5周年記念企画小説
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2.

 不快な大音響が頭の中で打ち鳴らされていた。
 激しく耐えがたい音に、若菜は顔をしかめて唸り声を上げる。逃げるように寝返りを打とうとした。けれど、どういう訳か体が思うように動かない。金縛りのように、意識だけが先に目覚めたのかもしれない。若菜は意識しながら呼吸した。
「いつっ……」
 気が抜けたような声が洩れた。
 指を動かそうとした瞬間、脳天まで痛みが走って気持ち悪くなる。体が熱くてたまらない。窓を開けっぱなしにして寝たから風邪を引いたのだろうか。仕事を休むわけにはいかないのに、どうしよう。
 若菜はぐるぐると取り留めなく渦巻き始めた不安に翻弄されながら気付いた。
 先ほどから鳴り響いているのは、単なる頭痛だ。耳鳴りが酷いのはそのせいだ。
 若菜はそっと瞼をあけてみた。
 瞳を刺すような光が若菜を包んでいる。その眩しさに耐え切れず、思わず閉じる。
 ――夕方?
 若菜はそう思った。
 一瞬だけ見えた光景は、確かに夕焼けに沈んでいた。そして同時に、違和感に気付く。どうやら自宅で眠っているわけではないようだということ。頭痛に悲鳴を上げながら、必死で状況を把握しようとする。けれど耳鳴りに苛まれて、推測すらままならない。
「あ……つっ」
 ひとまず起き上がってみようかと腹部に力を入れた途端、言葉は痛みに変わった。顔を歪めて衝撃に耐える。そっと体の力を抜く。脂汗が滲んでくるのが分かる。
 眩しさに瞳を細めながら瞼をあける。眼鏡がないため詳細は分からない。けれど自分が、自宅とは全く別の場所にいることだけは理解できる。若菜の脳裏は新たな疑問符マークで埋め尽くされる。
 軽い音を立てて何かが開く音がした。
 若菜はそちらを振り返ろうとしたが、生憎と体が動かないため叶わなかった。
 誰かが扉を開けて入ってきたようだ。視界に人物が映るのを待つ――その願いが叶った途端、若菜は奇妙な違和感に眉を寄せた。
 見たことのない女性。しかし確実に知っている。どこで知ったのかは、分からない。本当に見たことがなかったのか。新たな女性の登場に、若菜の思考が乱された。
 悄然とした様子で歩いてきた彼女は、若菜が起きていることに気付くと足を止めた。瞳が大きく見開かれる。息を呑むように唇が開かれ、細く白い手が口を覆う。
 ――美人。
 若菜はただそれだけを思って彼女を見つめた――途端に若菜も目を瞠った。
 なんと、彼女は瞳を潤ませたのだ。あっと言う間に盛り上がり、頬を伝ってパタパタと零れる。言葉もないまま彼女は顔を俯けた。若菜は声を出すこともできずに彼女を見つめる。何が起きたのかさっぱり分からなかった。
 やがて彼女は顔を上げると気丈な笑みを見せた。
「先生を呼んでくるわね。由紀子にはまだ連絡が取れなかったけど……もうそろそろ家に戻ってる頃だと思うから。今回のことは、本当に、私がついていながら、ごめんなさい」
 彼女は最後の少しだけ真顔に戻って瞳を潤ませ、部屋を出て行った。
 若菜はもどかしい思いのまま彼女の背中を見送る。確かに知っていると思うのに、どうしても思い出せない。喉まで出かかっているのに吐き出せない小骨のようだ。酷くもどかしい。
 女性が遠ざかる音を聞きながら、若菜は天井に視線を向けた。再び頭痛が思考を圧迫していくのを感じていた。意識が遠ざかる。
 部屋は斜陽で満たされており、日没が迫っていることを知らせていた。
 窓から見える眩いばかりの太陽を振り返って、若菜は顔をしかめた。
 絶え間ない痛みが若菜の記憶を刺激する。
 車の急ブレーキ、人々の悲鳴、体を襲った衝撃。
 後頭部が激しい痛みを訴え、若菜は息を詰める。痛みで腕を持ち上げることもできない。体にはじっとりと汗が滲んでいるようで気持ち悪い。
 ――交通事故、かな。
