視線の先
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2.

 斎藤グループ御用達であるらしい店を何件か掛け持ちさせられた。
 露出度の高い服を着せられた若菜は頬を引き攣らせていたが、助け舟は与えられない。まるで皆が着せ替え人形を楽しむように、何度も着替えさせられた。若菜は見る間にやつれていく。
 ――店の時計を見ると1時を少し過ぎた所だった。
 通常、仕事の休憩時間は12時から1時までの1時間に限られているので、厚志は確実に遅刻だろうと思う。しかし先ほどから厚志は店の隅で若菜の七変化を面白そうに眺めているだけで、焦る様子は微塵もない。若菜の方が苛立って足踏みするぐらいだ。
「ベースはこちらでよろしいですか?」
「はい」
 椅子に座らせられ、横から声を掛けた店員を見ることもないまま若菜は頷いた。どうでもいいから早く終わってくれと適当になる。厚志は何がしたいのか、クリスマス近くに婚約発表をしたようなドレスを選んでは若菜に与えていた。しかしどれもが微妙に若菜の雰囲気とは合わないもので、まるで誰かをベースにしたファッションだ。
 鏡の中にいる厚志を睨みつけていた若菜は、突然髪の毛を後ろにグイと引かれて意識を自分に戻した。気付けば真後ろに女性が立っていて、楽しげに若菜の髪を梳かしている。先ほどまでは服のコーディネートに精を出していた女性である。今更だがネームプレートを確認し、若菜は彼女が店長であると知った。彼女は手際よく若菜の髪を纏め上げていく。
「お任せ下さい。佐藤様もここで身支度を整えられておりましたから」
 体を緊張させた若菜に気付いたのか店長が笑顔で声を掛けた。
 若菜はますます訳が分からなくて「はぁ?」と怪訝な表情をするだけだ。
 鏡の中で、厚志だけがその意味を理解したように笑って頷いた。それを見た若菜は、後で白状させようと決意する。実行に移せるかどうかは別問題だ。
 髪をきつく引っ張られて顔をしかめる。
 ここ数年、美容院とは無縁の生活を送っていたため、久しぶりの美容師の手付きは乱暴に思えた。皮膚が引っ張られて涙が出そうになる。そういえば成人式の時にも痛くて顔をしかめたと思い出す。
「申し訳ないのですけど、お顔が少し隠れるくらいに髪を下ろしましょうね」
 店長は楽しげに髪を一つにして縛り、そこから何やら試行錯誤し始めた。
 ホットカーラーでうねりを作り出され、とても細かい三つ編みをアクセントとして作られ、鏡の中で若菜の雰囲気が別人の様になっていく。更に丁寧に化粧を施され、店長が満足気な笑みを見せる頃には、鏡の中にいるのは若菜が見たこともない女性になっていた。右手を上げてみたら当然ながら鏡の中の見知らぬ女性も左手を上げて、若菜はしばし沈黙した。
「――さて」
 店長が厚志を呼びつけ、腕時計を確認していた厚志が立ち上がった。
 若菜も店内の壁時計を確認する。
 午後1時30分。
 若菜はヒールの高い靴を履かされ、椅子から立ち上がった所でただ立ち尽くしていた。厚志が会計を済ませ、戻ってくるまで待つ。やがて差し出された腕を取って見上げる。
「佐藤麻衣子さんに、とっても良く似てるんですけど」
 若菜は半眼になって冷ややかに告げた。どのような思惑でそのようにさせたのか分からない。含み笑いをした厚志は店長を振り返る。
「これもそう言ってるってことは、やっぱりお前のコーディネートはさすがだな」
 穏やかな笑みを浮かべていた店長の表情が微かに翳る。
「女性を物扱いするなんて、嫌われますよ」
「こいつは例外」
 店長の睨みも飄々と受け流して厚志は歩き出した。その手にエスコートされて、若菜も歩き出す。店長に軽く頭を下げるととても人懐こい笑顔で送り出される。
「……何が目的?」
 店の外へ出て、専用ドライバーが運転する車に乗り込みながら若菜は訊ねた。
 厚志は微笑んで何も答えぬまま、車を会社へと向かわせた。


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 瞳に優しい穏やかな色がパネルを変えていくのを見ていた若菜は顔を上げた。
 乗り込んだばかりの会社が目の前にある。若菜は厚志にエスコートされながら会社の中へ入る。先日と違うのは、人々の声が聞こえてくる点だ。そして、目の前に現れた二人の存在。
 どうやら厚志を待っていたらしい。
 若菜は二人の姿に瞳を瞠らせた。
「ごきげんよう、阿部若菜さん」
 フルネームで呼ぶのは尖った声。本来はとても可愛らしく響く声だが、今だけは低く、怒りを堪えているような声音だった。
 続いて彼女の隣の人物が口を開く。
