5周年記念企画小説
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4.

 世界がグルグルと回っていた。

 辺り一面の雪景色。少し遠くには大きな建物。いま立っている道があの建物に続いているのだと分かる。少し斜面になり、上り坂でもある。踏み固められた雪は氷となって、少し滑りやすい。
 若菜は白い息を吐き出しながら必死でその建物へ向かっていた。
 気付けば分厚いスノーウェアを着ており、手袋もはめている。全身が赤で固められていて雪に映える。
 前方から風を切るような音がして、若菜は顔を上げた。
「ストップストーップ!」
 異国訛りの言葉が聞こえてくる。
 ザーザーと音を立てて若菜に迫っていたのは、立派な木のソリに乗り、金髪をキラキラと煌かせながら、俊足を誇るトナカイに引き摺られた外国人。
「いや、何で」
 若菜は呆気に取られて見ていたが、彼女はあっと言う間に近づいてくる。
「そこのヒトー、どいてクダさーい」
「いやいやいやいや。一本道だし、ここ」
「糸こんアゲまーす」
 若菜は「あれ?」と首を傾げた。なぜかその言葉に引っかかるものを感じる。
 糸こんにゃく。
 最近、どこかで聞いた気がする。
 狭い雪道で立ち止まり、考え込んだ若菜は、次の瞬間後悔した。目の前に大きなトナカイが迫っていた。
 オーマイガーッというエセ外国人の悲鳴が木霊する。
 若菜は突き飛ばされ、道から大きくはずれ、空を舞った。
「嘘、やだ、死ぬよ!」
 高く舞い上がった若菜は遥か下に、町並みを見た。
 雪などどこにも存在していない、コンクリートで固められた町並みだ。
 ――どこかで見た。
 そう首を傾げて納得した。
 あれは自分の町。小学校の廊下に飾られていた航空写真。それと同じだ。
 生まれは違うが、もう半生以上を過ごした、故郷と呼べる町並み。航空写真を見ながら友人の家や自分の家を指差して笑いあったこともあった。
 ああ、皆は元気だろうか。
 そんなことを思っていた若菜は、不意に双眸を瞠らせた。
 弾き飛ばされた勢いで遥か高くまで舞い上がっていた若菜は、遂に落ちるべく無重力に陥った。
 その瞬間、近くに誰かがいたような気がした。手を伸ばせば届く。振り返れば分かる。近くにいて欲しいと願った存在。とても大切な、宝物のような想い。
 けれど、それらは自分の悲鳴によって掻き消された。
 落ちる――落ちる――落ちる。若菜inワンダーランド。
 危機に陥っていても馬鹿なことを考える余裕はあるらしい。ついでに中学校時代の英語教師の顔も思い出しながら、若菜は真っ逆さまに落ちていった。


 落ちた瞬間、全身を硬直させた若菜は双眸を瞠らせた。
「っと」
 どうやら自分が目覚めたのは寝台の上ではないらしいと真っ先に気付き、若菜は状況確認をしようとした。訳が分からないまま起き上がろうとする。
「こら待て、落ちる!」
 間近で聞こえた声と共に若菜は抱き締められた。小さな痛みが腕に走り、その痛みに若菜は顔をしかめる。視線を静かに持ち上げていけば、先ほど自己紹介して貰った厚志の顔がそこにあった。
「不思議の国へレッツゴー」
「はぁ?」
 夢の続きではないらしい。
 若菜は厚志に抱え上げられ、階段を下りていた。すぐ傍には屋上へ続く道がある。意識を失ってからそれほど経っていないのだと知る。悪夢を見ていた気分だ。けれど思い出の欠片を取り戻して、満足感はある。
 一向に思い出せないのはこの男なのだが――と若菜は再び厚志を見上げた。
「本当に、大丈夫か若菜?」
 その言葉は純粋に若菜の体を心配してのものではないようだ。呆れている。若菜の熱を測ろうと額を近づけてくる。その額に頭突きしかけた若菜だが、自分は怪我人だということを寸前で思い出し、彼の顔面を手の平で押し留めた。
「こ、婚約者だかなんだか知らないけど。過去は過去、今は今だよ! 気安く近寄らないで!」
 若菜の手を振り払った厚志は「ふーん」と眉を上げた。ニヤリと笑って若菜を見る。
「名前じゃ思い出せないってんなら、キスすれば思い出すかもなぁ?」
「あぁ?」
 思わず柄が悪くなった若菜だが、厚志は気にしない。
 ただのセクハラだろうという行動に移そうとしだす。記憶のない若菜にとっては正真正銘の嫌がらせである。
「と、冗談はやめとくか」
「……え?」
 両腕で顔を庇っていた若菜は恐る恐るガードを外す。視線の先では厚志が苦笑している。
「いい加減、腕が疲れてきた。さっさと病室に戻らんと落としそうだ」
「お、落とすなよ」
「そう思うなら大人しく協力してくれ」
 若菜は硬直して厚志のシャツをつかんだ。これ以上怪我をしては堪らない。
 厚志は「よっ」と声をかけて若菜を横抱きに抱えなおし、再び階段を下り始めた。エレベーターに乗ると背中をつけ少しだけ楽になったようだ。
(いや待て? なんか状況的に抱えられたままだけど、意識が戻ったなら自分の足で歩いた方がいいんじゃないのか?)
