覆水、盆にかえらず
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5.

 自分でも大した変わり身の早さだと思いながら、若菜は湧き上がる喜びに身を委ねていた。一度受け入れた知り合いだったと分かれば、警戒心など浮かんでこない。これまで頑なになっていた自分を恥ずかしくすら思う。
 驚いていた西山だが、若菜の名前を告げて昔話に花を咲かせるうち、深く思い出したらしい。二人で懐かしい互いのことを言い当てて笑いあった。最初こそ他人行儀に名字で呼び合っていたが、話すにつれ呼称も昔の物に変わっていった。
 時計の針は2時を越えている。けれど眠気すら吹き飛ぶ勢いで嬉しさが込み上げている。
「勝っちゃんは地元就職したの?」
「そう。さすがに東京で就職できないってなったら終わりだろう」
「そりゃそうだ」
 若菜は笑いながら彼にコーヒーを手渡した。
「短大行ってた奴らばかりだから、今年社会人になったのは俺だけなんだ」
「てことは四年? 何科受けたの?」
「工科大学」
「ロボット関係?」
「んー、半分正解。俺が習得したのは主に制御関係だな」
 勝俊はコーヒーに息を吹きかけて冷ましながら答えた。
 若菜は彼の隣に座る。ソファが軋んで音を立てる。妙な気分だ。
「明日は休み?」
「ああ」
 厚志とは違う優しい微笑みが向けられた。少しだけ落ち着かない気分になりながら若菜は外を見る。
 突然降り出した雨が窓を叩いている。二人で慌て、公園の木の下に逃げ込んだが横殴りの雨では意味がなかった。車に戻る提案をする勝俊には異論がなく、昔話を続けながら小学校まで戻ったけれど、問題はそこからだ。
 どうやら勝俊は車のヘッドライトを消さぬまま若菜を追いかけたらしく、戻ったら警官が待ち受けていた。最近この辺りで不審者が多いため定期的に巡回をしており、それに引っ掛かったらしい。警官は無遠慮に二人を眺め渡し、職務質問をかけて厳重注意を促した。勝俊は車の鍵も付けっぱなしにしていたので尚更だ。
 警官が睨む校舎の前で、いつまでも車の中で話し込んでいる訳にもいかない。
 勝俊は若菜を乗せて困ったように出発したのだが、生憎行く場所もない。
 どうせドライブが必然ならば、今夜自分が泊まる場所を見つけて欲しいと若菜が懇願した。長らく東京を離れていたため、これから一人でホテルを探すとなれば大労働だ。
 勝俊は簡単に了承して直ぐに手近なホテルへ車を回す。
 草木も眠る丑三つ時。このような時分であるが、フロントに備え付けのベルを鳴らすと直ぐに係りの者が現われたのに驚いた。
 純一から貰ったカードを見せると係員の方が仰天したようだが、彼の胸中など分かっていない若菜は勝俊と二人で顔を見合わせて首を傾げた。純一の名前はこんな些末な所にまで知れ渡っているのかと、意外すぎる。
 勝俊はその場で別れようとしたのだが引き止めたのは若菜だ。久しぶりの再会をまだ堪能したかったし、この幸せな気分をもう少し味わっていたい。明日になって一人になれば嫌でも厚志のことを思い出すだろうし、その前に、厚志を知る人物と花を咲かせてみたかった。そうすれば少しは気が晴れるだろう。
「小学校にいたのは何で? それもこんな時間に。そりゃ職務質問されてもおかしくないよね」
 コーヒーカップを持ちながら窓に近寄った若菜は問いかけた。
 純一のカードで通された部屋は結構な広さがあった。贅沢にも、寝室と居間と、二部屋ある。自室よりも大きな部屋だ。
「仕事始めてそろそろ一年が経つんだけどさ。今日とんでもないミスやらかしたんだ。それがかなりショックで。傷心のまま気付いたら小学校まで車走らせてた。初心に戻ろうかと思って」
「初心が小学校って……戻りすぎじゃない?」
 ソファに腰掛けたまま振り返る勝俊に笑ってコーヒーを飲んだ。砂糖もミルクも入れないブラックは結構目が覚めるような気がする。
