5周年記念企画小説
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3.

 ただ横になっているのも辛いものがある。
 先ほどの看護士が消えてから5分も経っていないが、若菜は既に飽きていた。寝返りを打ってうなり声を上げる。自由を制限する痛みなど無視をする。
 そんなときに扉の開く音がし、若菜は表情を輝かせて振り返った。
 だが、そこにいたのは看護士ではなく、男だった。
 予想に反した姿に若菜は瞳を瞬かせる。記憶のほとんどを失っているのだから、その反応は当然と言えた。
 男はスーツを着込み、病院関係者とは明らかに雰囲気を異にしていた。
 若菜は妙な動悸を覚えながら枕元の眼鏡を探す。視界がクリアになり、改めて男を眺めるが、記憶にはない男だった。けれどどこか、知り合いだ、という直感が働く。若菜は必死に思い出そうとした。彼は手に紙袋を持ったまま若菜に近づく。何の言葉もない。そのまま紙袋を若菜に突き出した。
「えっと……」
 困惑しながら紙袋を覗き込む。衣類が詰め込まれている。どうやら自分の着替えらしいと悟るが、なぜこの男が持ってくるのだろうかと疑問が生まれる。由紀子が持ってくるはずではなかったのか。
 混乱する若菜は、もしかしてこの男は自分の父なのだろうか、と考えたが、考えた端から否定した。父親にしては年齢が若すぎる。
 ひとまず紙袋を受け取る。
「あー……お母さん、に、頼まれた……ん……ですよね?」
 どんな言葉をかけていいのか悩みながら問いかけた。恐る恐る視線を上げると、男は奇妙な顔をしている。その反応の意味が分からず、若菜は誰かに助けを求めたくなった。誰もいない。いっそのことナースコールを押してみようかと馬鹿な考えが浮かんだ。
 男は部屋に入ってきてから不機嫌そうな雰囲気を一貫している。若菜はますます困惑するばかりだ。
 ――いったい貴方は誰ですか。
 非常に問いかけたいが、ためらわれる。
 若菜は紙袋を凝視していると、視界の端で男が動いた。怯えるように体を震わせてしまうのは失礼な気もしたが、仕方がない。そんな若菜の心情を察したのか、元から怯えさせるつもりはなかったのか、男はただ寝台に腰掛けた。
「信じらんねぇ」
「はい?」
 若菜はくるりと瞳を丸くして男を見た。彼の第一声は、非常に強い呆れを含んでいた。
「俺の焦りを返せ」
「……は?」
 男は寝台に腰掛けて片足を組み、その足に肘を乗せ、頬杖をついて遠くを見ている。なんとも偉そうな態度だ。第一印象は決定された。
「由紀子さんからお前が事故に遭ったって聞いて――しかも安否は不明だって聞いて。仕事投げ出して来たっていうのに」
 男は何かを堪えるように両目を閉じていた。不意に、その頭をガクリと落とす。
「冗談じゃねぇ。俺にかける第一声はそれかよっ?」
 向けられた顔の近さに思わず引いた若菜は、「いやぁ」と曖昧な笑みを浮かべて誤魔化そうとした。記憶がない、などと言ったら更に怒られるかもしれない、と冷や汗を滲ませた。いや、この場合、記憶があってもなくても同じかもしれない。
「なにが意識不明の重体だ、親父の野郎! あっちはガセかよ!」
 ひとまず自分に対しての怒りではないようだと安堵しかけた若菜は、怒りの眼が自分に向けられて怯んだ。紙袋をギュッと抱き締める。
「若菜も若菜だ! 気付いたんなら俺に一報くらい入れろよ! ここに来るまで俺は気が気じゃなかったんだぞ! それなのに――」
 男はここが病室だということにようやく気付いたのか声を抑えた。
 気まずそうに周囲を窺うが、誰からも苦情はない。若菜はこの男から逃れられるかと期待したが、彼の怒りはまだ続くようだった。周囲に向けられていた視線が若菜に向け直される。
「お前の家に行ったら、容態聞かされないまま着替えを押し付けられて、早く病院に行けと言われた。俺は、一刻を争う事態なのかと思って……!」
 がしりと両腕をつかまれたと思ったのも束の間、引き寄せられた若菜は双眸を瞠らせた。
「毎回毎回、俺ばっかり馬鹿見てんじゃねぇか。ムカつく……!」
 耳元で洩らされる怒りの声。
 若菜は恐る恐る瞼を開け、強張ったまま、何が起きているのか確認しようとした。
 ――これって、抱き締められてる……?