 若菜は詳細には思い出せないまま、そう思い至った。まさか自分が事故に遭うなど信じられないが、現状が物語っている。頭痛に紛れてしまいそうになるが、扉の向こう側からはときおり、看護婦らしき声も聞こえてくる。鼻を刺す独特の消毒液臭さも、ここが病室である証拠だった。
「……保険に入ってたっけ」
 若菜がようやく絞り出したのはそんな言葉だった。
 気付いた若菜は苦笑する。
「あいたたたたたた」
 動こうとして再び鈍痛が響き、素直に体から力を抜いてため息をついた。事故に遭ってからどれほどの時間が経ったのだろうか。まるで今しがた怪我をしたかのように、後頭部は熱を生み出す。
「……困ったな」
 若菜は顔をしかめながら呟いた。
 問題は、事故に遭ったことではない。
 それはそれで大問題なのだが、若菜がこのとき呟いたことは、それとは大きくかけはなれたものだった。日常を生きていくために、重要な問題が一つ、生まれている。
「……なんにも思い出せない」
 若菜は天井を見ながら吐き出した。
 例えば自分が何者なのか、とか。友達の顔はどんなだったか、とか。両親の名前はなんだったか、とか。
 人はそれを記憶喪失と呼ぶ。
「いたたたたたた」
 まるで透明な記憶の小箱に、薄いヴェールがかけられているようだ。もしくは冬の曇った窓ガラスを見ているような感覚。直ぐに取り戻せそうな気はしたが、ヴェールを取り外すために手を伸ばすことも、窓ガラスを拭くために手を持ち上げることもできない。痛みが全てを邪魔していた。どうやら怪我を治してからではないと記憶を取り戻すことはできないらしいと思い知る。
「さっきの女の人に聞いとけば良かったかも。でもいきなり『貴方は誰ですか』なんて聞いたら驚くよなー」
 若菜は小さく笑いながら瞼を閉ざす。そうした瞬間、すっと暗闇に包まれて全身から力が抜けた。精神的にも体力的にも大分参っていたらしく、若菜は知らぬ間に眠りへ落ちていた。

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 周囲を憚るような小さな話し声で目が覚めた。
 瞼を開けると、弱々しい蛍光灯に照らされていた。太陽はとうに沈んでいるらしい。少し気温が下がったようだ。
 若菜は視線を動かした。
 いつの間にか寝台を囲むようにカーテンが閉められている。まるで保健室で眠っているようだ。
 ――私、何歳になったんだ。
 それすら思い出せずに若菜は口許を緩めた。
 頭痛はいくらか弱まっていて、静かに寝返りを打つことができた。腕を動かすこともできる。若菜はカーテンをそっと開いた。
 部屋の扉前で話し合っているのは、一人の女性と、白衣を着た男性だった。女性の方は、前に見た女性とは違っている。男性の方は医師だろう。二人はどうやら若菜の怪我について話し合っているようだ。耳鳴りが邪魔をして上手く聞き取れない。
 そのうち女性が微かに顔を動かし、若菜の視界に入った。その顔に若菜は瞳を大きく瞠らせる。
 ――お母さん。
 医師と話している女性の顔を見た途端、記憶は阻まれることなく素直に戻ってきた。“お母さん”と脳裏に浮かんだ言葉がストンと腑に落ちる。もどかしい思いが一つ消える。
「お母さん」
 若菜は呼びかけてみた。
  すると直ぐに彼女は反応して振り返る。隣に立つ医師も会話を中断して視線を向ける。
 二つの視線に注目されて、若菜は微かに笑った。
「若菜。気付いたのね。美嘉から聞かされたときは驚いたけど、無事でよかったわ」
「……美嘉?」
「仕事があるそうだから先に帰らせたのよ。そうしないといつまでも若菜に付き添って、離れないんだもの。美嘉の仕事を邪魔するわけにはいかないからね。あとでまた来てくれるそうよ」
 若菜は問いかけようとしたがやめた。先ほど泣きながら医師を呼びに行ってくれた女性の姿が蘇る。付き添ってくれていたのは彼女だ。それならば彼女が美嘉なのだろうと納得することにした。