「そっちは? 確か東北に転校してったよな。戻ってきたの?」
「ううん、今でも青森にいるよ。向こうに両親抱えてるから、家は離れられない。就職も向こう」
「そっか、向こうで就職したんだ」
 ソファの背もたれに顎を乗せて振り返っていた勝俊は、少しだけ寂しそうに笑った。そんな笑顔に若菜の鼓動が跳ねる。初恋が蘇るようだ。
 互いを窺うような沈黙が下りる。懐かしい話題は既に出尽くして、何を話せば興味を持ってくれるかと、まだこの時間を終わらせたくなかった若菜は頭を悩ませた。
「俺さ、ずっと後悔してたんだ」
 勝俊から話を振ってくれてホッと息をつくが、その内容に首を傾げた。
「何?」
「えーと、ほら。小学生の頃、若菜ちゃんを巡って斎藤らに苛められたことあっただろ」
「あー……」
 若菜は複雑に視線をさまよわせた。そんな若菜に気付かないのか、勝俊は視線を落としたまま苦い笑みを浮かべている。
「あれね。ごめん。小学生にあれはないよね」
「何で若菜ちゃんが謝るの。あれから俺ずっと若菜ちゃんを避けてて、傷つけただろ。謝りたいのは俺の方で、それをずっと後悔してたんだ」
「勝っちゃんが?」
 視線の先で勝俊が頷いた。
「ずっと謝りたいと思ってた。ごめんな」
 ソファから立ち上がって若菜に近づく。部屋の明かりが勝俊の背後に回り、彼の影が若菜に落ちた。逆光となるそれに若菜は妙な動悸を抱える羽目になる。言葉も出せずに勢い良くかぶりを振った。
「も、もう立ち直ってるから」
「やっぱり傷付いてた?」
「そりゃ、まぁ……初恋だった訳だし」
 若菜が視線を落として言い淀むと低い笑い声が聞こえた。見上げると勝俊が楽しそうに笑っている。
「変わんないよね、若菜ちゃん」
「そう……?」
 どこら辺が変わっていないのかと、複雑な気分で勝俊を見る。自分では客観的に見れそうにない。ひとまず今は、初恋の人が目の前にいるという現実に舞い上がっている。
 勝俊が笑いながら頷いた。
「自分の気持ちに素直でさ。芯が通ってて強いんだ。あの頃は若菜ちゃんに憧れてる男子、かなり多かったよ。俺が避けるようになってから色んな男子と遊ぶようになったでしょ」
「そうだっけ……?」
 若菜は首を傾げた。勝俊の最初の言葉は大いに否定したいが、彼の美しい思い出は壊さずにいようと敢えて素通りする。
「確かにまぁ、誘われることは多くなった、かな……でもあれ皆、仲間って感じで」
「女子の方が精神的に成熟するのが早いって言うけど、あの時ばっかりは若菜ちゃんが鈍くて助かったと思ってたよ、皆」
「鈍かったっ?」
 意外な言葉に若菜は大声を上げた。勝俊が笑い声を上げる。
「今日は誰が若菜ちゃんを誘って遊びに行くか、水面下では凄まじい猛攻があったとかなかったとか」
「なかったよ」
 若菜は真っ赤になって唇を尖らせた。けれど勝俊の言葉に嘘は見られず、やっぱり男は馬鹿ばっかりだったのかと呆れた笑いが込み上げてくる。勝俊に避けられるようになってから後、若菜が男友だちの集団にいたがったのは、一度誘拐されているからだ。由紀子の指示もあって、なるべく集団の中にいるようにしていただけの話。失恋したての身で色恋に胸をときめかせる暇もなく怯えていた。色恋など関係なく遊んでいるのが楽しかった。
「俺、すっごく後悔したんだ。斎藤らに絡まれた時、もしもう少し勇気だして追い払ってたら若菜ちゃんは俺の隣にいたのかなって。タイムマシンがあればな、って何回も思った。俺も若菜ちゃんが初恋だからさ」
 若菜は双眸を瞠った後に微笑んだ。
「そっか、両想いだったんだ。それは惜しいことしたね」
 それではやはり諸悪の根源は厚志だ、と若菜は拳を握り締めた。憎んでも憎み足りない。とは言え、それはドロドロした気持ちとは無縁の所にある気がする。仕方ないなぁと、ため息ですべてを表せるような気持ちだ。くすぐったいような気持ちに顔を俯け、赤い顔を見られないように努めていると、不意に手首をつかまれた。