「ずいぶんと遅かったですね」
 初対面の印象は最悪で、そこから更に評価を下げるような真似をし、しかし最後の最後で少しだけ印象を挽回させた男の声は、今はとても冷ややかだった。
 佐藤麻衣子と秋永和人。
 二人とも真剣な表情で、社員通行口で待ち構えていた。どちらも険しい表情だ。
「どういうことですか、厚志さん。今日の取引き先には私を紹介してくださるとの約束だったではありませんか」
 麻衣子は若菜を一瞥した後に厚志に向き直った。
「このような方を紹介されても貴方に利益はありませんよ。本日お見えになってらっしゃる方は、私が幼少から知っている方です。必ず有利な条件で契約できますわ」
 静かだが力強い麻衣子の言葉は、その裏で相当な怒りを秘めているのだと知る。今まで厚志を見つめる瞳には少なからず愛情があったと思うのだが、今は完全に消えている。憎き敵を見るような目つきで糾弾している。
 厚志はそれを黙って聞いた。側に控えていた護衛が彼らを止めようと動きかけたが、気付いた厚志がそれを制する。彼は静かに引き下がる。
「今日の相手は俺も前から知ってる相手だ。麻衣子の口添えがなくても契約は進むだろう」
「私がいた方が有利です!」
 麻衣子がカッとして声を張り上げた。白い頬がわずかに赤く染まり、施された化粧の奥に透けて見える。
「私たちは婚約を結んだんですのよ! 今更、なかったことには出来ませんわ。会誌にも載りましたし、幾つかの新聞社にも」
「その裏を知ったら世間はどう思うかな。どちらを取るかは明白だろう」
 麻衣子の肩が揺れ、怒りにつりあがっていた瞳が潤んだ。
「それは、厚志さんが、助けて下さると――」
「若菜。お前が思う幸せの定義は?」
「は!?」
 話の矛先を突然向けられた若菜は声を裏返した。
 麻衣子が敵意も露な視線を向けてくる。和人の視線も同じだ。しかし若菜は二人の視線には無頓着で、動揺もしない。厚志の視線に心を揺るがせる。
「い、いきなりこっちに話振らないでよ」
 ボソリと小さく呟いたが相手にされなかった。全員の視線が集中する。回答を促される。
「幸せの定義って――何よそれ」
 困惑して視線を泳がせた。言葉を濁らせて即答できない雰囲気を醸してみるが、厚志は黙ったまま促すだけだ。どうしても何かを言わなければいけないらしい。
 若菜は息を吸い込んで頭をフル回転させた。
 ――ひとまず生活に困らないお金があること。
 そう考えて若菜はかぶりを振る。それだとあまりにも心が貧困に思える。常に本音で思っているが、それは人前で言いたくない類の言葉だ。
 地球が未来永劫、緑溢れる爽やかな星でありますように。と少女漫画のように瞳をキラキラさせて言ってみようかと思ったが恥ずかしすぎて口に出せなかった。
 視線を床に落とし、若菜はうなり続ける。先ほどの自分の想像にダメージを受けて倒れたくなったが冗談が通じない場面だ。ちらりと厚志を見上げてみると見事に視線が合って居た堪れない。
「人が……側に、いればいい」
 沈黙が流れる中で、若菜は消え入りそうな声を吐き出した。厚志に手を伸ばしてその腕をつかむ。直ぐにその手を取られて頭を撫でられた。
 一度は拒絶したけれど、それでは自分が歩みを止めてしまうから、悪意でも好意でも、側に変化があることが一番の幸せのような気がする。生きていればそれだけで無限の可能性が広がる。様々な価値観の幸せが溢れ続ける。
 心の中で結構壮大な結論へと至ったが、若菜は納得がいったように唇に笑みを刻んで頷いた。しかし。
「何をそんな漠然と言っているのです」
 麻衣子は顔をしかめて若菜を睥睨した。少なからず肯定的な言葉があるかと思っていたため、若菜は落ち込んだ。
 麻衣子は先ほどまでの怒りを継続させたまま強く足を踏み出した。
「私の幸せはこれから作ります。厚志さんの側で、共にこの会社を支えていくことが私の幸せなのです」
「そして俺は、厚志先輩が困った時にこっそりと助けられるように……腕を磨いて。俺たちがいるから進めるんだって、思ってくれたら凄く嬉しい」
「え、そんな具体的なこと言えばいいの?」
 力の篭った二人の幸せ答弁に、若菜は呆気に取られて口を開けた。それならやはり自分も「お金」と答えれば良かった、という思いが掠めた。
 隣で厚志が呆れたように顔を片手で覆う。
「……あー、やっぱ俺は若菜がいい」
 唐突と言えば唐突な言葉に若菜は目を剥いて厚志を見上げた。素早く距離を取ろうとしたが手を取られたままで、厚志は顔を半分覆っていた手を取ると疲れたように若菜に微笑んだ。確かめるように若菜の頬に手を当て、若菜が首をひねるとその頬に口付ける。見ていた麻衣子が拳を震わせた。
「厚志、さん!」
