視線の先
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3.

 案内役の青年に連れて行かれたのは、先日訪れたばかりの社長室だった。
 今は秘書らしき女性が受付に座っており、厚志たちを認めると立ち上がった。
「お待ちしておりました。既に越後様が――」
 女性が若菜に気付いて笑顔を固まらせる。
「場所はいつもの所だな?」
 厚志は視線を巡らせると、社長室に繋がる扉ではなく会議用の部屋に繋がる扉へと若菜の背中を押した。若菜は居心地が悪く身をよじるのだが厚志は頓着しない。
「あ、あの、厚志様?」
「気にするな、失敗はしないさ」
 おそらく秘書が聞きたかったことはそれではないだろう。もしかしたら厚志にも分かっているのかもしれないが、厚志はそうとだけ答えた。秘書は案内してきた男性と顔を見合わせて複雑な顔をする。
「ねぇ、何考えてるの?」
 会議室の扉へ近づきながら若菜は小さく問いかけた。秘書である女性も、案内役の青年も、護衛もついてくることはない。それでも彼らの視線は、若菜たちが部屋に入るまで注視しているのだろう。
 問いかけた若菜に厚志が唇だけで笑った。
「こうなった以上、負けるつもりはない。先手必勝ってことだ」
「現状が分からないのにそんな言葉で分かる訳ないだろ」
 若菜はヒールで厚志の爪先を踏んでやろうかと思ったが、背中にまだ視線を感じていたので思いとどまる。厚志が「んー」とうなり声を出した。
「本社側の奴らにとっては、お前じゃなく麻衣子が俺の婚約者ってことになってる。それを払拭するためには親父が妨害できない時にアクション起こすしかない」
「今がその時って訳?」
「帰りの時間に間に合って良かったな」
 ふざけた物言いに若菜は眉を寄せた。いつもは一つに束ねている髪が、今は麻衣子と同じように肩に流れている。何のスプレーをかけられたのかは分からないが、髪にも艶が出ているようだ。更には麻衣子が好みそうな清楚なワンピース。ヒールで身長を補ってしまえば、少し目の悪い者が遠くから見れば麻衣子だと間違いそうな雰囲気だ。
 上品なワンピースだけは納得がいく若菜だが、その他は不満だらけでため息を零す。麻衣子を求める視線に晒され、それが裏切られた時の他人の視線を直視するのが嫌だった。条件が違うかもしれないが、日華里を求められた時と同じような居心地の悪さを覚える。
 扉の前で一つ間を置いて、厚志が中に踏み込んだ。
 若菜は彼の脇に隠されるようにしながら中へ入る。受付が設置してある外よりも少しだけ温かい空気が若菜を包み、何か上品な匂いが鼻をくすぐった。ハーブだろうかと若菜は鼻に手を当てた。
「失礼します」
 部屋へは入ったものの、目の前には衝立があった。
 厚志が入口で声を上げると直ぐに答えが返る。
「厚志か、入ってこい」
 純一の声だった。
 厚志はその声に唇の端を持ち上げ、若菜を振り返って手を繋ぐ。見つめる瞳の中には強い光が宿っていて若菜は素直に安心する。行くぞ、という小さな声に頷く。
 衝立の向こうからは打ち解けた談笑が起こり、厚志はその中に姿を現した。
「遅刻なんて、ずいぶんといいご身分――」
 紅茶の入ったカップを手にしながら振り返った純一が、厚志の隣に立っていた若菜を見て動きを止めた。彼の隣にいた男性秘書も同じだ。
 対して、純一を驚かせることに成功した厚志も軽く瞳を見開いて驚いていた。
 若菜だけが笑顔で挨拶をする。純一が向かい合っていた、越後という女性へと。
「初めてお目にかかります。この度、斎藤厚志の婚約者としてご紹介頂きました、阿部若菜と申します」
 越後は椅子から腰を上げ、上品な笑みを浮かべると若菜に一歩踏み出した。
「お目にかかれて光栄だわ。私は越後佳代子です。この方が、次代にと選んだ女性ですのね?」
「え――いや」
「そうです」
 越後の視線が純一に向けられる。素早く立ち上がった彼は否定しようとするが、その前に厚志が頷いた。越後が微笑んで純一は何も言えなくなる。動揺を多分に残した顔で厚志を睨み付ける。
 男性秘書は純一と越後の様子に、どう繕ったらいいものかと頭を悩ませて複雑な表情となっている。
 厚志は、純一の様子を一瞥すると越後に向き直った。
「お見えになるのは遼一さんとばかり思っていましたので驚きました。失礼ですが、遼一さんの奥様ですか?」
 問いかけると越後は「まぁ」と笑った。
「素敵なお言葉ですけれど――まだ婚約者ですわ」
 どこか美智子を彷彿とさせる笑顔で、越後は口に手を翳して笑う。くすくすと楽しげな様子だ。
「ああ……」
 厚志はどこか拍子抜けしたような表情で越後を見つめ、そしてようやく純一に視線を移した。