 男の腕がすっぽりと若菜を包んでいる。心臓が激しく音を立てているのと同じく、耳をつけた男の胸からも同じ鼓動が聞こえてくる。それに気付いた瞬間、体が熱を帯びて落ち着かなくなった。逃れたくて焦るが、後遺症として残る首の痛みが力を揮わせない。男の言葉などどうでも良く、早く逃れてしまいたいと、そればかりが脳裏を占める。
「なんともないんだよな……?」
 男は少しだけ体を離して若菜を覗き込んだ。
 若菜が真っ赤な顔で硬直していると奇妙な顔をする。数秒、別の場所に視線を逸らせたあと再び若菜を見つめ、眼鏡を取り上げた。何をするのと若菜が声を上げる余裕もない。男は若菜の背中に腕を回し、そのまま顔を近づけてきた。
 ――ちょ、ちょっと、これって、キスの距離……!
 若菜は首の痛みと鼓動を必死で無視しようとしたが、逃れられない。
「――――っ!」
 グシャリ、と音がする。
 胸にきつく抱き締めていた紙袋を、とっさに顔の前に掲げていた。
 男の顔が紙袋にめりこんだ。
 解放された若菜は息をする間もなく寝台の端に逃げた。男は無言で紙袋を捨て、首を振った後に若菜を見つめる――というより睨む。
「おい?」
 最高潮に不機嫌そうだった。
 若菜はできるかぎり距離を取ろうとする。真っ赤な顔で息を止めている。呼吸が苦しくなり、自分が息を止めていることに気付いてからようやく呼吸する。
「何やってんだよ?」
「な、あ、何するのはこっちの台詞だ!」
「はぁ?」
 男は呆れた声を上げた。
「わ、私はこれでも怪我人なんですよ! 抵抗できない人を襲うのはどうかと思うんですけど!」
 男は少し黙り込んだあと、眉を寄せたまま若菜に腕を伸ばしてきた。
「言ってる意味が分からん。だいたい、お前のどこが怪我人だ」
「痛たたたたたたた……首! 腕も痛い!」
 若菜は男に腕を掴まれ、そのまま引き寄せられようとして、叫んだ。引かれた腕から首にかけて、ピンと糸を張られたように痛みが走った。
「痛いって言ってるでしょうっ!?」
 演技などではない。本気の叫びだ。
 さすがにその様子に気付いたのか、男は腕を放した。解放された若菜は寝台に座り込んで荒く息をつく。悔しさと混乱が極まって涙が零れた。嗚咽を堪えようとしゃくり上げるたび、痛みが首筋を駆けていく。
「悪い……」
「悪いと思うなら……!」
 若菜は手の甲で涙を拭って男を睨む。眼鏡もない今、彼の顔はぼやけて見える。鼻を啜り上げて見栄もない。こんな男相手に見栄を張るのも馬鹿らしい。
 しばらくそうしていると次第に落ち着いて、若菜は息をついた。泣き腫らしたせいで目元が熱い。擦ったため、赤くなっているのだろうと思う。泣いていた間中、消えない男の存在が不愉快だった。まるで弱味を握られたように感じてしまう。
 若菜は素早く眼鏡をかけると時計を確認した。時間はそれほど経っていない。
「阿部さーん。遅くなって」
 折りよく看護士の声がした。同時に扉が開かれ、若菜は顔を上げる。
 部屋の様子を素早く察知した看護士は笑顔を固まらせて若菜たちを見比べた。
「ええと――面会時間はもう過ぎていますけど、ご家族の方ですか……?」
 問いかけておきながら看護士の表情は険しい。目の前で明らかに若菜が泣いているのだから、そうなるのも当然か。同性という要素も手伝い、看護士は若菜を庇うように男に近づいた。
「……頼まれて、着替えを持ってきました。若菜は部屋を移るんですか?」
 潰れた紙袋を直しながら男は立ち上がった。嘘ではない。看護士は紙袋に入っている女物の着替えを見下ろし、困惑したように男と若菜を見比べた。それでも険しい表情は簡単には覆らない。
「あらそう、ご苦労さま。そうなのよ。阿部さんはこれから引越し作業があるから、関係ない方は出て行って貰えますか?」
 仮面的な笑顔に男は苦笑した。
「失礼」