「越後さんはもう来てんだろ?」
 厚志たちが廊下で応酬を繰り広げている間に、厚志の到着を告げたのか廊下の奥から社員が一人、走って来ていた。厚志はその彼に向けて問いかけた。会話に入って来れなかった彼は、いつ声をかけようかと様子を窺っていた。
「あ、はい。10分ほど前に、お見えになっております」
 結構な重役であろう青年は頷き、この場でただ一人、見覚えのない若菜へと視線が動かす。若菜は唇を引き結び、表情を繕う。真っ直ぐに青年を見返すと驚いたような視線が返された。彼の視線が若菜と麻衣子と、両方を往復する。
「待たせたか。どうせ親父の勘定には俺は福袋みたいなもんだから気にしないと思うが」
「福袋?」
「……当たれば儲けもんってこと」
 思わず問いかけた若菜に厚志は苦笑した。
 迎えに来た社員の後を追いかけて、厚志は若菜の背中を押す。すべてがうやむやにされそうな気配を感じて麻衣子が叫ぶ。
「どうして!?」
 振り返った若菜が見た麻衣子は、顔を真っ赤にさせていた。さすがに止めに出た護衛に縋りつく様にして若菜を睨んでいる。
 厚志が僅かに振り返った。
「俺の腕にはもう余裕がない」
 そして厚志は視線を和人に向けた。
「そろそろ自分で何とかしてみたらどうだ」
 麻衣子はポカンと口を開け、突然放り投げられた子どものような瞳で厚志を見つめた。彼女の視線がゆっくりと動き、状況が分からないまま眺めていた若菜の瞳と合い、その瞳に怒りが宿った。醜い負の感情。
「さぞやいい気分でしょうね、人の幸せを奪い取って! 貴方がいくら私の姿を似せたって、その卑しい心根までは隠せないわ! いずれ貴方も捨てられるんだから! 何よ、田舎者のくせにこんな所にまで来ないでよ! 分不相応っていう言葉も」
 顔を真っ赤にさせて、悲鳴のように叫んだ麻衣子の声が、不意に途切れた。横から伸びた和人に腕をつかまれ、険しい表情に息を呑んだのだ。
 およそ麻衣子に相応しいとは思えない罵詈雑言を黙って聞いていた若菜は微かに眉を寄せただけで何も言わない。麻衣子の悔しい気持ちはきっと良く分かるし、そうであるなら何を言っても逆効果になりそうな気がした。ここは彼女の視界から消えるのが一番の早道だ。
 若菜は早々にその場を退散しようとしていたが、思わず和人の助け舟に驚いてその場に留まっていた。
 和人は何も言わずに麻衣子を見ているだけ。それだけだが、麻衣子は瞬時に我に返ったようで、瞳を潤ませて気力を失くしたようだった。俯いて細い肩が震え始める。
「だって……これからどうすればいいの。せめて厚志さんが側にいてくれたら」
「俺が麻衣子の側にいても事態は変わらないだろ」
 厚志の言葉に、麻衣子の腕をつかんだままだった和人が顔を上げた。
「それなら俺は好きな方にいる」
 厚志は肩を竦めて告げた。和人は奥歯を噛み締めたようだったが、ふと肩の力を抜いた。これまで若菜が見たこともない、泣き笑いのような、温かい笑みを和人が浮かべて、若菜は瞳を瞠らせた。
 若菜は厚志に腕を引かれて歩き出した。もう少しその場に留まっていたかったが、厚志はそれを許さない。早足で進み出す。廊下の先では案内役の青年が色を失って走って来る所だった。後ろも振り返らずに進んでいて、ようやく誰もついてきていないことに気付いたらしい。
「麻衣子さん、凄い焦燥ぶりだったけど……平気かな」
「心配なんてしてんな。ボロクソに言われてただろお前」
 麻衣子たちの姿が見えなくなり、大樹が見えるエレベーターで上へ向かう最中に若菜は呟いた。厚志が呆れたように返してくる。
「ボロクソに言われたって、あれくらいじゃ私は動揺しないし」
 まぁ、隣に厚志がいなければそうは思わなかったかもしれないが。とは心の内だけで留めておく。
「ああいうの駄目なんだよな……」
「何が」
「何考えてるのか分かるだけに、何て言葉かけたらいいのか分からないんだもん。下手に頑丈で鈍い心持ってると気遣いも忘れる」
 わざとおどけて見せたのだが厚志から笑いはなかった。
 一呼吸置いて、若菜は問いかける。
「あのまま置いてきていいの?」
 エレベーターの壁に背中をつけていた厚志が微かに頷いた。
「これで和人にもチャンスが出るだろ。生かすか殺すかはアイツ次第だ」
「――え?」
 若菜は意味を聞き返そうとしたのだが、生憎とエレベーターが到着の音を告げて、厚志は質問を許さなかった。話を打ち切ってエレベーターを下りる。
 若菜は初めて知った事実に驚きながら、それでもどこか救われたような気分になって、次いで苦々しく顔を歪めた。
 厚志の後を追いかけた。

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