「いずれは妻になる身です。婚後は遼一だけではなく、私も表舞台に立ち、こうして提携していただける会社と共に仕事をしていきたいと思っています。今日、遼一ではなく私が参ったのもそのような意志からなのです。こちらは社会で最先端の技術を取り扱っていると伺っておりますが、女性の進出にはどのような見解をお持ちですか?」
 歯に衣着せぬ物言いに厚志は破顔した。若菜は顔を少しだけ俯けて笑い、二人は越後に促されるまま純一側のソファに腰掛けた。そうされれば純一や男性秘書も腰を落ち着けるしかなくなり、表情だけは温和を保つが視線は険しく、厚志を睨んでいる。これ以上余計なことは言うなとでも言いたげな視線だ。厚志はもちろん無視をした。
「その考え方には賛同します。貴方のような方がいらっしゃれば上を目指す女性にとって、この上ない目標になりましょう。若菜にとっても心強い」
 微かな私心に越後は明るく笑った。そして若菜に視線を移す。
「以前頂いた会誌とは印象が違っていらっしゃいますね」
「色々ありましたから」
 若菜は一言で片付けた。
 他社の会誌など読み流すのが普通であろう。越後は佐藤麻衣子の名前と会誌の写真とを結びつけることもなく、会誌のことはこれで脳裏から消えるかもしれない。読み返すことなどしないだろうから、越後の中では目の前にいる若菜こそが婚約者となる。後で誰かが告げ口などしても、この性格から陰湿な不安に発展することはなさそうだ。今さえ乗り越えてしまえば、後は後の祭りだ。
 越後はクスクスと笑いながら純一に視線を戻した。
「安心しました。これから我が社と提携していただける会社の代表が、話の分かるお方で」
「は……」
 純一は怒りのためか握った拳を白くさせていた。しかし厚志や若菜にも越後の言葉の意味が分からず、不思議に思う。
 皆の視線の中で越後は椅子に座り直し、手を組んで腹へ近づけた。
「実は今日、厚志さんを同席させて欲しいとお願いしたのは婚約者の件もあったからなんです」
「と仰いますと?」
「厚志さんの隣にいるのが若菜さんでなければ、この契約は破棄して頂こうと思っていました」
 全員が目を丸くした。そして一斉に若菜へ視線が集中したが、なぜ私なのだと問いかけたいのは若菜も同じだった。喉を鳴らせて越後を見る。
「失礼とは思いましたけれど、業績以外にも人間関係を色々と調べさせて頂きました。我が社にとって今回の契約を良き物にしたいとの思いからです。私はまだせちがらい女の身ですが、遼一と充分に肩を張れると自負しております。男の方は心よりも上辺を気にする傾向にあるようですけれど、私はこの女の身で、心も知りたいと思っております。もちろん、無闇に私心を入れるなど愚かしいことと存じております。けれど――今回の契約は我が社にとって大きなプロジェクトになる物ですから。私が心から気に入る方ではないと契約を結びたくないと、思っておりましたのよ」
 さしたる早口でもなく耳に心地よい声音。
 若菜は目を丸くしてその声を聞いていた。
「若菜さんたちのことは人伝に聞き及んでおりました。政略結婚か恋愛結婚か、純一さんがどちらを許すのかは歴然としておりますが、それでも二人が貫いて頂ければと――乙女心で応援しておりましたの」
 越後の笑みを呆気に取られて皆が凝視した。
 若菜はふと、楽しげに笑う越後を見つめながら口を開いた。
「美智子先輩の、お姉さん……?」
 美智子ほど強い口調ではないが、声の調子や笑顔、纏う雰囲気がどことなく似ていた。更には、先ほど越後が言った内容の詳細は、若菜たちに関わりある者たちが近くにいなければ決して分からない類のものだ。
 若菜が唇を震わせると越後が笑みを深めた。そんな肯定の仕草もそっくりと重なる。
「わたくしの旧姓は高岡佳代子」
「で、でも先ほどはまだ妻ではないと……」
「会社の都合で籍を入れただけです。この場にいるのがただの高岡佳代子であれば、今回のお話はただの世迷いごととして片付けられてしまうでしょう? 遼一は既に私を妻として扱っております。私もそれに異論がある訳ではありません。越後の名は都合がいいこともあります。けど、私の心はまだ婚約者のままです」
 佳代子は毅然と背筋を伸ばしながらそう告げた。
 誰もが「あり得ない」と呟いたかどうかは定かではないが、佳代子は皆を見渡すと嫣然と笑む。
「美智子に伝えておくわね、若菜さん。おめでとう」
「あ、ありがとうございます……」
 釈然としない気分で若菜は頷いた。
 これでは純一も若菜を認めざるを得ない。思わぬ伏兵に純一は苦虫を噛み潰したような顔をしており、厚志もまた複雑そうだった。
 佳代子は鞄の中から茶色い封筒を取り出す。
「それでは、具体的な契約内容の確認に入らせて頂きます」
 それまでと少々声音を違えて佳代子は封筒をテーブルに置いた。

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