期待と不安
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1.

 ガラス窓に自分の顔が映り込んでいた。まるで迷子になったように不安そうな表情をしている。
 若菜はただ無言で自分を見つめた。
 まだ心臓が高鳴っている。否、時間が経つにつれて鼓動は早く大きくなっていく。高揚とはまた違う。時間が経ち、奴から離れるごとに膨れ上がる。
 これは不安だ。

 若菜は厚志と別れた後もしばらくは席に戻らず立ち尽くしていた。
 きっと厚志も同じだと思う。新幹線が駅から出るまで、その場で見送っていたから。
 新幹線は徐々に速度を上げていく。それに合わせて若菜の体も揺れ動く。
 車掌の声が車両に響いた。行き先のアナウンスだ。
 若菜は瞳をゆるく瞬かせてようやく踵を返す。手にしていた貴重品を握り締めて車内に戻る。
 車内は静かだった。
 休みの日に見られる家族連れなどいない。シーズンオフのため、今はビジネスマンが活用するだけだ。車内の席は見事に黒スーツばかりだ。
 行きと同じような光景。だが気持ちは異なる。
 若菜はどうしても遅れがちになる自分の行動に苛立ち、叱咤して顔を上げた。
 すべてを彼に頼りきりになりたくない。そのために離れた。初めて実った恋だから、寄りかかり過ぎて共倒れにならないために。
 若菜は席に戻りながらゆっくりと車内を眺めた。
 家に戻るまではかなりの時間がある。今のうちに眠ってしまった方が楽だ。感傷に浸るなど自分らしくない。
 新幹線は空席が目立っていた。若菜の指定席も、人が座る席から離れてポツンとしている。隣には誰もいない。貴重品だけ抱えて眠ってしまっても盗難の心配はないだろう。
 若菜は一人で腰を下ろし、窓を流れる風景に首を傾げる。分厚い窓ガラスは外の風景と若菜の表情を二重に映す。まるで鏡。
 若菜は自分の表情がまるで、ぼんやりした表情、というよりも泣きそうに歪んだ表情に見えて唇を引き結んだ。
 ――本当に、冗談じゃない。
 つい先ほど聞いた厚志の声が耳に残っている。
 想いが通じ合った今、遠距離恋愛など平気だと思っていた。その心に嘘はない。しかし、こうして本当に別れてみると不思議なくらい気持ちが揺らいでいるのが分かる。厚志の温もりを必死で思い出そうとしているのが分かる。滑稽だ。
 若菜は窓枠に肘をついて外を眺めた。
 ――私の婚約者。
 その言葉はまだ実感を伴わない綿菓子のように胸の深くで揺れている。くすぐったくて気持ちが悪い。もどかしくて振り払いたくなってくる。
 若菜はクスリと笑う。
「平気」
 小さく声を出してみる。瞼を閉ざし、風景からも心を遮断し、厚志だけを思い浮かべる。先ほどまで共にあった、幼馴染としてのペースを思い描く。
 私たちにはまだ、恋人のペースよりも幼馴染としてのペースが必要なのだと思う。そうしなければきっと私の方が破綻する。逃げ出したくなってくる。厚志の瞳が恐ろしい。厚志が男になりきれていないから、と言ってはみたものの、その内実は別のところにある。自分が子ども過ぎて話にならない、と直感で悟っていた。
 厚志と離れ、次に会えるときまで少しでも成長したいと思い、厚志の話を蹴った。酷く甘美で逆らいがたい話であり、厚志の気持ちが動くことも容易に考えられたことではあるが、それでも彼の手を取ることはできない。心配ならば厚志の心が揺れ動かないように捕まえておけばいい話だ。
 若菜はそんな自分の強気に苦笑した。自信などないくせに。
「――平気」
 若菜は後ろの席に誰もいないことを確認してから背もたれを倒した。
 最初に考えていた通り、目的地に着くまで眠ることにする。
 渦巻く期待と不安にひとまず目を瞑る。
 これからが正念場。
 どこまで走り続けていられるか。
 厚志にはまだ、私の敵であり続けていて欲しい。
 若菜が眠りに入ろうとしたとき着信音が響いた。若菜は明るい照明に瞳を潜めながら携帯を見る。着信音は一度だけで途切れ、メールが来たのだと知る。無視して眠ってしまおうかと思った若菜だが興味を引かれて携帯を開いた。そこには厚志からのメールが届いていた。
 受信箱を開けてメールを開く。
 届けられていたのは簡素な言葉。

 若菜へ
  負けるなよ

 たった一言だけで、その後に追加メールが届くこともない。
 若菜はまじまじとそのメールを見つめて瞳を歪ませた。
 込められた意味は様々あるだろうけれど、何よりも嬉しい言葉に思えた。
「――負けないよ」
 お前にだけは、と心の中で呟いて若菜は携帯を操る。
 返信は厚志にならって一言だけ。

 厚志へ
  勝ち逃げされるのは癪に障るからね

 と、それだけを打って送信する。
 メールの返信がくることはなく、若菜もあえて電話をしたりはしない。恐らく言いたいことは届いていると思うことにする。
 長らく敵同士であり続けたのだ。関係を変えることは難しい。それならばいっそのこと敵同士のまま関係を続けていけばいい。厚志にとっては迷惑な話だろうが、若菜は愉快な気分になって再び携帯を開いた。
 厚志を示すニックネームの欄には『敵』という文字が打ち込まれている。それを一度消し、婚約者、と打とうとして指を止める。少しだけ首を傾げて考え、適当な言葉がないかと探す。
 やがて腹は決まって若菜は打ち込んだ。
 生涯の敵。決して負けたくない相手。
 そんな意味を込めて、『天敵』と。
 若菜は笑みを刻んで保存をかけ、携帯をしまった。


END
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