覆水、盆にかえらず
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6.

 勝俊が部屋を出てから10分もしない頃、部屋の扉が叩かれた。
 当然だがホテルはオートロックになっていて、鍵がなければ開かないようになっている。もしかしたら勝俊が忘れ物をして戻ってきたのかもしれない。
 若菜は飛び跳ねて扉に走り寄る。勢い込んで扉を開けた。
「勝っちゃん?」
「――違う」
 扉の前に佇んでいた影は、低い声とともに体を滑らせて入ってきた。取っ手をつかむ若菜の手を、上から重ねてつかみ、扉を閉める。部屋の明かりは扉まで届かないようで、薄い暗がりの中に男の姿が浮かんだ。
 若菜は声も出せずにその姿を見上げる。
 勝俊とは全く違う、熱い何かが込み上げてくるのを感じる。疑問符は飛び交うが、喜怒哀楽の感情が強く湧いてくる。
 入ってきたのは厚志だった。
 不機嫌な表情で入ってきた彼は、若菜を見下ろして薄く笑う。
「不思議そうな顔だな。親父のカード使えば、その情報が上がってくるようになってるんだ。あてもなく探し回るより、情報洗った方が早い」
「だからって……」
 厚志はつかんだままだった若菜の手を扉から外し、そのまま部屋の中に引っ張った。言葉を遮られた若菜は理不尽な怒りを募らせながらついていく。厚志は部屋を眺めて鼻を鳴らした。そして若菜を振り返る。
「……西山勝俊、ね」
 目ざとく若菜の手に名刺を見つけた厚志はそれを取り上げた。軽く目を通すと名刺を引き裂く。
「な……っ」
「必要ない」
 高圧的な物言いに怒りを募らせる。勝俊の連絡先をまだ覚えていなかった。サラリと目を通した時にノックが響いたため、携帯に入れてもいない。床に散っていく名刺の残骸を見たあと、若菜は奥歯を噛み締めて厚志を睨みつけた。
「判断するのは私だ! せっかく貰ったのに、どうしてくれんのよ!」
「俺の頭の中に入ってる。必要ない」
「……は?」
「大抵の技師は頭の中に叩き込んである。わざわざ名刺なんて必要ない」
 若菜は絶句し、しかし納得するのは何かが違うと拳を震わせた。
 いつにも増して今の厚志は自分勝手だ。恋人契約を結んだ当初の態度を思わせる。
「厚志には必要なくても! 私には必要だって言ってんのよ! ふざけんな、何しに来たのよ!」
 つかまれた手が熱い。それが癪に障って思い切り振り解こうとしたが、手どころか腕も動かなかった。結構な力が込められている。
「西山とよりを戻したのか?」
「はぁ? そんなことあるわけないでしょう。戻すようなよりなんて元からないよ!」
「それもそうか。俺が壊したんだからな」
 若菜は更に苛立ちを募らせた。
「だがさっき、扉を開けた時に“勝っちゃん”って呼んでたよな」
「――だから何よ。私が誰をどう呼ぼうが勝手だろう。お前に命令されても絶対やめねぇ」
「別に構わん。俺だって今更“あっくん”なんて呼ばれたくもねぇ」
 真剣な声であるのに、若菜はその想像に思わず吹き出した。その後で「最悪」と顔をしかめてみる。確かに昔、そんな呼び名で厚志を呼んでいたこともあったと思い出す。今では冗談でも呼びたくない。鳥肌を立てて辞退する。
 笑いを堪えて顔を背けた若菜を、厚志はもう一度自分の方に向けさせた。若菜の腰を引き寄せて顔を上げさせる。まるでダンスが始まるかのような格好である。若菜は勢いに逆らえず、一瞬喉を反らせた。ぐぅ、とうめく。
「西山とこの部屋に入ってから何してた?」
「な、ず、ずっと見張ってたっていうのっ?」