 そのまま部屋を出て行こうとする男だが、肩越しに若菜を振り返った。
「若菜。さっきは悪かったな。また明日、来るから」
 挑戦的な笑みを見せて部屋を出る。閉められた扉を睨みつけ、若菜は蹴りを入れたい気分になった。生憎と看護士の眼がある。体も痛くて言うことを聞かないことだし、顔を背けるだけで気を紛らわせる。
 それからは看護士が色々と質してきたが、若菜は全て生返事で返した。記憶喪失ということは既に伝わっているらしく、深くは追及されない。あの男の正体など、若菜が教えて欲しいくらいだった。そうして夜に慌しく部屋を移った後は何も考えずに眠りについた。
 あの男には二度と会いたくない。
 そんな思いだけを強く抱えたまま。


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 患者といえども共生には変わりない病院。
 その一日は規則正しい朝から始まる。朝6時には音楽が流れ、リハビリを兼ねた患者がエントランスに集まってラジオ体操をする。看護士は忙しそうに走り回り、朝の検温や食事の準備に追われている。
 そんな中で若菜は病室を抜け出し、屋上に向かっていた。
 途中で担当医に会って退院の意を伝えたが流された。少しの検査をし、由紀子と話し合ってから決めるそうだ。もう少しここに入院していなければいけないらしい。
 若菜はエレベーターの扉を閉めると屋上へのボタンを押した。途中で誰かに止められることもなくスムーズに運ばれる。病室には今ごろ朝食の準備が整っているのだろうなと思いながらも戻らない。人に迷惑をかけているとは分かっていても、現状に変化が欲しかった。
 エレベーターを出た若菜は少し暗い廊下で顔を上げた。屋上までは少し歩かなければいけないらしい。階段が続き、10メートルも進んだところで外からの光が零れてくる。静かに外へ出ると風が髪を攫っていった。
「暑……」
 外へ出れば出たで強い陽射しが降り注ぐ。
 若菜は手を翳しながら、既に高く上っている陽を仰ぐ。看護士たちがかけたのか、屋上には洗い立てのシーツが干されていた。風に揺らめきながら白い光を放っているかのようだ。
 若菜は看護士を捜したが、どうやらいないようだ。全員が下へ降りていったのだろう。洗い立てのシーツに触れると、まだ湿っている。
 屋上を囲むフェンスに近づいて遠くを眺めた。都会とは言えぬ町並みが広がっている。見覚えのある場所があるかと眼を凝らしてみても、全てが新鮮に思えた。まるで見知らぬ町だ。ギシリと軋むほど強くフェンスをつかんでいる自分に気付いて、若菜は体を戻した。ため息をついて見下ろす。地上までは結構な高さがある。
「記憶喪失、進展なし」
 若菜はボソリと呟いて体を反転させた。フェンスに倒れこむように背中をつける。途中、このままフェンスが壊れたらどうしようかと思ったが杞憂のようだ。安全面には気を配っているのかフェンスは二重になっている。きっと若菜が蹴りつけても壊れないだろう。背中を預けて太陽を睨む。思い切りくしゃみをすると首が痛んだ。
「えぇと。そういやカレンダー見てないや。9月? 8月? まぁいいけど、暑い……」
 若菜は早々に飽きて影に避難しようとした。
 洗濯物の合間を潜りながらエレベーターに戻ろうとし、その途中、とある人影に気付いて足を止めた。
「げ」
 若菜は思わずうなる。
 現れた人物はその声に顔をしかめたが、そのまま若菜に近づいてきた。
「ご挨拶だな」
「どうしてここに」
 目の前にいたのは昨日の男だった。
 若菜は後退した。
 嫌悪感が顔に表れたのか、男は肩を竦めて傷付いたような表情をする。
「下の玄関を潜るとき、屋上にいるのが見えたから」
 若菜は「ちくしょう」と舌打ちした。
 見つかったものは仕方ない、と諦めることにして、逃げる手段を探した。どうしてだかこの男といると胸が騒ぐ。