 若菜はそう気付いて起き上がろうとしたが、折り良くエレベーターは目的の階へ到着し、扉が開いた。厚志はバランスを崩した若菜をもう一度抱えなおして外へ出る。
「ねぇ、ちょ」
「いいから、大人しくしてろって。重いんだよ」
「女の子に向かってなんだそれは」
「女の子って歳でもねぇだろ、もう」
 厚志には鼻で笑われた。
「うわ、ムッカつくー。女性は永遠に若くありたいっていう願望があ――るかもしれないけど私は別にどうでもいいんだ」
「だーから、台詞の途中で気付いたように自分を思い出すな」
「記憶取り戻してることには違いないんだからケチつけるな」
「ほーう。その調子で俺のことも思い出して欲しいもんだな」
 厚志の声は再び呆れを含む。どうでもいいと思っているのだろう。
 若菜は唇を引き結びながら不満な顔をしてみせたが、やはり自分にとってもどうでもいいことなので、直ぐに不満は消えた。そして、厚志とのやり取りが既に、初対面の域を抜けていることに気付く。ぽんぽんと応酬されるのは一緒にいた時間が長い証拠なのか。気兼ねすることなく、冗談交じりに本音も言える。
「ほら着いたぞ。入院して怪我増やしてたら世話ねぇよ。ったく懲りねぇなぁ」
「増やさせるような真似するのが悪いんでしょう。まったく、懲りないんだから」
 足で扉を開けた厚志は若菜を見下ろした。
「懲りてねぇのはどっちだ。落とすぞ」
「落とされたらその場で足払いかけてやる」
「――残念ながら落とすのはベッドの上でね」
「そーう、そのまま倒れてきたらミゾオチに膝蹴り決めてやる」
 二人の間で静かな火花が散った。
「入院患者の台詞じゃねぇよ」
「だって今日にも退院したい人間の台詞ですから」
 病室の入口で睨み合っていると、前方から声をかけられた。
「呆れるわね。どこで倒れてるのかと思ったら元気じゃない。どこにいたの? 看護士さんたちが捜してたわよ」
 若菜の寝台は入口の傍にある。顔を上げてそちらを見ると、空っぽの寝台に腰掛けた由紀子がいた。その隣には昨日見た、美嘉という女性もいる。美嘉は若菜と厚志のやり取りに驚いたように瞳を丸くさせていた。
 由紀子がため息をつく。
「それで、若菜。記憶は戻ったのね」
「え? いや――それが、まだ……」
 なぜそんなに確信を持って言えるのか。若菜は曖昧に笑って視線を逸らす。由紀子は「ええっ?」と大げさに驚いた。
「だって今の厚志くんとのやり取り、まさに生前の若菜そのままだったじゃない」
「勝手に殺すな! まだ生きてるから!」
 由紀子は唇を尖らせた。
「記憶がなくても性格はそのままなんて――器用なことしないでどうせなら子どもにまで後退してくれていたら」
「お母さんの教育なんて絶対受けません」
 昨夜の再教育発言を忘れちゃならない。
 若菜は引き攣る頬を感じながら断言した。由紀子が重たいため息をつく。その間に厚志は若菜を寝台に下ろす。首を回し、腕を回し。
「……なんで、ここにいるんだ?」
 その言葉は真っ直ぐ美嘉に向けられていた。
「……久しぶりね、厚志」
 若菜は二人を見比べる。美嘉は立ち上がり、厚志に向けて微笑んだ。
「こっちには仕事の打ち合わせで来たの。厚志が来てるって聞いて、少し複雑だったけど……もういいわ。気持ちの整理がついたから」
 厚志は顔をしかめた。
「純一はまだ東京にいるのかしら」
「……ああ」
「そう。じゃあ、厚志だけにでも報告しておくわね」
 寝台を挟んで向き合う二人。立ち上がった美嘉の手が、ぎゅっと握り締められたのが若菜には分かった。
「私、再婚することになったの」
 一つ、二つ、呼吸をしても何の反応もない。唐突に流れた沈鬱な空気。若菜は口を挟んではいけない気がして、寝台に座ったまま視線を動かす。由紀子はといえば何の動揺もせずに見守っている。
「再婚?」
 ようやくといった様子で厚志が絞り出した。
「ええ。厚志も会ったことがあるわよね。私のマネージャーの小田島さん。純一と離婚してから何かとお世話になってきた人よ。前から話だけはあったのだけど……決めたの。今日は若菜ちゃんのお見舞いと……これだけ、伝えに来たのよ」
 若菜は何となく事情が飲み込めた。美嘉と厚志は親子だと、誰からの説明もなく確信した。そして話の流れでいけば、美嘉は厚志の父と別れ、再婚しようとしている。厚志は父側に引き取られていたのだろう。
(でもな……?)
