覆水、盆にかえらず
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4.

 渾身の力を込めた若菜の絶叫は一秒も続かなかった。
 男の手が鋭く伸びて、若菜の口を塞ぐ。そればかりではなく、暴れようとした若菜を封じるように抱き締める。そこに優しさはない。
 若菜は恐ろしさに身を竦ませた。
 口を塞がれ、身動きもできないほど強く拘束され、犯罪者かもしれない男の息遣いを間近で聞く。これほど恐ろしい体験もそうそうあるまい。
 気を失いそうな緊張の中で若菜は息を止めた。いくらもがいでも男の力は緩まず、抵抗を許さない。このままここで殺されてしまうのかと涙を零す。自由になるのが涙腺だけとは、情けない。
「叫ばないか?」
 若菜は何を言われたのか分からなかった。
 見上げようとしても口を強く塞がれているため、頭を動かせない。視線だけで男を見上げようとする。すると男は意図に気付いたのか、若菜の口を塞いだまま、わずかに顔を持ち上げた。
 月光を背景にして浮かぶ男の顔には見覚えがなかった。
 暗い影が落ちる男の顔は、それだけでぞっとするほど恐ろしい。
 心臓の音が鼓膜にまで響いてくる錯覚に陥って瞳を瞑った。鼓動は頭の奥にも影響を及ぼす。
 男に口を塞がれた拍子に眼鏡がずれて、視界が歪んでいた。
「落ち着いてくれ。俺が悪かった。あー、そうだよな。いきなり追いかけられれば怖いよな」
 男は困惑したように視線をさまよわせた。
 その声には若菜は瞳を開ける。感情を持つ声だ。流れた涙が男の手を濡らしたようで、居心地悪そうにしていたが、それでもまだ若菜が混乱していると思ったのか、口を塞ぐ手はそのままだ。
「乱暴して悪い。でも、俺だってこんなところで叫ばれれば困るんだ。分かるよな?」
 今の若菜にとって、問いかけは脅しでしかない。
 それでも最初の頃よりはいくらか気持ちが落ち着いてきて、慎重に頷いた。男が安堵する様子に危機感が消えていく。恐る恐る「叫ばないか?」と訊ねられて、黙って頷いた。
 一瞬の勇気が過ぎてしまえば口も強張り、悲鳴など出せない。
 けれどそんな若菜の思いなど露知らず、男は不安そうな表情で若菜を見つめる。その至近距離が恐ろしさを与えているのだとは思いもしない。
 男の手が口から離れ、拘束が緩んだ途端、若菜は素早く距離を取って鞄を握り締めた。逃げられるのかと勘違いした男が腕を伸ばしたが、若菜は紙一重で避ける。そのまま逃げようとはせず、踏みとどまった。足が震えずに立てたのには驚嘆する。
 若菜は何度か瞬きを繰り返して男を見た。
「そんなに怯えるなよ。俺はキミに何もしない」
 若菜は肯定も否定もせずにただ見つめた。
「本当だよ。誓う。俺に武器はありません」
 若菜から目を逸らさず、ともすればふざけていると捉えかねない言葉で両手を挙げる。その眉は困ったように下げられている。初めて飼うウサギを前にして、どうしたらいいのか分からずにいる子どものようだ。
 若菜が息を吐き出すと男は警戒する。鞄を握り締めて、男を見る。
「どうして追いかけてきたりしたんですか」
 校門の前で会った男だった。車のヘッドライトを向け、嫌がらせをしてきた人物だ。冷静になれば見覚えがある。
 男は苦笑する。
「不審者だと思ったんだよ。こんな真夜中に小学校に忍び込んで、何してるんだって問いつめようと思ってた」
 若菜は眉を寄せた。不審者はどっちだよ、と言いたかった。
 まだ早い鼓動を感じながら意識して呼吸を整える。
「貴方は……? 私が不審者なら、私と同じ時間、小学校にいた貴方にも当てはまることじゃないですか」
「俺が?」
 若菜が問いかけると、男はさも心外だと驚いてみせた。しかし若菜の瞳に含まれた本気を悟ると、肩を竦めて苦笑を零す。
