嫌から来るものではない。困惑から来るものだ。
「俺にも不思議なんだ。でも、ときどきあるだろ。後になって考えればどうしてだか理由つかない行動に出るときって」
 若菜は視線を落とす。男の言いたいことはとても良く分かる。助手席に乗っている、今の若菜の行動がまさにそれだ。
 居心地が悪くて唇を尖らせた。言葉遊びのつもりで言ってみる。
「下心あるんじゃないでしょうね」
「とんでもない。お前が飛び降り自殺でもしそうな足取りでフラフラ歩いてたから、同情心をくすぐられただけさ」
「いつから見てたんですか」
「数分くらいかな。あそこで休憩してたんだ」
 あんな、何もないところで?
 と疑う若菜に、男は肩を竦めてみせた。そんな彼の仕草は警戒心を削ぎ落とすのに充分だ。けれど若菜は猜疑心のままに問いかけてみた。
「……斎藤厚志って名前に心当りありませんか」
 視線を男の瞳から一瞬も逸らさず観察する。
 男はキョトンと若菜を振り返った。
「芸能人か?」
 若菜は答えない。男を見つめ続ける。数秒経って、男が少しだけ不愉快そうに鼻を鳴らせて前を見た。その時点になってからようやく若菜は息を吐き出した。
「良かった。一般人だ」
「はぁ?」
「もしかして厚志の回し者なのかと思ったから。ごめんなさい、不愉快な思いさせて」
 不機嫌そうに寄せていた眉を元に戻し、男は興味を惹かれたように問いかける。
「斎藤って奴は何者だ?」
「私らの手が届かないところにいる、超お偉いさん。金持ちなの」
 男はわけが分からないというように、再び眉を寄せた。
「俺様主義で、人の気持ちは二の次で、どこからも手を差し伸べられるくせして全部断って、人が一番嫌がることを率先してやるような奴」
「何かされたのか?」
「振られた」
 続く男からの言葉はなかった。何と言っていいのか分からなかったようだ。
 若菜は助手席で足を伸ばし、思い切り肩を竦めた。そして脱力するように肩を落とす。それと同時に、肩に乗せていた重荷をすべて振り落とすかのように。
「だから駅でさまよってたわけか」
「そう。すっごく自棄になって、どうでもいいって思って、気付いたら助手席に乗ってた。おじさんが良い人で良かった」
 男は複雑に視線を漂わせた。
 深夜の住宅街にトラックの音が響く。車のスピードが更に落ちる。
「あ、おじさん、ここで止めて!」
 視界をよぎった景色に、若菜は窓に張り付いて大声を出した。
 男が慌ててブレーキを踏む。そうしなければ若菜は今にも自力で外へ飛び出しそうな雰囲気だった。
「どうした?」
「ごめんなさい、ここでいいんです。おじさん、わざとこっち方面走ってくれてたんでしょ。ありがとうございます」
「それは、まぁ、なぁ」
 言葉を濁す男に若菜は微笑んだ。
「おじさんもこっち出身なんですか?」
「うーん……いや。出身は出身なんだが、俺、前は教育委員会に勤めてたんだ。だから、学校がどこにあるか、大体は分かる」
「なるほど。人が良いわけだ」
 男は反論しようと口を開きかけたが、若菜が助手席のドアを開けたことで機会は失われた。
 トラックの座席はかなり高い。乗り慣れていなければ落ちて怪我することもある。そして若菜は、乗るとき足元がかなり不安定だった。だからトラックには乗ったことがないのだろうと決め付け、下りる時に気をつけろよ、と注意をしようとした。
 しかし若菜は乗り慣れていることを示すように、身軽に飛び降りた。男は唖然とする。
 そのまま手を振ろうとする若菜に驚いて身を乗り出す。
「おい! 俺の勝手でこっちに走って来てただけで、お前はそれでいいのかっ? 希望は繁華街だっただろっ?」
「いいです! 一度、学校も見てみたかったんですから。過去に踏ん切りをつけたそうな顔してた、でしょ?」
 男はグッうなった。
「だが、ここいらのホテルは高くて、あまり薦められねぇんだよな……」
 若菜は純一から貰ったカードを見せて、笑ってみせる。男はそれが何か分からなかったようで眉を寄せる。
「私を振った男の関係者から貰ったんです。全部タダになる、宿泊優待券。振った男だろうが何だろうが、使えるときに使っておかなきゃ」
「――女は逞しい」
「名言です」
 若菜は笑って手を振った。勢い良く助手席のドアを閉める。
「ありがとうございます!」
 夜闇に若菜の声が明るく響いた。
 数時間前まで気弱に泣いていたことなど微塵も思わせない、はつらつとした笑顔だ。
 男はまだ未練がありそうな顔をしていたが、若菜の笑顔に何も文句がないらしく、ギアを入れ替えた。チラチラと若菜を見ながら発車する。運転席から腕だけを出して、手を振る。
 若菜はトラックの荷台が闇に霞み、赤い尾灯が曲がって消えるまで見送った。
 心はすっきりと晴れていた。

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