覆水、盆にかえらず
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3.

 真夜中の小学校に若菜はいた。
 小学校三年生まで通っていた小学校だ。二十歳を超えたのでずいぶんと昔のことだが、懐かしいと思う気持ちは自然に湧いた。
 若菜は眠気も覚めて、古びた校舎を見上げ続ける。
 ここにはすべてが詰まっていた。過去も未来も考えることなく、ただそのときだけを自由に楽しく満喫できた。ここでは恐ろしい力に怯えることもない。明るく楽しい友人が沢山いた。好きになった人も沢山いた。嫌いになった人は少なかった。子どもならではの感受性で偽りなく人と接していた。
 こんなに不器用になったのはいつからだろう、と若菜は思った。
 そして、ここを出たのは自分の意志だった、とも思う。
 もちろん、転校自体は若菜が決めたことではない。両親の都合で引っ越すことになったのは、子どもではどうしようもできないことだ。
 けれど若菜は転校が決められた日、嫌だと縋ることもしなかった。ただ笑顔で、未来だけに思いを馳せて、現在を惜しもうともしなかった。泣いてくれた友人や近所の人たちはいてくれたのに、若菜だけはそれを煩わしいと感じながら、父の車に乗ったのだ。
 今では若菜に手紙を書いてくれる友人もいない。
 若菜は小さく笑って視線を落とした。
 今でも周囲には友人がいる。中学校から続く友人も、高校で新たに知り合った友人もいる。小学校にいた頃と比べれば数は少ないが、そのことを惨めに思ったりしない。今の友人たちは誰もが大切な人たちだ。
 けれど、少しだけ寂しく思う。こちらからあと少し踏み出していれば。手紙を書いていれば。電話をしていれば。今でも続く友情があったかもしれない。
 それは厚志にも言えた。
 何も変わっていないに思えて変わっていた。その違いを受け入れられなくて拒絶した。拒絶した原因はそればかりではなかったけれど、まるで子どもの頃のように接していた。大人になれば、他者の心を気遣う余裕もあったはずなのに。
 ずっと一緒に育っていれば、厚志の環境も、気持ちも、気付くことができたはずなのに。
 そう思えば悔しさが湧く。
「どこまでも、傲慢か」
 若菜は気付いて苦く笑った。
 ずっと一緒に育っていなくても分かることはある。努力しなかったのは若菜の責任だ。
 指先が冷え切っていることに気付き、若菜は息を吹きかけた。肩を竦めて冷風に耐える。木々が生い茂る舗道を眺めながら、生徒玄関の前に設置された池に近づいた。
 覗くと水面が黒く見えた。池の中は、まるで一度も掃除されていないかのように汚く淀んでいる。
「……半年に一回、上級生たちが洗ってたよね」
 若菜は眉を寄せて記憶を巻き戻した。
 確か、池の中には鯉がいたはずだ。掃除のときには上級生たちが苦労しながら大きな水槽に移していた。
 意識して覗き込むと、波立たない静けさの中で、大きな鯉がゆったりと泳いでいるのが見えた。一匹しか確認できないが、数匹はいたはずだ。しばらく水面を観察していたが、見つけられない。
 若菜は思いつき、非常食にと用意していたクッキーを取り出し、細かく砕いて池に投げた。
 その瞬間、凄まじい音を立てて水面に波が立つ。若菜が驚いて引くほどの鯉が、クッキーに食いついた。水面から顔を出した鯉の背びれがヌメリを帯びて光沢を宿す。
「うわ、気持ち悪っ」
 若菜は笑いながらクッキーを砕き、更に投げ込む。池の縁に腰掛けて残りをすべて投げ放った。まるでプール遊びしている子どもがいるのではないかという水音が響き渡る。
 若菜はしばらくその光景を見ていたが、やがて視線を空に移して首を回した。
 オフィス街を歩いていたときとは違い、学校は静かな闇を満たしている。おかげで星は綺麗に輝いていた。月光も優しく降り注いでいる。
 水音がしなくなったことに気付いて池を見ると、鯉たちは再び静寂の中に身を隠していた。水面に浮かんでいたクッキーは影もない。