「なんかお前、昨日から俺に隠してないか?」
 若菜は顔を上げる。近づいてきた男が顔を覗きこむ。その距離分、若菜は後退して彼を睨んだ。隠しごとなら沢山ある。だが、この男を前にすると胸騒ぎのほかに、申し訳ない気持ちが先に立って何も言えなくなってしまう。記憶を失ってしまったことに対する罪悪感だろうか。
 どう切り抜けようかと考えながら、男の名前すら知らないことに気付く。話している間に思い出すかと思っていたが、その兆候はない。
 男は昨日と違って軽装だった。陽の下で見ると昨日よりも若く見える。親しみやすささえ覚える。
「由紀子さんは早くお前に会えってだけで、他に何も言わないし、昨日は昨日で追い出されるしよ」
 不貞腐れたように横を向く。
 若菜は昨日のように無茶をされるのかと身構えていたが、ただ単に話をしているだけだと胸を撫で下ろす。構えていると疲れてしまう。肩から力を抜いて、素直に耳を傾ける。
「――あのさ。悪いんだけど、私、貴方のこと何も知らないんですよね」
 若菜は思い切って告げてみた。
 男の視線が向けられる。
 ――先ほどまでの態度から、男と自分の関係が、単なる同僚や上司部下といった関係ではない物だと感じてのことだ。とても親しい友人……という関係には抵抗を覚えるが、そういった関係であれば、事実を告げても悪い方へは働かない。そんな風に思った。
 若菜は先ほどまでとは違った意味で汗をかきながら見上げる。相変わらず記憶にはない顔だ。
「医者からは一時的な記憶障害だっていう説明だったけど、いつ思い出せるのかも分からない。日常的なものは体が覚えてるけど、人間関係は全部忘れてるんです。最初はお母さんの名前すら忘れてました」
 若菜は他人事のように告げる。
 男は若菜を凝視していたが、やがてその表情が曇った。信じていないように、訝る瞳となる。
「忘れた……?」
 低い呟きに若菜は頷く。
 男は何を言うべきか息を吸い込んだが、口がただ開いただけで、息が抜けた。若菜が怪我人だということを思いやったのか、言葉が失われただけなのか、それは分からないが、男は怒鳴ろうと溜めた勢いを逃がした。代わりに深いため息が吐き出される。片手で顔を覆い、俯いてかぶりを振る。呆れたような、嘆くような仕草だ。
 若菜は罪悪感を抱きながら近づいた。
「えぇと……名前から教えて貰えませんか? それで思い出せるかもしれませんし」
 尋ねると男は驚愕したような表情を見せた。その表情に若菜は頬を引き攣らせる。反応しすぎだと思う。確かに言い慣れない感はあったが、それほど普段の自分と今の自分は違うのかと、男に問いかけたかった。若菜は黙って待つ。
「――斎藤、厚志」
「斎藤厚志さん?」
 若菜は名前を繰り返した。琴線に何かが引っ掛かったが、慌ててつかもうとしたところでそれは指の間をすり抜けた。
「うーん……と。ごめんなさい。やっぱり分からないみたいです。斎藤さん、斎藤さん……」
 厚志はまるで拒否反応を示したかのように微かに顎を引いた。若菜が見上げると、恐ろしいものを見るかのような視線で見下ろされる。その視線になんとなく納得いかないものを感じて、若菜は唇を引き結んだ。何かを言えば言うほど墓穴を掘っていく気がした。
「……記憶がないのはいつからだ?」
「え? ……昨日。事故に遭ったときから?」
 首を傾げると厚志が大きく脱力した。
「由紀子さんが言ってた意味がやっと分かった……」
「なんですか?」
 見上げると、厚志は戸惑うように視線を彷徨わせた。そして若菜の両肩を掴む。その行動に若菜は体を緊張させたが、杞憂だったらしい。
「頼むから敬語をやめろ。使われるたびに鳥肌が立つ」
「はいぃ?」
「本当に覚えてないのか、俺のことも? いや、俺のことを忘れてるっていうなら小学校のときはどうだよ。どこまで覚えてるんだよ?」