 若菜はどこかに違和感を覚えて首を傾げた。美嘉の表情は決意を秘めたものであるが、何か釈然としない。厚志は先ほどから何も言わないままだ。代わりに由紀子が問いかけた。
「美嘉。向こうにはいつ帰るんだっけ?」
「一週間くらいはこっちにいるわ。小田島さんも一緒に来ているし、息抜き程度に羽根を伸ばして行こうと思っていたの」
「そう。一週間ね」
 由紀子はちらりと厚志を見た。厚志はまだ無言のまま美嘉を見つめている。
「若菜はこの通り元気だから、気に病む必要はないわよ。デザイナーなんて家に篭りっきりなんだから、目一杯羽根伸ばして行きなさいよ」
「ありがとう、由紀子」
 若菜は由紀子に太鼓判を押されて複雑な表情となる。せめて本人に「大丈夫でしょう?」くらい聞いて欲しい。もちろん、他人である美嘉に心配をかける訳にはいかないため、例え痛みが酷くても「大丈夫」と笑ってみせただろうけれど。
「二人って前からの知り合いなの?」
 若菜は顔を上げて問いかけた。先ほどから交わす由紀子と美嘉の会話は、最近知り合った者の会話ではないような気がした。古くから付き合いがあったかのようだ。
「当然よ――っても今の若菜は覚えてないんだったわね。あんた、小さい頃はおやつ目当てに美嘉の所にばかり入り浸ってたのよ」
 若菜は思わず美嘉を振り返った。美嘉は否定せずに笑っている。
「肝心の厚志くんが遊ぼうって家に呼びに来ても、若菜は既に美嘉の所にいる――なんていうパターンが結構あったわね」
「そうね。もう、懐かしいわ。あれから十年以上経ってるのよね」
「――なんかお母さんらの会話聞いてると自分の子供時代が凄い卑しく思えてくるんですけど」
「子どもなんて目先のおやつにつられて当然なもんよ」
 あっけらかんと由紀子に笑い飛ばされて、若菜は頬を引き攣らせた。
 厚志が踵を返した。
「どこ行くの?」
 若菜が声を掛けると首だけで振り返る。表情に笑みはない。
「……仕事。昨日、急に抜け出してきたから引継ぎもしてない。メールくらい送ってやらんと心配する奴らがいるからな」
 厚志は低い声でうなるように告げると部屋を出て行った。
「相変わらず仕事から離れられない人たちねぇ。斎藤家にはそんな血でも流れてるのかしら」
「美嘉だって同じじゃない。次のデザインを考案中なんでしょう?」
「私の場合は――そうしないと直ぐに投げ出されるもの」
「人のこと言えないってこと。本当に、体だけは壊さないでよね」
「気をつけてはいるけど、なんか、由紀子に言われると複雑だわ。貴方の場合は若菜ちゃんがいるから大丈夫なんだろうけど――」
 厚志がいなくなった途端に始まる井戸端会議。
 せめて自分の傍から離れてやってくれ、と若菜は布団に潜り込みながら思った。
 腕がヒリヒリと痛み、ふと見れば擦り切れて血が滲んでいる。屋上で転んだ時に怪我をしたのだろう。
(本当、厚志に賛成する訳じゃないけど、入院してながら怪我増やすなんて、器用だよなぁ)
 若菜は横になりかけていた体をもう一度起こして寝台を下りた。
「どこに行くの、若菜?」
「んー。腕擦りむいてたから、消毒して貰ってくる」
 新たに擦りむいた腕を見せると、由紀子が呆れたように笑った。
「ばっかねぇ。病院内のどこでそんな新しい傷増やしてるのよ」
 皆で同じことしか言わない。
 若菜は肩を竦めながら「さぁね」とどうでもいい返事をした。
「一人で大丈夫?」
「あ、平気です」
 傍に寄ろうとする美嘉を手で制して若菜は笑った。こういう所を是非とも母親に見習って貰いたいと思いながら由紀子を見たが、彼女は視線の意味に気付かないようだった。
「平気よ。若菜は一人の方が落ち着く子だから」
 そういう視線じゃない、と思わず蹴りたい衝動が湧いた若菜だが堪える。