「……どうしようかな」
 若菜は呟いた。
 池の縁に座っていたが、その縁から降りて、そこに肘をつく。スーツのズボンが汚れるのを覚悟で地面に膝をついた。
 静かに泳ぐ鯉たちを見ていると、時間が緩やかに進んでいくような気がする。
 時計の針はとっくに頂点を過ぎていたが、若菜はこの場所から動きたくなかった。ここにいれば、まだ夢の中に浸っていられると思う。腕に頬を乗せて瞼を閉じる。非常識だと頭のどこかが囁くが、そのまま眠りに誘われようとした。
 ――唐突に、若菜は眠りを妨げられて眉を寄せた。
 顔を上げて音が聞こえた方向を見る。
 眠りを妨げる大音声。
 安眠妨害を百も承知で奇声を発し、やたらと大きな音を立てながら公道を爆走する迷惑な人たち。
「こういうところはどこに行っても変わらないんだな」
 せっかくの上機嫌を害されて、不機嫌に吐き捨てる。鞄を肩に掛け直して歩き出す。思い出の場所がこれ以上汚される前に、壊す者のいないところまで。
 校門を出た若菜は足を止めた。
 車のヘッドライトが若菜に向けられていた。
 あまりの眩しさに腕を翳して顔を背けた。ヘッドライトは消えない。光の向こう側に何があるのか目を凝らすこともできず、若菜は車から誰かが下りてくるのを聞いた。
「なんだ、先生じゃないのか。一般人だな。こんな時間まで何やってるの?」
 聞こえたのは若い声だった。若菜は拳を握り締める。最後の言葉は、若菜を侮る口調だった。
 車のヘッドライトは未だに消えない。怒りを募らせながら若菜は手探るで校門を探した。手を伸ばせば直ぐに分かる。その位置から現在地を把握し、立ち去ろうとした。せっかくの気分を害された挙句、更なる厄介ごとに巻き込まれるのは御免だ。
 逃げる意図を察したのか、車の主が若菜に近づいた。
「っつ」
 男に腕を押さえられて、悲鳴を噛み殺す。
「不審者として警察に通報してもいいんだぜ?」
「どっちが警察に訴えられるか考えてみたら!」
 それまでの苛立ちが最高潮に達して爆発した。トラックの運転手に宥められた気持ちはあっと言う間にささくれ立つ。
 普段の若菜なら黙ってやり過ごす場面で叫んでいた。
 先手必勝、とばかりに相手のすねを蹴りつける。そうなれば後には引けない。大げさな悲鳴を上げた男を突き飛ばし、若菜は全力で逃げた。
 トラックから下ろされて、小学校まで歩いた距離はさほどでもない。いくら小さい頃に暮らした故郷だと言っても、そこを離れてからもう何年も経っている。八百屋が書店に変わり、駄菓子屋がコンビニに変わり、小さな郵便局は大きく立て直されていた。知っている光景はそこにない。危険を承知で遊んだ急カーブの道路も、危険を承知でよじ登った岩壁も、何もかもが新しくなっている。もし残っていたとしても、さすがにスーツで子どものように壁をよじ登るのは考えたかった。
 若菜は50メートルも進まないところで息を切らしていた。日頃の運動不足を実感する。朝から何も食べていないせいか、それともまだ車のヘッドライトに目が眩んでいるのか、眩暈がする。
「うー……気持ち悪」
 避難できる一番近い場所はどこだろう、と顔を上げた若菜は表情を強張らせた。
 直ぐ目の前に、見知らぬ男が立っていた。
 気付けば、小学校が見えない路地に入り込んでいた。ここを通って公園を抜け、通学路に戻った方が、自宅には近かった。無意識に昔と同じ道順を辿ったのだろう。
 けれど運がない。自宅には近くても、そこから警察署までは遠い。入り組んだ路地のせいで見通しも悪い。誰かが見つけてくれるのを願うには、あまりにも不向きな道だ。
 闇の中から現れたような男。
 若菜は捕らえようとする腕が伸びてくるのを見て、その速度が恐怖を煽るようにゆっくりしたものだと感じ、男の腕が自分の腕に触れた途端、人生の中で最も大きいかもしれない声で絶叫した。

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