「俺に言えないようなこと?」
 若菜の怒りを綺麗に無視して厚志は若菜を見下ろし続けた。
 息がかかるほど顔を近づけられて、ピタリと胸に添うように腰を抱かれて、若菜は逃げ出したかった。怒りとは別に、羞恥が湧いてくる。自分の心臓の音と、厚志の心臓の音しか聞こえなくなりそうだ。あと少しこの状態が続いたら自分の体は爆発するかもしれない、と若菜は冗談ではなく思った。
「答えろよ」
「うるさいな。何で厚志に報告しなきゃいけないの。関係ないでしょ」
「――関係はある」
「へぇそう、どんな」
 押されているのが悔しくて、若菜は睨みつけながら厚志の顔に近づいた。額を合わせて薄く笑ってみる。額に力が入る。
 厚志が先に若菜から額を外し、若菜が「勝った」と笑みを浮かべた途端、次なる攻撃は来た。
 若菜の腰に回されていた手が背中に回り、若菜は強く抱き締められる。驚いたのも束の間、熱い吐息が頬を滑る。深く口付けられて短くうめく。
 せっかく封じた想いが簡単に蘇った。理不尽な厚志に怒りを湧かせ、若菜は何とか逃れようともがく。その若菜の力にバランスを崩したのか、それとも厚志が意図したのか、二人で床に倒れ込んだ。広い部屋だとどこにも頭をぶつけることがない。
 若菜は衝撃に固く目を瞑った。
「ちょっと、さっさとどいてよ。潰す気?」
 厚志の体重を一身に感じて苦しさに喘ぐ。心臓破裂まで秒読み段階のような気がする。あまりにも近い距離に視線を逸らしながら毒づく。
「大体、何で今更こっちに来るのよ。佐藤さんはどうしたの。あの後行くとか言ってなかった」
「お前が泣くならお前が先だ」
 その声が優しいものに聞こえて若菜は言葉を詰まらせる。不覚にも涙が溢れた。気付いた厚志は体を起こし、若菜を引き起こすと座ったまま抱え込む。眼鏡が軋み、少し体を離して厚志は眼鏡を取り上げると再び抱き締める。後頭部を押さえつけるように強く。
 まるで揺り篭で揺られるような安堵に心が落ち着いた頃、若菜は厚志の肩をつかんで見上げた。涙目を隠すために睨みつける。
「どうせ私じゃ厚志の有利には働かないし、天邪鬼だし、分かってるよ。来てくれてどうもありがとう!」
 若菜の脳裏に、勝気な麻衣子の姿が浮かんだ。乱暴に涙を拭って厚志を突き放す。会社に縛られた者たちの思惑は知らないが、彼女との婚約が必然ならば仕方ないのだろう。既に起きてしまったことは元に戻らない。
「感謝してるならもう少し優しく扱えよ」
「社交辞令だ」
 突き放された厚志は倒れかけて腕をつき、不機嫌に若菜を睨んだ。
 若菜は立ち上がって見下ろす。眼鏡がないせいで厚志の顔が滲んで見える。
「落ち着かせるために来たの。失恋ぐらいで自殺なんてしてらんないから平気だ。帰れ」
 一時は自棄になって知らない男の車に乗った、などとは言える訳なく、若菜は冷淡な声を出した。膝を立てて座る厚志は憮然とした表情になって立ち上がる。
「何が失恋だ。勝手に補完するな」
 その言葉に込められた意味に若菜は唖然とした。厚志は真剣な表情を崩すことなく若菜を見つめ続ける。やがて若菜はふつふつと怒りが湧き上がるのを感じた。
「勝手なのはどっちだよ」
 低い声を喉の奥から絞り出す。厚志の眉が寄せられ、若菜は奥歯を噛み締めて睨み付ける。このまま突き飛ばしてしまいたかった。修復不可能な段階にまで、粉々に壊してしまいたい。下手な夢を見させないで欲しい。
「せっかく人が勇気だして来てみれば帰れって言われるし、お前のお父さんには抱き締められるし。挙句に夜道で、殺されそうに怖い思いして……! ようやく勝っちゃんと会えて、楽しい気分だったのに……!」