「確かに、キミにとってはそうかもしれないな。言い訳はしないよ。驚かせたことは詫びるけど」
「――私に何かするために追いかけてきたんじゃないんですね……?」
 恐る恐る問いかけた。何気ない風を装って、質問のついでだとでも言うように。
 男には「何を馬鹿な」「うぬぼれるな」とでも言われそうな質問だが、若菜にとっては大問題だ。外れた鎧を再び纏うには充分なできごとだ。
 男は軽く目を瞠り、まじまじと若菜を見たあと首を傾げた。
「違うって言いたいところだけど、何かな。どこかで会ったこと、ない?」
 若菜は胡乱な目で男を見上げた。ようやく狼藉者ではないと信用してきたところなのに、その信頼を見事に裏切るような発言だ。
 そんな雰囲気を悟ったのか男が慌てる。
「違う、そういう意味じゃない! 本当の意味で! どこかで会ったような気がするんだ」
「同じような顔の人間なんて沢山いますから」
 冷たく返して鞄を下ろした。
「誤解が解けたなら、もういいですよね……?」
 そう告げて男の前から去ろうとする。これ以上、見知らぬ男と一緒にいる義理はない。
 まだ何かを話したそうだった男に背中を向ける。
 そのとき、腕を滑って何かが落ちた。
 純一から手渡された宿泊カードだ。
 男と一悶着したとき、ポケットから零れたのだろう。
 若菜よりも先に男が拾った。
「――斎藤?」
 カードを見た男が眉を寄せる。何のカードなのかも分からないため、一般の人が見れば不審に思うのだろう。
 若菜は説明するのも面倒でため息をつき、軽く手を伸ばした。そうすれば気付いた男が直ぐにカードを返してくれるだろうと思ったためだが、男はそんな手には気付かないようで、一向に返してくれる気配がない。訝んで顔を上げた若菜の前で、仏頂面を作っていた。
「あの?」
「嫌な名前だと思ってさ」
 気付いた男は肩を竦めながら若菜に返す。
「嫌な名前、ですか」
 若菜は心臓を高鳴らせた。彼こそ純一たちの回し者ではないかと疑念が湧いたが、彼が嫌がる表情は嘘ではないように思えて戸惑った。
「私にとっても嫌な名前なんですけど」
 そこで若菜はとある物に気がついた。
 男の胸ポケットに、恐らく彼が勤めているだろう会社のマークと、彼自身の名前が刺繍してあった。何かの技術者のようだと意外に思った若菜は、次に絶句した。
「西山勝俊……?」
 視線は刺繍に吸い寄せられて、視界に入るそれ以外のすべてが遮断されたように思えた。名前が脳裏に何度も繰り返されて、遠い日々を思い出させる。走馬灯にも劣らない記憶の奔流。
 若菜の視線に気付いた男――西山勝俊は「ああ」と笑った。
「これね。外で着てると結構恥ずかしいからいつも脱いでるんだけど、今日は仕事が長引いてたからそのままなんだ。でも、これで俺の身分は証明されたかな」
 若菜はまじまじと勝俊の顔を見つめた。
 ――面影が、ある。
「何?」
 険しい表情で腕をつかまれた勝俊はたじろいだ。若菜は気にせず見つめ続ける。在りし日の面影。そして、感動すら覚えながら口を開く。
「私、阿部若菜。さっきは会ったことないって言ったけど、あった。同じ小学校だった。覚えてる。斎藤厚志と一緒のクラスだ。西山君は私の初恋の人だ」
 豹変した若菜の態度に勝俊は面食らったようだが、直ぐに笑顔に変わった。最後の言葉には驚いたようで、双眸を見開いていた。
 厚志には「根性なしだっただけ」とか「過去の人」とか言っていた若菜だが、実際に会うとなれば話は別だったらしい。
「……眼鏡、かけたんだ?」
「うん」
「似合ってる」
 徐々に確信を深めながらの問いかけ。
 若菜は彼の腕をつかんだまま、懐かしい嬉しさに微笑んだ。

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