 医師が動き、若菜の前に立った。
「事故に遭ったことを覚えている? 阿部さんは、向かってきた車のフロントガラスに叩き付けられたんだ。でも、交通事故に遭ったとは思えないほど軽傷で済んだんだよ」
「覚えてるの、若菜?」
「えーと……なんとなく、だけど……」
「美嘉が言うには、若菜はボンネットに飛び乗って直撃を避けたらしいけど、そのままボンネットを転がってフロントガラスに頭を打ち付けたそうよ。それ聞いた瞬間、なんて器用なことするのかしらと呆れたわ」
 若菜は頬を引き攣らせた。記憶を失っていようとも、さすがにその行動が人間業を逸脱していることは分かった。ため息をつく由紀子の隣では医師が苦笑している。
「あんまり心配させるんじゃないの。厚志君に連絡入れたら、直ぐに来るって言ってたわよ。お父さんは――仕事投げ出して帰って来ても困るから、まだ連絡入れてないけど。ほとぼりが冷めた頃でいいわよね」
 ――哀れ、父。
 若菜は乾いた笑いを零しながら頷いた。父の姿を思い出そうとしたが、それはなかなか叶わなかった。
「厚志って、誰?」
 自分には兄か弟もいたのだろうかと思い、何気なく問いかけたのだが、若菜は直ぐに後悔した。若菜の異変に、二人とも気付いたのだ。瞳を大きく見開かせて若菜を見つめる。記憶喪失を自分だけの事実として留めておきたかった若菜としては命取りの発言だった。
 由紀子が唇を震わせて何かを言おうとしたが、医師が制して先に声をかけた。
「失礼、阿部さん。自分の名前は思い出せるかな?」
 若菜は背の高い彼を見上げながら慎重に口を開く。
「阿部、若菜」
 これが自分の名前だと、はっきり思い出したわけではない。先ほどから彼らが発する会話の中に含まれていた名前から推測しただけだ。けれど口にするとその名前はみるみる自分に馴染み、これが自分の名前だと、訳もなく納得した。
 医師は頷いた。
「じゃあ、阿部さんのお母さんの名前は?」
 体を少しずらし、医師は由紀子の姿が見えるようにする。由紀子の顔色は少し悪かった。先ほどまで元気に、心配の欠片も含まれない発言をしていた人物と同じとは思えないほどだ。
 若菜はその姿に動揺しながら視線を泳がせた。
「阿部――」
 思い出せ、思い出せ、と念じるほど頭の中は白くなる。彼女が自分の母親である、ということは分かるが、名前が出てこない。認知症とはこんな感じなのだろうかと別方向に意識が飛び、慌てて現実に戻る。恐らく名前を取り戻すにはきっかけが必要なのだろう。冷や汗が流れて口の中が干からびていくような錯覚に陥る。
 若菜は唇を引き結んで黙り込んだ。由紀子が視界の端でよろめいた。
「あの若菜が記憶喪失だなんて……初めから教育し直せば素直な子に育つかしら」
「おい」
 視界の端で不穏な企みが育ち始めようとする。記憶喪失の後ろめたさで大人しくうな垂れていた若菜は黙って見逃すわけにもいかず、ひとまず低い声で止めた。その瞬間、そのやり取りが妙に懐かしく思えた。ふと閃いた名前を急いでつかむ。
「勝手なこと言うな。忘れようったって忘れるもんか。阿部由紀子。思い出した。意地でも忘れねぇ」
 若菜は睨みつけながら告げた。由紀子は苦笑し、次いで「ちっ」と舌打ちして指まで鳴らした。本当にこれが母親なのかと自分の記憶を疑いたくなった若菜だが、間違いないと確信していた。要注意人物、という重要な項目も付随させて、記憶は戻っている。
 やり取りを窺っていた医師が笑った。
「一時的な記憶障害だね。時間が経てば思い出すだろう。きっと、事故に遭ったことで混乱してるんだ」
「はぁ」
 若菜は曖昧に頷いた。けれど、時間が経てば思い出せる、という言葉には納得する。若菜自身、そんな気がした。
「他になにか気付いたことはある?」
「いえ。別にこれといって……」
 若菜は首を傾げようとして痛みに顔をしかめた。自分の体を心配するよりも、思考を邪魔されることに腹が立つ。しかし二人は若菜の心情など知るはずもなく、これ以上の無理はさせられないと思ったのか、早々に部屋から出て行こうとした。
