視線の先
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4.

 会社の新たな契約は無事に締結された。
 真剣に交わされる契約条件を、若菜はほとんど聞き流しながら越後佳代子の横顔ばかり見ていた。美智子はあれからどうなったのだろうと、かつての先輩の姿を懐かしく思い浮かべていた。
 無事に会議が終了し、重役総出で越後を送り出し、彼女の姿が車に消えて皆が社長室に戻り――そして純一の怒りが爆発した。
「どれだけ俺に恥をかかせれば気が済むんだ!」
 契約締結の場にいた男性秘書はこの場にいない。
 純一と、厚志と、若菜。三人だけだ。
「好きな奴を隣に置くことのどこが恥だよ」
 厚志は冷静に純一を見据えるが、その声には怒りが篭っていた。
「前から言ってただろ。麻衣子を隣に置いておくなんて冗談じゃねぇって。俺が逃げ出さずにここにいることこそ奇蹟だと思えよ」
「いつまで言っても分からん奴だな! お前には佐藤麻衣子との結婚が、表面上でも必要だったんだ! 若菜ちゃんには悪いが世間的に愛人としてなら認めようと」
「ふざけんな」
 若菜と厚志、一つの狂いもなく声が合った。純一が頭を抱える。
「一度は発表した婚約だぞ。いくら契機が向こうに有利に働いたからと、こちら側が下手に出るなど――冗談じゃない。大体、なぜあんな女がいたんだ。素直に遼一が来ていればことは上手く運んだはずなんだ。軽視されているとしか」
「諦めろよ親父。いつも言ってんだろ、仕事も勝負も時の運。自分が一番好きだとか言ってた言葉じゃねぇか」
 いつまでも懊悩する純一を冷たくあしらって厚志は告げた。純一が睨みつける。
「お前は子どもだからことの重大さが分かってないんだ」
「親父は年寄りだから変革が怖いだけなんだろ」
 若菜はただ黙って聞いていた。
 純一に認めて貰えなくても、ここまで来たのだから、何があっても厚志だけは側にいると、妙な安心感があった。それだけで優しくなれる。すべて許せてしまいそうになる。今も純一の言葉に怒りを覚えることなく――聞き捨てならない言葉だけには反論したが――黙って聞いている。厚志がどうするのかだけに興味が湧く。
 純一はしばらく興奮して顔を真っ赤にさせていたが、やがて言葉も出なくなって口を空回りさせてくると、疲れたように社長室の椅子に腰掛けた。
 そんな純一の様子を見ながら厚志は持っていた鞄の口を開けた。若菜が見守る前で分厚い茶封筒を取り出した。気付いた純一も眉を寄せる。
 厚志は重そうな茶封筒を純一の机に滑らせた。
「――何だ?」
 純一が封筒の中から、幾つか束になった書類を抜き出し、机に並べて――蒼白となった。
 若菜も端から覗いてみたが、それは会計監査の報告書のようだった。会社の収支が書かれてあるものだ。
 分厚い束になったそれらを厚志は見下ろし、選り分けて純一の前に並べる。
「麻衣子が俺の側に必要なのは、いざとなったらどうにでも扱えるからだろ。今回の契約時に認識させておきたかったのは、これで大きな金が動くことになるから、そのうやむやの中にこれを紛れ込まそうと思ったから」
 厚志が並べた書類に視線を落としたまま、純一は動かなかった。
「上の奴らが動けば直ぐに露見することだ。そこまでして佐藤さんを庇いたかったのかよ」
 厚志は動かない純一を苛々とねめつけて頭を掻いた。
「とにかく、そういう訳で俺は全部知ってるから。佐藤さんは解雇しろ。麻衣子のことは、仕方ねぇ。このままにするにしても――」
「できない相談だな」
 不意に純一が立ち上がった。
 その表情にいつもの余裕はなく、厚志を見つめる瞳は険しいもの。
「会社の金を動かしていた事実は揺るがせないが、用途はあながち会社と無関係とも言い切れない微妙なラインにある。結果的に損きりとなったが経営事態に支障を及ぼすものではない。謹慎、減給処分に留めるべきだ」
 厚志の眉が不機嫌に寄せられる。純一は、ここまで知られているのならば仕方がないとでも言うように、先ほどまでとは雲泥の差で告げる。最後に浮かべた笑みはとても剣呑で寒気を催すものだった。
 厚志はもう一度ため息をついて、若菜を見た。
 二人の会話から何となく事情が飲み込めてきた若菜は瞳を瞬かせる。
「――だから、下手な小細工はなしにしようぜ親父。ひとまずここに残って、佐藤さんがヘマした分を取り戻せるよう尽力は惜しまないから」
 純一は口をへの字に曲げて、複雑そうな表情をした。厚志が持ってきた書類を元の茶封筒に入れて封をする。すべてはコピーのようだが、これが別の社員の目に触れればまた問題が湧く。
「父親のことで麻衣子も不安だろうに、冷たい奴だな」
「本当に大切な奴をおざなりにして、別の奴に手間かけてどうすんだよ。だいたい、麻衣子は俺じゃなくてもいいはずだ」
「ふん。若いくせに良く吼える」
 言葉こそ荒いものだが悪意はなく、純一は表情を綻ばせていた。
 純一が顔を上げて若菜を捉えた。
「由紀子さんによろしく、と伝えてくれ」
「……何を?」
 長らく緊張していたため、声は乾いていた。喉を押さえると純一が笑う。引き出しの中から喉飴を取り出すと投げて渡した。
「バレてるんなら仕方ない、今からでも美嘉に謝りに行ってくる、と。今まで散々由紀子さんにも迷惑かけてきたからな」
 若菜は複雑な顔をした。自分の知らない所で母はいったい何をやっていたのだと呆れが湧いてくる。自分のことは後回しにしてまで他人の世話を焼いてしまうのは阿部家の遺伝子なのだろうかと若菜は思った。
「じゃあな」
 純一は妙に晴れ晴れとした顔で告げ、厚志の肩を叩いて通り過ぎる。その一瞬で何を囁かれたのか厚志は眉を寄せて振り返る。純一はそのまま社長室を後にした。


