見えない心
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2.

 美嘉は届いた年賀状を見て笑みを洩らした。
 由紀子が満面の笑みを浮かべて映っている。その隣には彼女の夫、義之も一緒に映っている。そして二人の中央には明らかに嫌々付き合っているといった表情の娘がいた。この少女が若菜なのだろう。由紀子を若くしたらこんな子どもになりそうだ、という顔立ちをしていた。
「可愛い子」
 すっきりした輪郭のなかに大きな黒目が浮かび、印象的だった。ありがちな脱色や染色もしていない。眼鏡をかけていても強い眼差しは隠せずに美嘉の心を射抜いている。
 美嘉は若菜を指で弾いて首を傾げた。
 純一と離婚してから何年が経ったのだろうか。息子の厚志から便りは来るが、最近は忙しくてほとんど会えない。下手をすれば1年ほど会っていない気がする。
 郵便受けにまとめて入れられたと思われる年賀状を手にし、美嘉は一枚一枚を確かめていく。そのなかに厚志からの年賀状を見つけて泣き笑いのような表情を浮かべた。
 何も印刷されていない葉書に、ペン文字で走り書きしてある。謹賀新年も何もない。ただ一言、近いうちに会いに行く、という言葉だけが綴られている。
 美嘉はその文面を何度も繰り返し読んで腕を下ろした。会いたい、という気持ちが膨らむ。今すぐにでも走って行きたくなってしまう。けれどそうしたら純一の行為が無駄になり、彼は良く思わないだろう。厚志のためにも我慢しなければいけない。
 誰かにそう告げられたわけではないが、美嘉は頑なにそう信じていた。そうでもしなければ納得できない。自分が惨め過ぎる。
 美嘉は鼻を啜って視線を落とし、片眉を上げた。
 厚志からの年賀状にはもちろん、彼の現住所が記載されている。その住所が、最近見た誰かの住所の中にあった気がしたのだ。誰だっただろう、と首を傾げて思い出す。由紀子からの年賀状が確か、近い住所だった。
 テーブルの脇に寄せていた由紀子の年賀状を取り上げて見比べる。
 同じ県に同じ市。さすがに町村名は別々だが、同じ市内に住んでいることに変わりはない。どこかですれ違うことがあったかもしれない。
 ドキドキと心臓を躍らせた美嘉だが、その気持ちは直ぐに萎んだ。由紀子が厚志の近くに住んでいるからどうだと言うのだろう。まさか彼女に厚志をお願い、などと頼めるわけがない。それに、由紀子にそのようなことを頼もうものなら、どんな手段で厚志に危険が及ぶか分からない。その点に関してだけは、美嘉は由紀子を信用していない。
 美嘉はしばらく二つの住所を見比べた後、おもむろに電話機を手にした。子機を持ち上げて番号を押す。何回かコール音を鳴らせて床に座る。
『もしもし。阿部ですけど』
 予想していた声ではなかった。とても若い女の声だ。
 美嘉は瞬時に、年賀状で見た若菜を思い浮かべた。
「あ、もしもし。村上と申します。明けましておめでとう。もしかして、若菜ちゃん?」
『はい……明けましておめでとうございます。村上さん、ですか……?』
 突然の指名に若菜は戸惑ったようだ。恐らく彼女の脳裏ではクラスメイトの名簿がめくられていることだろう。自分のことを欠片も覚えていないのだと知り、美嘉は苦笑する。さすがに小学校で別れたっきりの幼馴染の親の声など覚えていないだろう。
 美嘉は小さな笑みを浮かべながら、お母さんと代わってくれるかな、と願い出た。若菜は丁寧な声ですぐに快諾し、由紀子を呼ぶ。由紀子は近くにいるのか、若菜は保留もせず呼びに行ったようだ。よそゆきの丁寧声とはずいぶんと違う、張りのある声が由紀子を呼んでいる。
 由紀子は直ぐに電話に出た。
『もしもし美嘉? 今度はどうしたの?』
 ずいぶんと慌てたような声だ。美嘉は疑問に思ったが、直ぐに笑い出した。
「ごめんごめん。何か問題が起こったわけじゃないのよ。年賀状が届いたから、久しぶりに声を聞きたくなっただけ。ごめんね。なにか作業中だった?」
『なんだ。また何かあったのかと思って焦ったわ』
「ごめんて」
『まぁいいけど。あ、若菜。いま手が空いてるでしょう? 裏でお父さん手伝ってきて』
『は? お父さん何してんのよ』
『若菜の自転車直して』
『ちょっと冗談やめてよ。この前、私、死にかけたんだからね! もう忘れたっていうのっ?』
『だからお父さんが帰ってきた今――』