「どうして?」
 顔を上げた若菜は抱き締められる。
「今の俺はもう子どもじゃない。若菜ちゃんが許してくれるなら、戻れるよ。あの頃に。俺は戻りたい。若菜ちゃんは?」
 真剣な声で懇願されて、若菜は胸が熱くなるのを感じた。
 ――戻りたい。何も知らない子どもの頃へ。
 勝俊の誘惑はとても甘美で、抵抗の意志が封じられてしまう。抱き締められたまま厚志とは違う夢を見そうになる。
「こうして再会できたのは、やり直せるって、神様が与えてくれた機会なのかもしれないな」
 勝俊の力が強くなる。若菜が無抵抗であるから期待を抱いたのかもしれない。
 抱き締められながら、若菜は混乱した。
 厚志に振られたのはつい先ほど。深い傷はいまだ癒えていないはずで、もう男と付き合うなんて絶対に御免だと思っていたのに、心が揺れているのは何故なのか。浮気とはこんな気分なのかもしれない、と若菜は思った。
 勝俊の胸に手をつけると簡単に離れることが出来た。抱き締められた熱で瞳が潤むのを感じながら、何かを言わなければと口を開いた。勝俊を見上げてみれば、まるで言葉を封じるように唇が下りてきて、性急な決断を迫られる。
 いやだ、と体が強張った。
 このまま勝俊に任せてしまい、厚志のことは忘れて、思い出をハッピーエンドに描き直す夢を見てもいいのかもしれないと思ったけれど、心が悲鳴を上げた。
 若菜は強引に勝俊の腕を振り解いた。
「だ、駄目。やっぱり、私は」
 瞬間的に沸騰した頭が湯気を立てそうだ。早まった鼓動が呼吸を乱し、若菜は勝俊から少し離れた場所まで逃げると涙目で彼を見つめた。
 勝俊はその場から動かず若菜を見る。
「ごめん、なさい。そういう意味で部屋に入れたんじゃないんだ。私は、本当に、ただ昔みたいに……懐かしくて」
 大輝の時と同じだ、と思ったら涙が零れた。どうして誰もが楽しい時のまま止まっていてくれないのだろう。ぼろぼろと涙が零れ、勝俊が困ったように頭を掻く。
「駄目だ私。ごめん」
「んー、いや、こっちこそ焦ったかも」
 一呼吸置いて勝俊が若菜に近づく。肩を揺らせた若菜を見て、勝俊が苦笑する。困らせたい訳ではないので若菜は急いで涙を拭いた。心臓を高鳴らせたまま見上げて小さな笑みを作ってみる。
「勝っちゃんは私が転校していった後も色々女の子と付き合ったんだろうね」
「え? そりゃまぁ……それなりに。でもいつも若菜ちゃんのことは思い出してたよ」
 若菜は笑みを保ったままかぶりを振った。
「ありがとう。でも私は駄目なんだ。この歳になってまともな恋愛したことないの。付き合った人はゼロ。トラウマになって、男の人が全般駄目みたい」
「それって……事件のせい?」
 若菜は頷いた。
 自分が知らないだけで、騒ぎになっていたのだろう。勝俊が知っていても不思議ではない。むしろ厚志に言われるまで、若菜が知らなかったこと自体がおかしい。誘拐されてから転校するまで、二年間も同じ環境にいたのに、だ。
 若菜は勝俊が苦い顔をするのを見て慌てた。
「勝っちゃんのせいじゃないから気にしないで。言いたいのはそれじゃなくてね。今まで一回もまともに男と付き合ったことなくて……ほら、この前……でもないけど、最近、結婚推進案が可決されたじゃない? それで、私は厚志と再会したの。最初は誰か分からなかったけど、トラウマに関係してた奴だったから、結構直ぐに思い出して……それで、一時的なんだけどね、恋人の契約結んで……」
 若菜の脳裏に、これまでの一年近くの出来事が過ぎった。穏やかな気持ちで思い出せるものばかりではない。消えぬ鬼火を抱いたように、思い出すだけで燃え上がる熱い感情もある。それらを消さない限り、誰とも付き合えない。厄介な性格に育ってしまったらしい。
