視線の先
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1.

 まるで重力から解放されたかのように体が軽い。昨夜はゆっくりと眠ることが出来た。悩んでいた今までとは雲泥の差だ。
 夜更かしし過ぎたためさすがに起きるのは遅いが、やはり何の悩みもなく爽やかな起床を迎えられることが健康の一番だ。
 若菜は温かな空気に包まれているのを感じながら、ゆっくりと意識を睡眠の底から浮上させた。体調がいい朝は、こうして意識が目覚める前に体が目覚めているので寝起きがいい。直ぐに行動に移せる。
 けれど。
 そうして目覚めた若菜は、寝慣れないホテルのふかふかの寝台に起き上がって首を傾げた。部屋に備え付けてあるキッチンから賑やかな調理の音が聞こえてくる。お湯を沸かす音や、軽快に響く包丁の音や。もしかして料理長が自ら部屋に出向くルームサービスも無条件で付けられているのかもしれない、と若菜は思った。
 せっかく思考を澄ませて目覚めたはずだったのに、いつもの寝起きと大して変わらない自分の思考を恨めしく思う。
 部屋に用意されていたパジャマはフリーサイズのため大きく、袖も裾も余っていたが、若菜は身につけていた。誰も見る者などいないだろうと思ったためだ。寝起き前に誰かが部屋にいるなど、考えてもいなかった。
 若菜は大きく開いた首周りを、余った袖で隠しながらキッチンを覗き込んだ。
 そこにいたのは厚志だった。
 若菜は思わず脱力して柱に額を押し当てる。盛大なため息を吐き出す。
「帰ったんじゃないのかよ」
 小さな呟きを拾ったのか、ため息に気付いたのか、厚志が振り返った。
「よう」
 フライパンを手にして微笑みかけてくる厚志は、殴りたい衝動を覚えるほど爽やかだった。
「何、やってるの?」
 若菜は微笑みを浮かべる余裕もなく訊ねた。
「昼飯。食うだろ?」
「そりゃ、あれば食うけど。ここってルームサービス頼めないの?」
 会話の間にも厚志は手際よく野菜をざくざくと切り、油を引いて炒め始める。
「頼めるさ。ただ、フロントに下りればひと通りの食材は揃っているし、俺はここを使うのは初めてだからな。試しがてら使ってみてる」
 厚志の言葉は良く分からない。寝起きだから理解できないのかもしれないと思ったが、考えることは放棄して柱に体を預けた。
 若菜が持てば大きくて重たいフライパンを、厚志は軽々と持ち上げて火の上で揺らす。職人が使う中華鍋も、厚志であれば易々と使えるのだろうなと、若菜は一連の動作を見ながら、ただ思った。
 厚志が作っているのはただの野菜炒めらしい。五分もしない内に完成する。そして更に、別に沸かせていた鍋に余った野菜を入れて味噌汁まで出来上がる。覗き込んだ若菜は意外にもそれらが美味しそうで「おおー」と心が篭っていない拍手を贈る。
「一人暮らし歴は長いからな、これぐらいは出来る。お前と比べるな」
「……まぁ、私の域に達しないまでもこれぐらいは出来るよ、厚志でも」
 何を言われているのか分からないように首を傾げた厚志だが、一瞬遅れて意味に気付き、若菜を睨んだ。けれど若菜は運ぶために背を向けていて、厚志は肩を竦める。
「仕事は?」
 ご飯だけはフロントから購入したらしい。真空パックを開けて、茶碗に移しかえる。
 若菜は寝台脇の棚に置いてあるカレンダーを見ながら問いかける。本日は金曜日だ。
 ひと通りキッチンを片付けた厚志が部屋に入ってきた。食卓につきながら笑う。何でも出来る男だなと、若菜は嫌味でも言われているかのように思えて眉を上げる。
「今は昼休みだ」
 言われて若菜は時計を探す。
 壁時計は確かに12時を少し回った所を指している。
「……寝たの?」
「会社に戻って仮眠は取った」
 厚志の返答に若菜は憮然とした。目の前にいる厚志からは、寝不足の疲れなど微塵も感じない。
 野菜炒めは薄味で食べやすく、若菜の好みに作られていた。悔しいが美味しいじゃないかと若菜は眉を寄せながら完食する。そうすれば厚志は若菜の分の皿まで下げて、キッチンで洗う。まさに至れり尽くせりである。
 今朝、目覚めてから今まで、通して機嫌の良さそうな厚志に嫌な予感を抱きつつも、若菜は何も言わなかった。藪を突付いて蛇を出すような真似はしたくない。蛇を出すなら天敵であるマングースを用意しておかなければ。用意周到に待ち構えていてやる。
 若菜は自分でも良く分からないことをぶつぶつと呟きながら着替えを始めた。厚志はいまだキッチンで洗い物だ。その厚志が若菜の独り言を聞きながら楽しげにしていることなど若菜は知らない。
 久しぶりに会社からもぎ取った有給を有効活用するため、鞄の中には何着かの着替えも詰めてきた。どれも軽くてかさばらない普段着で、Tシャツやジーンズだ。女の子色など必要ない。
 着替え終わった所で厚志がキッチンから姿を現し、若菜を上から下まで眺めると眉を寄せた。
「何か文句でも?」
 若菜は硬い声音で問いかけた。
 厚志はあからさまに首を振ると若菜の手をつかむ。
「つまんねぇもん着てるな。行くぞ」
「いやつまんなくていい。行かない」
 本能的に嗅ぎ取った危機感のまま反論した若菜だが聞き入れられなかった。荷物を部屋に置いたまま、若菜は厚志に引きずり出される。
「どこ行くの!?」
 大股で歩く厚志について行こうとすれば、若菜は必然的に走らなければいけなくなる。足がもつれそうになりながら引き摺られ、エレベーターまで進むと息が切れていた。
 エレベーターを待つ間に、厚志は若菜を振り返って面白そうに笑う。
「遊びに行くんだ」
「はぁ?」
 不可解な言葉に若菜の眉が寄せられる。次いで強い不信感も湧く。
 今は仕事の休憩時間と言わなかったか。仕事を抜け出してまでどこへ行くのか。
 不愉快さを覚えて睨みつける。
「覚悟しておけって言ったよな」
 厚志の表情が不意に真剣な物となって、若菜はきょとんとした。
「親父が動く前に先手打っておく必要があるんだ。今更、逃げられると思うなよ」
「逃げるって――逃げないけど」
 意味が分からないまでも不穏な空気を感じて不機嫌に呟く。
 厚志はニヤリと笑った。
「お前が俺を好きだと言ったあの言葉だけ、俺の中での真実にしといてやるから。それ以外の言葉はもう受け付けん」
「――都合のいい耳だな」
「お前が嘘つき続けてるのが悪いんだよ」
「私かよ」
 エレベーターが開いて無人の箱に二人が乗る。
 厚志の顔を見れないまま天邪鬼を通し続けていると、腰に手が回されて抱き寄せられる。その手をペシリと叩いたが二人の距離が離れることはなく、若菜は仏頂面のまま腕組みをした。

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