見えない心
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3.

 久しぶりに玄関から出た美嘉は風の流れに頬を緩めた。
 ここ最近、原稿の締め切りが近くてほとんど外へ出ていない。食事も手間のかからないものばかりを選び、果てはカップ麺で済ませることが多くなっていた。ゴミ出しも疎かにしていたため、玄関から外に出るのすら久しぶりだ。
 けれど引き篭もりも今日まで。睡眠不足も手伝って頭の痛い日々を過ごしていたが、原稿を仕上げた今は晴れて自由の身。次の原稿にかかるまでしばしの休息だ。
 美嘉はマンションの階段を下り、共同フロアにあるポストを覗いて瞳を瞬かせた。
「あら……」
 中には一枚の葉書が入っていた。何かの勧誘だろうかと取り出して顔をしかめる。それは政府から発行される『縁談』の案内状だった。
 脳裏に由紀子とのやり取りが甦る。
 原稿に集中していたためテレビも新聞も見ていない。その間にとうとう決まっていたらしい。美嘉にも早速お誘いが来たわけだ。
 美嘉は葉書を裏返した。そこに記載されたホームページのアドレスに苦笑を零す。
 さすがにペーパーレス化は譲れないらしい。全国民に毎月葉書を出していたら、確かにそれだけで財政は圧迫されてしまいそうだ。今やどの家庭にもインターネットサービスが普及しているため自然な成り行きともいえる。紙媒体をやめ、メールでのやり取りに切替えると、縁談で使える特別券が発行される、と赤文字で記載されており、笑えた。いったい何の特別券なのやら。
 由紀子は厚志と若菜の縁談を申請するだろうかと思い、複雑な心境になった。迷惑をかけたくない気持ちと、自分の息子を他人の手で操られるのが嫌だという気持ちと、自分もそれに加わりたいという気持ちが混ざり合っている。遠い地にいる自分にはどれも解決できない気持ちだ。
 美嘉はひとまず葉書を鞄にしまいこんだ。今日は久しぶりの外出で気分が舞い上がっている。ここでつまずくわけにはいかない。後でゆっくり考えることにしよう。
 外へ出て、青空を見上げて瞳を細める。
 今日はマネージャーの小田島から食事に誘われていた。
 原稿明けのお誘いは素直に嬉しい。ストレス解消だ。だが脳裏には純一の顔が浮かぶ。離婚した今では彼のことなど関係ないはずなのに、妙な後ろめたさが浮かんでしまう。
 美嘉は唇を引き結んで視線を落とした。
 今でも感傷に囚われている。純一はどうだろうか。自分ひとりが感傷に囚われ続けているのは酷く悔しい。彼も少しは思い出していてくれるだろうか。
 美嘉は引き結んだ唇の端に力を込める。そして振り切るようにかぶりを振った。
 ちょうどそのとき携帯が鳴った。取り出してみれば案の定、小田島からの着信だ。もしかして何かあっただろうかと瞳を瞬かせる。
「もしもし、小田島さん?」
『村上さん?』
 優しい声が受話口から聞こえてきた。人当たりの良い穏やかな笑顔が想像できて、美嘉も頬を緩める。仕事で苛々しているとき、この声を聞くと荒波が静まるように落ち着く。マネージャーとしては最適の人物だ。
「ごめんなさい。いま家を出たところなの。早く着いてますか?」
「なら丁度良かった。車を借りたんです。そろそろそちらに着きますので、待機してて下さいね」
「え?」
 美嘉は瞳を瞬かせた。東京都内を駆け回る小田島は、車よりも電車やバスの方が動きやすいとして車を嫌がっていたはずなのだが。
 すでに切れてしまった携帯を見つめて困惑した。
 今日のために――?
 そう思うと奇妙な感覚が湧き上がる。まさか、と一蹴してかぶりを振る。
 もう一度空を見上げた。
 離婚してから数年。環境は変わり、人々も変わっていく。そろそろ自分も変わらなければいけないのかもしれない。結婚推進案などという法律が可決されたのがいい例だ。
 由紀子のことを思い出し、厚志たちの縁談を思い描く。恐らく彼女なら強引にまとめてしまうだろうという期待もある。由紀子が悪巧みする笑みが目に浮かぶ。その企みは楽しそうで、できれば是非にも参加したかったのだが。
 美嘉は来たばかりの葉書を鞄から取り出して見つめた。
 純一からは何の連絡もない。
 葉書を見つめ、不思議な寂しさに瞳を細めた。


END
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