「結構、楽しかった。過去に時間は戻せないけど、こうした未来の中にいるのも楽しいんだと分かって、救われた部分もある。過去のこと、抜きには出来ないけど全部ひっくるめて、私は厚志が好きなの。馬鹿だと思う部分も、殺してやりたいと思う部分もあるけど、偽れないみたいだ。ごめん、勝っちゃん」
 他人に自分の気持ちを素直に打ち明けるのはどうにもむず痒くて抵抗を覚えるものだったが、言い切ることが出来た若菜は満足感を覚えた。最後に拳を握り締めて眉を寄せ、本気で謝る。厚志への想いをまだ終わらせることができないから、勝俊は受け入れられない。気持ちの問題だ。
 勝俊は複雑な表情でその告白を受け止め、やがて大きくため息をついた。
「斎藤純一って、斎藤厚志の父だよな」
「うん」
 何かを思い出すように勝俊の瞳が宙を仰いだ。彼の脳裏には若菜がカードを落とした場面が過ぎっているのかもしれない。
「知ってるの?」
「俺らの業界では結構な有名人だよ。……悔しいな。最後まで俺は斎藤に負けるのか」
「あ……負けるとかじゃなくて……」
「分かってる」
 言葉を探す若菜に勝俊は頷いて笑った。雨に濡れたシャツは既に乾いている。
「斎藤らに邪魔された日から俺は避けてばっかりだったけど、あいつは時間を使ってたんだもんな。過去じゃなくて未来か」
 勝俊はテーブルに置きっぱなしになっていたコーヒーカップを持ち上げるとキッチンに運んだ。若菜はその後姿を黙って見つめる。
「法令であいつの恋人になったっていうなら余計なお世話かもしれないけど、あいつ最近、若菜ちゃんじゃない奴と婚約結んだぞ」
「知ってる」
「……いいのか?」
 勝俊は少なからず驚いたような顔をし、窺うように若菜を覗き込んだ。
 ――いいわけがない、と言いたかった。けれど勝俊に言っても仕方がない。
「発表された奴は佐藤グループの一人娘って話だ。上の奴らにありがちな、横の繋がり保とうとする発表かもしれないけど、女にしてみりゃ心中穏やかじゃないだろ」
「……そうだね」
 まさか既に振られてる、とは切り出せずに若菜は頷いた。視線を落とす。
 佐藤麻衣子との婚約は厚志にとって優位に働く物なのだろう。相手を駒にしか見ない彼らの感覚には怒りが湧くが、では自分がそれに代わることが出来るかと問われればうなるしかない。厚志を引き下ろしてまで傍にいたいとは思えない。
「じゃあ俺、帰るわ」
 その声に若菜は顔を上げた。考え込んでいたせいで直ぐに反応できない。勝俊は既に部屋の扉へと向かっていた。
「あ、ごめん。物凄く長い時間引き止めてたね」
「明日は休みだから構わないよ。こっちこそごめんな」
 先ほどまでの沈鬱さは感じさせない笑顔だ。
 若菜は救われる物を感じながら心底からの笑顔を見せた。
「男友だちに戻ろうな。またこっちに来る機会があったら連絡して。あ、これ、俺の名刺」
 差し出された四角い名刺を、若菜は慌てて受取る。
 勝俊が勤める社名や部署、本人の名前や連絡先が記してあった。時代はITへ移行しているというのに、こういう所は変わらないんだなと思うと少しだけおかしかった。それとも将来、PCメモリを渡して名刺代わりにする時代が来るんだろうか。ホームページだけのアドレスを載せて、そこですべてが片付くようになってしまうとか。
 若菜は名刺をじっと見つめた。
「じゃあな。頑張れよ」
「またね」
 本当はもっと話したかった。誰かに傍にいて欲しかった。広い部屋に一人で取り残されるのは嫌だ。けれど迷惑になってまで引き止めるつもりはない。
 若菜は複雑な気持ちを抱えたまま勝俊を見送った。
 扉が閉まると静寂が満ちて、途端に若菜は力を抜いた。

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