見えない心
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1.

 電話が来たのは夜だった。
 リビングで鳴り響くコール音に気付き、美嘉はゆっくりと腰を上げる。何もする気が起きない。動作は緩慢だ。誰もいないマンションはとても広く感じられる。コール音がしなければ静寂ばかりが身に迫る。
 美嘉はしばらく電話機を見つめた。企業からの勧誘電話は10コール以上は鳴らないという。そんなことを思いながら電話機を見つめる。やがてコール音は10を超え、美嘉はようやく受話器を取り上げた。
「――もしもし」
『美嘉!? あ、私、由紀子だけど! ちょっと大丈夫っ? 妙なこと考えてないでしょうね。死んだりしたら許さないわよ!』
 美嘉は受話口からけたたましく響いてきた声に面食らい、瞳を丸くしたが笑みを零す。久しぶりに聞く由紀子の声が活力となった。
「平気よ。少し暗くなっていただけ」
『なにが“少し”よ。大いに暗いわよ、美嘉の声!』
 由紀子はずいぶんと憤っているようだ。勢いは強い。
 美嘉はくすくすと笑い続ける。
『――留守電、聞いたわよ』
 不意に由紀子は声を低くした。その言葉に美嘉は瞳を歪ませる。小さな溜息をついて顔を上げる。壁掛けのカレンダーを意味もなく見つめた。次の言葉を出すまでに間が空いた。
「……そう」
『そう、じゃないわよ! 買い物から帰ってきて、凄くビックリしたんだから。純ちゃんてば何考えてるのかしら』
 上がった名前に美嘉は表情を強張らせるが、顔の見えない由紀子には伝わらない。彼女は本気で心配し、本気で怒ってくれている。
 美嘉は嬉しさと同時に僅かな嫉妬も覚えていた。努めて伝わらないようにしながら息を吐き出す。
「うん……。純一、ね。最近は電話もこなくなってたし、たまに戻ってきても直ぐに次の出張に行ってしまうし、ぜんぜん気付かなかった。気遣いが足りなかったのかもしれないね」
『なに言ってるのよ。美嘉はようやく仕事が認められて、今が大切な時期なのよ。気遣われるのは美嘉の方よ。純ちゃんはもっと前から仕事が認められてたんだから。今度は美嘉の番だっていうのに』
 憤慨する由紀子が目に見えるようだ。
 美嘉がクスリと笑うと、その気配に気付いたのか由紀子は唸り声を上げた。機嫌を損ねてしまったらしい。美嘉は慌てて身を乗り出す。
「ごめんね。心配、したでしょ」
『……そりゃそうよ。これまで何回か連絡は取ってたけど、美嘉からの電話自体が珍しいんだから。それなのにいきなり、離婚しちゃった、ですもの。迷惑電話さながら折り返しし続けたっていうのに繋がらないし、本当に自殺かと思ったわよ』
「ああ、ごめんね。今まで外にいたから……突然のことで、私もちょっと、動揺して……」
『動揺して当たり前でしょう!』
 大音声で怒鳴られて、美嘉は首を竦めた。
『もう……』
 由紀子の怒りはなかなか静まらないようだ。けれど美嘉は、これまで一人で暗くなっていた気持ちが幾らか払われたような気になって、笑みを浮かべていた。日が落ちかけていたことに気付いて電気をつける。明るい光が部屋に満ちた。
『美嘉のところって息子がいたわよね』
「厚志のこと?」
『そうそう。厚志君。親権はどうなったの?』
 由紀子の言葉に厚志の顔が浮かんだ。なかなか元気に育ってくれた息子で、学校から呼び出しを食らうこともしばしばだった。どういう教育をしているんですかと怒られることもあった。世間の目が厳しいため面と向かって非難されることはなくなったが、先生たちが厚志に手を焼いていることは変わらないらしい。けれど先生の前で美嘉が肩を落として謝ると、不機嫌ながらも必ず先生をやりこめる一面も持つ、優しい子どもだ。それが怒りを煽ることになると気付けないのは子どもならではであるが。