 若菜はぐしゃりと顔を歪めて吐き出した。
「いい加減にどうにかしてよ……!」
 もう寄りかかることを覚えてしまった。一人でなんていられない。
 悲鳴を上げた瞬間、若菜は抱き締められる。動きを拘束されて頭を抱えられる。厚志のスーツに顔を埋め、強い力で押さえつけられても恐怖を覚えることはなく若菜はただ泣いてしがみついた。
 厚志の体温を感じながら、悔しい、と若菜は思った。
 いつの日だったか言われた言葉を思い出す。追い詰めてやると、宣言されたことを。出来るものならやってみやがれと、そのときは笑っていられた。強気を抱えたまま厚志を見返すことができた。けれど今は彼の言葉通りに追い詰められている。それが悔しい。
 まるで決壊したように涙を流し続けていた若菜だが、やがてそれも宥められる。鼻をすすりあげて肩を震わせる。東京に来ることを考えて化粧も薄くしていたはずなのだが、今の涙で流れ落ちてしまっただろうと思う。そうなればどんな悲惨なことになるのか、若菜はテレビドラマやお笑い番組などでやっている場面を想像した。これまで化粧に縁が薄かった若菜は涙で化粧が崩れたかもと心配することも初めてだ。自分の状態を把握しきれていない。
 厚志の腕がゆるみ、若菜は体を少し離そうとしたが、自分の化粧崩れを心配して離れられなかった。厚志の服をしっかりとつかんだままだ。
 厚志の手が若菜の背中を往復する。宥めようとする意図に若菜は再び瞳を熱くさせてしまう。いつまでもしがみ付いているのは不自然だと自分でも思う。けれど離れるわけにはいかなかった。みっともなく取り乱したのだ。これ以上の醜態を晒し、厚志に嫌悪感を抱かれるのが怖い。
「若菜」
 厚志の手が若菜の肩にかかる。それは若菜を離そうとする意図のものだったが、若菜は強固に体を小さくさせて厚志にしがみついたままだった。もちろん俯いたままだ。厚志が微かに身を屈め、熱い吐息で囁く。
「顔を上げて」
 それは悪質な嫌がらせか。それならこちらも譲らない。
 妙な対抗心を燃やして厚志にしがみ付き続ける。無言のまま動かないでいると厚志のため息が洩らされた。
「若菜」
「顔がひどいことになってるから嫌だ!」
 強引に引き剥がされようとしていることに気付き、若菜はたまらず叫んだ。
 しばらく沈黙が下りた。
「はぁ?」
 意味を理解しない厚志の声が、部屋に強く響く。
 若菜は唇を引き結んだまま続けた。
「泣いたから! 化粧崩れでぜったいひどいことになってる。昔そういうドラマやってたから。嫌われても仕方ないけど化け物って思われたらさすがに女として立ち直れないっていうかどうせお前にはそんなこと関係ないだろうけどなけなしのプライドというか……!」
「はぁ?」
 ため息とも知れない厚志の声が聞こえたと思った瞬間、強引に顎を取られて上を向かされていた。
「化粧なんてしてねぇだろ。なにが化粧崩れだ。お前には二十年早い」
 おそらく本気だろう声に、若菜は複雑になった。馬鹿にされているとばかり思えない声の響きだが、ひとまず危惧していた事態にはならないようだと気付き、顔を背ける。目を擦ると腕を取られた。顔を上げると厚志が近くにいる。
 厚志は若菜の手を広げると薬指にはめ込んだ。
 恋人指輪。
 若菜は慌てて指輪を抜き取る。内側を見る。そこには厚志と若菜の名前が彫られていた。微かな汚れ具合から、新品ではなく以前と同じものだと知る。
 凝視する若菜から再び指輪を奪い、厚志は若菜の指にはめた。
「忙しくて返す暇がなかった」