 扉の前で由紀子が曖昧な笑みを作る。
「今日はここに泊まりよ。着替えは後で持ってくるからね」
「無理に思い出そうとしないで、今はただ眠ってしまえばいいよ。それが一番の早道だ」
 若菜は頷くことはせずに二人を見送った。二人が出て行って扉が閉められ、部屋には静寂が満ちる。大きく息を吐き出して天井を見る。
 目の奥で微かなノイズが広がったような気がした。
 眼鏡をしたままのことに今更ながら気付き、若菜は外す。そうすると目の奥にジワリと痛みが広がった。片手で両目を覆う。暗闇が気持ちいい。
「……疲れた」
 あえて言葉にして呟いて、その状態を続ける。体から力を抜いて時を過ごす。秒針の音まで聞こえてきた。窓が閉められているので外の音は全く聞こえない。ただ無為に時を過ごしている気にすらなってくる。
 若菜は再び頭痛を覚えて眉を寄せた。体のどこにも響かないように息を吐き出す。そうして幾分が過ぎただろうか。たった数秒にも、何時間にも思える。話し声がするまで眠っていたので、いまさら眠気は覚えない。ただこうして黙っていても眠りは訪れない。
 若菜はカーテンを大きく開いて外を見た。
 斜陽はとうに消えている。蛍光灯の明かりを照り返し、窓には自分の姿が映っている。腕に力を入れて起き上がった。眼鏡をかけないまま窓に近づいて開ける。
「暑い……」
 残暑が抜けない生温かい風が頬を撫でた。じわりと汗を滲ませる。
 気付かなかったが、部屋にはエアコンが入っていたらしい。
 眼鏡をかけていないため滲んだままの視界で外の世界を堪能し、窓を閉めた。痛んだ腰に手を当てる。ババくさいと思いながら寝台に戻る。
 寝台に腰掛けたところで部屋に変化が訪れた。
 扉が開かれたのだ。
 静寂に慣れた若菜にとって、それは予想外に大きな音に聞こえた。
 硬直して顔を上げると、入ろうとしていた人物も驚いたように硬直するのが分かった。
「阿部さん。起き上がっても大丈夫なの?」
 どうやら看護士らしい。白衣と帽子で見当をつける。
「ええ、はい」
 若菜はぎこちなく頷いた。その途端、首筋から背筋にかけて鋭い痛みが走って顔をしかめる。看護士は険しい顔をする。
「貴方のお母さんから、寝台にくくりつけておいて下さいって言われてたけど――そうするべきかしらね」
 若菜は小さく「あの野郎」と呟いた。看護士には聞こえない。看護士は苦笑混じりにため息をついた。
「部屋を移動しましょう。大部屋になるけど、構わないわよね」
 若菜は改めて瞳を瞠り、一人部屋だったことに気付いて頷いた。
「人手を集めてくるから。横になって待っててね」
 他の人たちは長引いてるのかしら、というような呟きを残して看護士は部屋を出て行った。その背中を見送って、若菜はため息を吐き出す。言われた通りに横になる。筋肉が引き攣るような痛みを覚える。
「大部屋の方が入院費は安くなるって聞いた覚えがある――なんでそんなことばっかり覚えてるんだ。よっぽど生活に苦しかったのか?」
 若菜は自分の思考回路に呆れるばかりだ。
 改めて窓を見ると、やはりそこには自分の姿が映り込むだけだった。見慣れない姿だ、とは思わない。記憶はなくても違和感はないらしい。
 若菜は手探りで眼鏡を探してかける。壁時計を見ると8時を回っていた。それを確認してから眼鏡を外す。空腹を覚えていた。
 外来患者の扉を開けておくのはせいぜい6時までだろう。入院患者への面会時間も、8時以降が許されているとは思えない。恐らく由紀子が着替えを持ってやってくるのは明日になるだろう。
「お母さんだったら常識考えずに裏口から忍び込みそうだけどな」
 そう思うとため息が零れる。少しばかり、あの母親が自分の記憶違いだったらいいな、と思った。

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