 二人の母親を背中にしながら廊下へ出た。
 擦りむいた腕も気になるが厚志のことも気になった。若菜の無事は昨夜確認していたのだから、今まで会社に連絡する時間くらい幾らでもあっただろう。あの男が連絡を疎かにするような者にも見えなくて、若菜は奇妙な不安を覚えたのだ。
 廊下に出た若菜は左右を確認して眉を寄せた。廊下に厚志の姿はない。彼が部屋を出てからさほど経っていないと思ったのに、入院患者と看護士しか見当たらない。既に外へ出てしまったのだろうか。
 若菜は行き場をなくして首を傾げた。ひとまず目的を作らなければとうなり、仕方ないので水でも貰って来ようかと思いつく。確か病院の入口に浄水器が設けられており、綺麗な水が無料で提供されていたはずだ。
 若菜は歩きながらふと思い出した。
「そういえば検査っていつになるんだ」
 記憶喪失を除けば全く問題ないように思える。看護士から時間を伝えられるという話だったが、若菜自身が動き回っているためその情報はなかなか伝わらない。そのうち病院内で迷子アナウンスが流されるかもしれない。
 そんなことを考えながら若菜は突き当たりを曲がり、階段を下りようとして息を呑んだ。
 壁の影に隠れるようにして厚志がいた。向かいにある自販機で買ったらしい缶コーヒーを手に、壁に背中をつけていた。近づいていくと直ぐに気付かれる。厚志は若菜を一瞥しただけで視線を逸らす。そのことに釈然としないものを覚えた若菜だが、ひとまず厚志を見つけたことに胸を撫で下ろしながら近づいた。
「……大丈夫?」
「なにが」
 声は淡々と返された。見えない壁を造られた気がして若菜はうろたえる。先ほどまで軽快なやり取りをしていた延長はどこにもない。以前の自分ならどう切り抜けただろうと考えてしまうことが悔しい。
「ええと、美嘉さんのこと、知らなかったから。複雑な家庭事情? ていうのを――なんて言ったらいいのか分からないけど……」
 視線を彷徨わせながら言葉を探していると小さな笑い声が聞こえた。若菜は微かに眉を上げて厚志を睨む。鼻で笑われた。
 厚志は缶コーヒーを飲み干すと投げた。缶は綺麗な弧を描いてゴミ箱に落ちる。
「らしくないな」
「……誰。私が?」
「ああ。お前が」
「じゃあ、私らしいってどういうのよ」
 若菜は厚志の隣に並んで壁に背を預けた。見下ろしてくる視線を感じながら自販機を睨み付ける。こめかみが疼いて顔をしかめる。厚志は答えなかった。
「母さんが決めたんなら、もうどうしようもないだろ。親父がもたもたしてるからこういうことになるんだ。親父には自業自得だ」
 若菜が顔を上げた先で、厚志は皮肉な笑みを浮かべていた。
「――厚志?」
 ふと若菜は、その横顔をどこかで見た気がした。失った記憶のどこかで見ていたのかもしれない。今が記憶を取り戻すチャンスだとばかりに厚志の腕を掴み、思わず覗き込む。その勢いに驚いたのか厚志は顎を引いた。
 しばらく見つめていた若菜だが、やがて何も思い出せないことにため息をついて、上げていた踵を下ろした。厚志から離れて再び壁に背中をつける。
「だーめだ。今なら思い出せそうな気がしたんだけどな」
 ため息と共に呟くと厚志の手が伸びてきた。髪の毛をぐしゃぐしゃと混ぜるように撫でられる。不愉快に顔をしかめて髪の毛を整え、若菜は厚志を睨みつけた。
「早く思い出せ。じゃないと手が出せねぇ」
「うるさいな。もう手ぇ出してるじゃん。思い出そうと努力はしてんだから大目に見ろよ」
「そっちの手じゃねぇ」
 若菜は不機嫌な表情のまま厚志を見たが、答えはなかった。

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