5周年記念企画小説
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1.

 訪問客を迎えた若菜は瞳を瞬かせた。
 見も知らぬ女性がそこにいる。
「こんにちは」
 訪問販売――という言葉が脳裏を過ぎったが、彼女の雰囲気は、それとは全く異なるものだと勘が告げていた。女である若菜が見惚れるほど綺麗な笑顔を向けられ、若菜は外向けの愛想笑いを返す。母の知り合いだろうかと密かに観察する。
「若菜ちゃん?」
 若菜は瞳を瞠らせた。
 無言のまま頷いて眉を寄せる。もしかして親戚だろうかと、記憶を洗うが心当たりはない。第一、親戚がこの家を訪ねてきたことなどほとんどない。親戚付き合いはないに等しい。
 若菜の戸惑いを察したのか、女性は少し苦笑して玄関の中を窺った。
「お母さんはいますか?」
「あ……いえ。今は出かけてまして……」
 なんだ、やはり母の知り合いか。
 若菜はそう思って肩の力を抜いた。チャイムを鳴らされたとき、業者だったら追い返さないと、と憂鬱な気分で思ったのだ。居留守を使おうかと思ったのだが、居間のテレビをガンガンにつけていれば、在宅中であると知らせているようなものだ。居留守は諦めざるを得なかった。
 若菜は答えながらふと首を傾げた。女性の姿が、誰かを彷彿とさせたような気がした。
「そっか。由紀子、いないのか」
 もっと良く観察しようとした若菜の意識を中断させたのは、そんな言葉だ。
 女性は肩を竦めてため息をついた。改めて若菜に向き直る。
「連絡してから来ればよかったわ。でも、若菜ちゃんに会えてよかった。私は村上美嘉。由紀子――貴方のお母さんとは古くからの友人です」
 美嘉はそう告げながら、鞄から名刺を取り出した。小さな名刺にはワープロ文字で名前と職業が印字されている。どうやら美嘉はイラストレーターのようだ。名刺には可愛らしいミニキャラが描かれている。
 若菜は頭を下げながら名刺を受け取った。
「はぁ。母は多分、夕方にならないと戻らないと思いますが……」
「そうね。でも、私は貴方にも会いたかったの」
「私……ですか?」
 美嘉は頷いた。
「貴方と厚志が、婚約したって聞いたときから」
 若菜はもう一度瞳を瞬かせた。突拍子もない名前が出てきた。なぜここで奴の名前が出てくるのだと困惑し、訝るように美嘉を見て口をあけた。
「あ……村上さんって、厚志の……?」
「ええ。思い出してくれた? 厚志の母よ。小さい頃は若菜ちゃんも、よくうちに遊びに来てくれてたわよね」
「思い出しました」
 若菜の脳裏に在りし日が蘇る。まだ東京にいた頃、厚志の家に何度も遊びに行った。そのたびに優しい笑顔で美嘉が出迎えてくれ、甘いお菓子を出してくれた。由紀子とは異なる母親像に憧れ、厚志に何度、母親を交換してくれと持ちかけたことか。厚志がそのたびに嫌そうな顔をして断っていたことまで脳裏に蘇った。
 若菜は記憶の片鱗を思い出しながら改めて美嘉を眺めた。由紀子と同じ年代のはずだが、彼女には所帯じみた雰囲気が全くない。無地のチュニックやレギンスを重ね合わせた着こなしは若々しさを感じさせ、美嘉を年齢不詳に思わせていた。笑顔は昔と変わらない、優しいものだ。若菜を見つめる瞳には温かみがある。
「お久しぶりです――厚志も来てるんですか?」
 思わず美嘉の背後を覗き込んでしまう若菜だが、あの長身が側にいないことなど初めから分かっていた。案の定、美嘉は苦笑しながらかぶりを振る。
「いいえ。ここに来ることは、厚志にも言ってなかったから。それに、厚志にはもうほとんど会ってないのよ。お互い忙しくて手紙のやり取りだけ。厚志の顔すら分からないかもしれないわね」
 笑いながら肩を竦める美嘉の表情は少し寂しげだ。
 厚志の両親が離婚した、という話を思い出した若菜は唇を引き結んだ。何も言えない。
 美嘉は雰囲気を察したのか直ぐに笑顔を向けてきた。
「私がここに来たのは、若菜ちゃんにもお願いがあったからなの」
 若菜は顔を上げる。
 目の前に、美嘉の笑顔がある。
「私に……?」
「少し、協力して欲しいの」
「なん、でしょうか……?」
 戸惑いながら首を傾げると美嘉はまるで、秘め事を囁くように顔を近づけてきた。

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 美嘉の相談ごとは若菜にとって、非常に心躍るような内容だった。
 最初は眉を寄せていた若菜だが、話をするにつれて自然と笑みが浮かんでくる。成功したときの楽しさを想像してしまう。
 ひとまず内容を詳しく煮詰めようと美嘉を外に誘い、ほとんど心ここにあらずで近くの飲食店に歩き出す。昼に近いため空腹だ。由紀子がいなければカップラーメンで済ませる若菜だが、さすがに美嘉にカップラーメンを差し出すわけにはいかず、外へ誘った。
 そして、二人で空想を繰り広げていたとき。
 先に道路を渡っていた美嘉の瞳が驚いたように瞠られた。
 どうしたんだろうと思ったのも束の間、ほぼ同時に周囲から悲鳴が上がる。
 何が起こったのか確認しようとした若菜は、視界に信じられないものを見た。
 一台の車が目の前に迫っていたのだ。それも、本当に、目と鼻の先に。
 息を呑む暇もないほど直ぐに衝撃は来た。
 若菜は車にはねられた。
 無我夢中で左手を伸ばすと熱く痺れる。目を開けてなどいられない。なにがなんだか分からないうちに痛みが響き、急速に目の前が暗くなる。それに伴って意識もフェードアウト。
 ――ああ、これでお終いか。
 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「若菜ちゃん!」
 まるで、諦めようとする意識を吹き飛ばすように強い、訴えかける響きを含んだ叫びだ。その声が若菜の意識を繋ぎ止め、微かに胸の底に残った。しかし押し寄せた衝撃はすべてを飲み込んで、闇の中へ埋めてしまった。
「若菜ちゃん……!」
 彼女が事故に巻き込まれなくて良かったと思う。
 だって彼女は、私にとっても大切な人になるはずの女性だから。
 そして若菜は同時に、またあいつには怒られるんだろうなと思った。
 ――斎藤厚志。
 ただの恋人契約から本当の恋人になり、現在は結婚までを考えるようになった、婚約者。
 若菜は消えゆく意識の中で一言だけ吐き出した。
 ――だいきらい。

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