 だから何も覚えてませんてば、と投げやりに答えようとした若菜だが、厚志の瞳は言葉のわりに真剣で、どこか縋るような眼をしていて、答えに詰まった。厚志から視線を逸らして考える。
「……小学校……?」
 記憶を遡って考えてみようとした瞬間、頭の片隅に残っていた鈍痛が、痛みを増して蘇った。
「っ」
 若菜は小さな悲鳴を上げて顔を背ける。痛みに瞑った瞼裏が赤く染まっていて、胸底から気持ちの悪さが込み上げる。
 そう感じたのは一瞬だった。
「若菜?」
 息をついた若菜を心配そうに厚志が覗き込んでいた。その瞳に心当たりがある気がして口を開いたが、言葉は何も生まれなかった。
「斎藤さん……」
 厚志は露骨に嫌そうな顔をする。
「振り出しに戻る、かよ。悪質な嫌がらせだな」
 厚志は若菜の両肩から手を外すと自嘲気味に呟いて笑った。若菜を見る目は冷たく凍えている。
「若菜。本当は俺が嫌いだろう」
「え?」
 詰め寄られた若菜は息を呑んだ。先ほどまで向けられていた厚志の視線が、今はまるで違うものに変わっている。純粋な憎悪を向けられている気がして足が竦む。
「こうまで俺を排除する理由はなんだよ。違うっていうなら言ってみろよ」
「そんなこと言われても……というか、斎藤さんは私のなんだった人なんですか」
 厚志が怒鳴りつけたそうに息を吸い込んだが、それは顔を背けることで耐えられ、そして再び視線が若菜に向けられる。
「……婚約者」
 若菜はよく聞き取れなかった。
「こんにゃく?」
「馬鹿野郎。こんにゃくで繋がる関係がどんな関係かなんて俺の方が聞きたいわ」
 指で額を突付かれた若菜はよろける。素直に謝ろうとした若菜だが、少し悔しい。だんだんと腹が立ってきて厚志の指を払いのける。
「もしかしたらあるかもしれませんよ、こんにゃくで繋がる関係」
 苛立ちを込めながら強く言い切った。逃げているなと自分でも感じてしまう。そんな自分にも苛立ちを感じ、誰にとも知れぬ反発心が湧きあがり、若菜は無理やり言葉を続ける。
「スキヤキに入れる糸こん大好き仲間だったとか。スーパーの買い物で一緒にこんにゃく探してくれた恩人だったとか」
「俺らを馬鹿馬鹿しい関係で繋ごうとすんな。そこまで回る頭はありながら、なんで俺のことは綺麗に忘れてんだよ?」
 そんなの私が聞きたいよと思いながら若菜の表情は険しくなっていく。
「こんにゃくに対する特別な思い入れがあるわけじゃないけどスキヤキに入れる糸こんは好きだと今思い出した」
「お前の好みなんかこの際どうだっていいっ。俺の言葉を聞けっ」
「なんか本能的に聞きたくない!」
 勢いで断言すると厚志が絶句した。若菜は「しまった」と顔をしかめる。勢いがつきすぎてしまったようだ。謝ろうとしたが、不機嫌最高潮の厚志が口を開く方が早かった。
「良ーく聞けよ」
「いだだだだだだだ」
 両耳を引っ張られた若菜は悲鳴を上げた。
「婚、約、者。フィ、ア、ン、セ。未来の、結、婚、相、手」
 額と額がくっつくほど距離を縮めて、厚志は告げる。
 若菜は眼を丸くして厚志を見返した。
「……パードゥン?」
「ってめぇ、絶対ェわざとだろう今のは! なんでそこだけ英語なんだよ、今まで欠片の英語力も見せなかった奴が!」
 耳元で怒鳴られた若菜は肩を竦めた。その怒鳴り声が頭に響き、しまった逆鱗だと気付いたが既に遅い。若菜は厚志の腕を振り払うと踵を返して逃げ出した。
「あ、待て!」
「待てるか! ――っだ!」
 瞬発力を生かして厚志から逃げる――そのはずだったのだが、若菜は失敗した。事故に遭ったばかりの体でそこまで望むのは酷だったのか、若菜はその場に転がった。返した足を挫いたのだ。コンクリートの床に腕を叩きつけ、次いで衝撃が体に伝わる。
「若菜!」
 若菜の意識は真っ暗になった。

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