『あれは専門店に行って、とっくに直してきた! 余計な手出しして壊さないでよね!』
『あら、そうなの?』
 若菜の憤然とした足音が遠ざかった。由紀子がキョトンとする様が目に見えるようだ。美嘉は苦笑しながらその会話を聞き、誰もいない我が家を振り返った。
 仕事に使う製図版がテーブルを大きく占めている。毎年恒例だった年越し料理は、もう何年も用意していない。
「そういえばね、由紀子。厚志からも年賀状が届いたんだけど、あの子の引越し先がね、由紀子の近くらしくて。ビックリしたのよ」
『え、本当? どこどこ? 私、厚志君の様子を見てきてあげるよ!』
「ううん。いいの」
 嬉々とした由紀子の口調に美嘉は淡々と返す。先ほど若菜が口にした『死にかけた』発言が脳裏で巡っていた。由紀子の残念そうな声が上がったが、譲るわけにはいかない。美嘉はあえてはぐらかした。雑煮でも煮込んでいるのか、受話器の向こうからはコトコトと温かな音が聞こえて羨ましくなる。
『あ、そうだ、美嘉』
 このまま電話をしていても迷惑になるだけだと分かっているが、切り難くていると、由紀子が何かを思い出したように声を上げた。美嘉も遠慮なくその話に乗る。
『結婚推進案が出ているの、美嘉も知ってるでしょう?』
「ああ。二十歳以上には必ず縁談が来るっていう話でしょう? 知ってるわよ。離婚者にも縁談が来るっていうんだもの。今から憂鬱だわ。前の夫に当たったらどうしよう――なーんて」
 美嘉はわざと笑ってみたが、あまり笑えなかった。
『それがね、そうならないように、恋人課でちゃんと調べるんですって。障害者手帳を持ってる人は相手の意向を聞いてから数に入れられたり。職業柄、時間に縛りがある人も特別な意向調査をしてから組まれたり。年齢も大事よね。50歳の独身者と20歳の独身者を縁談組むわけにはさすがにいかないもの』
「ああ……確かに。まぁ、そうならないように意識調査は必須ねぇ……」
 超年下趣味と超年上趣味が一緒になればいいが、そんな上手い組み合わせはそうそうない。膨大な国民の中から条件を一致させるのは重労働だ。しかも縁談は毎月組まれるというので、組み合わせを考える人は嫌になりそうだ。
『でね。そういう人たちの組み合わせに時間を割けるように、縁談する人たちから推薦も出来るようになるのよ。本人や親から、この人と縁談させて下さいって申請すれば、手間が省けるもの。最終的に縁談をまとめるかまとめないか決めるのは本人たちだし。推薦するだけなら直ぐに審査が通るらしいわ』
「へーえ……」
 美嘉は感心したように納得した。確かに、本人たちが望まないのなら、その組み合わせの縁談はその場で破談にすればいいだけの話だ。推薦した者たちも、それなら納得するだろう。
 美嘉は声を潜めた。
「それで? 声がワクワクしてるんだけど、何を思いついたの、由紀子」
『ふふふ。厚志君と若菜よ。同じ市にいるなら推薦は思うままっていう話だから、一回縁談させてみるのもいいんじゃないかと思って』
 由紀子もまた、辺りをはばかるように声を潜めた。
 美嘉はその提案に瞳を瞬かせる。
「厚志を……?」
 正直、その話には心が傾いた。昔は厚志と一緒に他の男友だちと駆け回っていた若菜がどんな風に育ったのか、直に見てみたい気持ちがある。また、純一との繋がりを少しでも多く持っていたかった。我ながら女々しいなと思ったが、心は揺れる。
『どう? 楽しそうでしょう』
「うん……」
 けれど美嘉は、由紀子ほど気安く頷けない。
 厚志から届けられる数枚の手紙には彼の近況が偽りなく記してあった。そこから読み取れる情報はけっこう多い。純一と不仲になっていることは離婚当初から予想済みだったから問題はないが、現在厚志が置かれている位置が非常に微妙なところにあるようなのだ。色々と警察沙汰になるような揉めごとを起こしたりもしたらしい。美嘉が知っている厚志と、性格が大きく違ってしまったかもしれない。そんな厚志を、大切な親友の一人娘と縁談させることには抵抗があった。そして一番の原因は、厚志には他に、好きな人がいるようだ、ということだ。
 美嘉は言葉を濁らせながら曖昧に頷き、厚志からの手紙を思い出す。
 ひとまず、考えておいてという由紀子の言葉だけに頷いて、電話を切った。

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