 淡々とした言い訳にまじまじと見つめると、顔を逸らされた。
 若菜は恋人指輪に視線を戻す。
「――元通りってわけ?」
「元通りなわけないだろ。お前が拒否るから話がややこしくなった。親父にはめられて麻衣子とのお披露目会なんぞに出席させられて。冗談じゃねぇ。どうしてくれる」
「自業自得じゃない」
 厚志は意趣返しのつもりで嫌味を言ったのだろうが、あっさりと斬られて声を詰まらせた。
「責任は取って貰うからな」
 強い口調で断言する厚志を見上げ、若菜は眉を寄せる。
「男女の台詞が逆だよ」
「関係あるか。少しくらいは責任感じろ。ここ一ヶ月のが最後の譲歩だったんだからな。二度と」
 若菜を睨みつけていた厚志はふと言葉を途切らせた。
「二度と何よ」
 本当は何となく分かっていた若菜だが、厚志が困る様子は珍しく、面白くなって促す。本気で不機嫌な視線が突き刺さるが、厚志の顔が赤くなっていて、若菜は笑った。
「恥ずかしくて言えるか!」
 若菜は思わず声を上げて笑った。いつもと立場が逆だ。厚志が悔しそうにうなる。
 外していた眼鏡に気付き、かけると再び抱え込まれて身をよじる。眼鏡をつけて振り返る。肩に厚志の頭が乗っていた。
「二度と拒否るなよ」
「また拗ねられても困るからね」
「良く言うぜ」
 低い笑いが洩らされ、吐息が首筋にかかった。くすぐったくて首をひねると厚志の瞳とぶつかる。急に見せられた真剣な表情に心臓が跳ね上がる。強く脈打つ心臓の音は、きっと厚志に筒抜けだ。肩を抱かれて背中を厚志に預けながら呼吸を止める。
「何?」
 視線を逸らしながら問いかけると、視界の端で厚志が笑った。
「とてもお前には言えないようなこと考えてる」
「――そう。絶対私の耳には入れないでね」
「聞けよ。普通は聞くだろ」
「墓穴掘りそうだから嫌だ」
 断言すると厚志は笑い、ようやく若菜を解放した。皺の寄ったワイシャツを直しながら部屋の置時計を見る。あと数時間すれば朝日が昇る時間だった。
 厚志が欠伸を噛み殺す。
「さて、と。一度戻って寝るかな」
「そうしろ。さっさと行け」
 扉を見た厚志に手を振ってやると、不満そうに唇を尖らせて振り返った。
「――引き止めろよ」
「何で」
 若菜は両手を腰に当てた。二人でしばし睨み合い、根負けしたのは厚志だ。
 ブツブツと小さな不満を言いながら扉に歩き出す。
「勝俊は招いておきながら俺は追い出すのかよ。絶対違うよな」
 そんな声が聞こえてきて、若菜は笑った。そして首を傾げる。今しも扉に手を掛けようとしていた厚志に手を伸ばし、シャツの後ろをつまんで引っ張った。
「厚志がここに着いたのっていつよ」
「……お前が勝俊と話しこんでた最中だよ。乗り込んでやろうと思ったけど、最後の賭けで待ってやったんだ」
 そこで厚志は何を思い出したのか「ああ」と呟いて若菜を振り返った。
「そういう訳だから、お前、二度と俺以外の男に触るな」
 何がそういう訳なのかは分からないが、若菜は何も言わずに厚志のシャツから手を放した。一呼吸置いてから厚志の足を蹴っ飛ばす。
「私を束縛したかったら誠意を見せてみろ」
「誠意?」
 厚志は蹴られた足に顔を歪めながら首を傾げた。
 若菜は扉を開ける。
 厚志を外に追い出して見上げると、気付いたように厚志が腰を屈めた。その顔は綻んでいる。若菜が背筋を伸ばして瞳を閉じると口付けが下りてくる。囁かれた小さな告白の言葉はキスに溶けた。


END
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