『美嘉。聞いてるの?』
 由紀子の怪訝そうな声に美嘉は慌てて我に返った。
「き、聞いてるよ。厚志の親権は純一に渡したわ。だって私はまだデザイナーとして駆け出しで収入の保証はないし、あの人も息子を欲しがっていたから……」
 由紀子のため息が聞こえた気がした。純一を庇うような言い回しになっていたからだろうか。意識したわけではないが、長年の習慣とは恐ろしいものだ。由紀子の呆れる表情は直ぐに想像できた。
 美嘉は複雑な気持ちになりながら首を傾げた。
 純一とマンションを出て行くとき、厚志はかなり荒れた。美嘉が聞いたこともない乱暴な声で純一を罵り、凄まじい剣幕で抵抗した。そのときばかりは美嘉も心が潰れそうに痛んだが、こうすることが厚志にとって一番いいと考えて決めたことだ。それに、厚志に会うことを禁止されたわけでもない。
「由紀子のところにも子どもがいたわよね。厚志と同い年じゃなかった?」
『ああ。私のところは平和なもんよ。私相手に暴れたらさすがに不味いと思ってるらしいから、拗ねても口を利かないだけだし。部屋に閉じこもって絶食するくらいが精一杯の抵抗ね』
 明るく笑い飛ばす由紀子に、少々その子どもが哀れに思えた美嘉である。
 噂をすれば影とやらで、そんな話をしていたとき、受話器の向こう側から玄関扉が開く音がした。由紀子が「おかえり」と言っているところを聞けば、くだんの子どもが帰って来たのだと分かる。
『若菜。お母さん大事な話してるから、カレーでも作ってよ』
『あー? やだ。今日は疲れてんの。それぐらいなら今日はもう寝るよ』
『若いくせしてなに言ってんのよ。牛乳入れれば疲れも吹き飛んで、背だってもっと』
『うーるーさーい! 伸びるときは伸びるし伸びないときはどんなに頑張っても伸びないんだよ、いい加減に身長を引き合いに出すのやめてくれない? とにかく、今日はもう寝る! 絶対に嫌!』
 バタバタと階段を駆け上がる音が聞こえた。逃げたのだろう。由紀子の舌打ちが聞こえてくる。
「ごめんね由紀子。私は大丈夫だから。夕飯、作ってあげて」
『嫌よ』
 美嘉は聞き間違えたかと思った。
『私だってたまには楽したいもの。いいのよ。義之もいないから女二人だけだし。若菜が要らないって言うなら、今日は私だけカップラーメンで済ませるわ。最後の一個だったのよね。悔しがる顔が目に浮かぶわ』
 貴方はそれでも母親ですか、と美嘉は頬を引き攣らせた。そんな母親の元で育った若菜を見てみたい気にさせられる。それと同時に由紀子らしくて笑いが込み上げてきた。こんな無責任で奔放なところも昔から変わらない。嬉しく思う。羨ましくもある。
 笑っていると由紀子が少しだけ、おどけるように世間話を持ち出してきた。近所であった笑える勘違いや、若菜から怒られたとんでもない失敗や、近くに安いスーパーが出来たことや。どれも美嘉には関係のない些細な由紀子の身の回りだが、まるで昨日まで一緒に遊んでいたように違和感なく話に溶け込めてしまう。
 長らく主婦をしていると独身時代の友人とは疎遠になると言うが、由紀子に限ってはあり得ないだろうと思わせる。いつまでも変わらない、永遠の友だちだ。
「大丈夫よ。由紀子の声を聞いたら気が晴れたし。実は離婚の原因、思い当たらないわけでもないんだ。自惚れかもって、思うけど……でもそう考えたら納得できるし、純一らしいって、思えるし」
 美嘉は電話の最後をそう締めくくろうとした。由紀子は当然ながら原因を聞きたがったが、それを明かすのはもう少し後のこと。大切にされていたのだと、ただの惚気話になってしまいそうな話。
 美嘉は誰もいなくなった部屋を振り返りながら、笑って由紀子との電話を切った。

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