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 若菜は帰りの新幹線の前にいた。
 東京の滞在期間は短いもので、すべての厄介ごとが片付いたと肩を回す厚志の袖を引っ張り、いい機会とばかりに観光名所巡りをした。すべて回り切れなかったのが心残りだが、厚志が東京に残る以上、来る機会はまたあるだろうと、今回は諦める。
 ここ二日で途端に増えた手荷物を厚志に持たせて指定席まで運ばせ、絶対に手放せない小さな貴重品入れだけを持ってプラットホームへ戻る。
 厚志が離れ難そうに若菜の腕をつかんでいた。それを嬉しく思いながら、厚志のあまりの情けない顔に笑いを噛み殺していた。これから少しの間、離れることになる。寂しくないと言えば嘘になる。
 新幹線の前にはほとんど誰もいなかった。空席も目立つ。活用するのは、またしてもビジネスマンだけのようだ。
「若菜――」
 複雑そうに呟く厚志を見上げた。
 厚志にはこちらでやるべきことがあるだろうし、若菜にも向こうでやることがある。
 課長は心配しているだろう。由紀子も同じだ。あまり長い間彼らと離れていると、戻った時に何をされるか分かった物ではない。
 若菜は厚志の手を外して昇降口に足を掛けた。発車の時間まではもう少しある。厚志が焦ったように告げた。
「若菜。結婚しよう」
 若菜は深いため息を吐き出した。ある程度の予想はついていた言葉である。
 振り返ってぶつかる視線は熱くて真剣なもの。
 それでも、今の厚志の隣にいれば、荷物になるのは確実なことで。
「軽々しく言わないでくれる。嫌だ」
「軽くないだろ。何が嫌なんだよ」
 厚志がややムッとして唇を尖らせた。
「私にはまだまだやる事があるの。このまま仕事を終わらせてたまるか」
「俺は若菜に側にいて欲しい」
 台詞の途中を遮られて若菜は詰まった。
「それは――私だって一緒だけど」
 駅に流れるアナウンスに負けそうなほど小さな声で、俯いて視線を逸らしながらボソリと呟く。それをまさか聞き取れた訳ではないだろうが、厚志が嬉しそうに追撃した。
「由紀子さんたちのことなら俺が説得するぜ? 大体、このまま遠距離恋愛なんてまだるっこしいだろ」
「それは厚志の言い分だろ」
 若菜は視線を逸らしながら頬を掻いた。反撃の言葉が思いつかない。
「何が駄目なんだよ」
 若菜は眉を寄せた。
「厚志がまだ男になりきれてないから嫌」
「はぁ?」
 厚志の顔が不機嫌に歪められた。
「何で俺が」
「これでまた和人みたいなの送り込んできたら絶交してやる」
 厚志がわずかに詰まった。
「色々――お前のせいでトラウマ克服できたし、次からは負ける気もしないし、何かあっても厚志がいるって考えたら不安はないし」
「俺のせいじゃなくて俺のお陰だろ」
 ボソリと不満そうに厚志が呟いた。けれど不機嫌ではない。
「じゃあ後は」
 厚志がニヤリと笑う。
「お前の料理が俺を殺さないか、という不安だけだな」
「因みに今すぐ殺すことも可能だ」
 暗に上達しろと言われて、若菜は据わった目で厚志を睨んだ。腕を伸ばして首を絞めるふりをする。そうすると強く抱き締められ、若菜の足が微かに地面を離れた。近い距離で、深い口付けを交わす。
「次に会うときは覚悟しとけよ」
 若菜は胸の奥がギュッと熱くなるのを感じて笑った。厚志から体を離す。
「それなら私はもうしばらく逃げ回ってることにしよう」
「おい」
 クスクスと笑って厚志の胸に頬をつける。抱き締められ、直ぐにその腕から抜け出すと再び新幹線の中へ飛び込んだ。
「覚悟しとくのはそっちだよ。敵であるのは変わらないけど――これからは、厚志を側で支える一人の女になってやるから」
 厚志は口を開け、思い切り唇を引き結んで視線を逸らした。
「それなら普通は求婚受け入れるだろ。全っ然分からねぇ」
 ブツブツと呟く厚志に若菜は笑う。
「じゃあね」
 発車のアナウンスが流れ、扉が閉まる。その一瞬前に厚志が腕を伸ばそうとしたのが見えた。けれど途中で拳に握られ下ろされる。
 扉のガラス越しに若菜は手を振り――静かに電車が動き出した。


 若菜が厚志の誘いを承諾するのはこれから二年後となる。

天敵という名の婚約者 完

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