5周年記念企画小説
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5.

 退院を許された若菜は自宅を見て口をあけた。記憶にない自宅は見慣れなくて、他人の家に来たような気になってしまう。もしくは夏休みに行く親戚の家か。
「別に何も変わってないだろ、外は。お前の記憶はどうねじくれてるんだ? お前の性格そのまんま」
 掛けられた声に若菜は振り返った。厚志は車から荷物を下ろしている。因みにレンタカーだ。どうやら厚志は今まで東京にいたらしく、事故を聞いて飛行機で来たらしい。遠距離恋愛、という言葉も自分とは無縁な気がして、若菜はむず痒いような気持ちでその言葉を聞いた。
「――自分でもそうは自覚はしてるけどねっ。変な感じっ」
 厚志を睨みつけながら近寄る。地面に下ろされたスーツケースを持ち上げようとし、横から厚志に奪われた。
「いいから先に行け。つかえてるんだよ。もたもたするな」
 荷物のことごとくを奪われた。荷物は若菜のものなので、他人に持ってもらうというのは妙な心地がした。
 背中を押された若菜は「うわっ」と悲鳴を上げる。意外なところで紳士なくせに、別のところで労わらないこの男が分からない。婚約者だというが、記憶を失う前の自分は本当に納得して婚約したんだろうかと疑問に思ってしまう。
「まぁ前に認めてたからって、いま認めなければ認めないけどね!」
「入院してから拍車がかかったんじゃねぇのか」
 玄関に向かって憤然と歩き出す若菜に呆れた声が飛ぶ。その言葉も充分に意味不明なものだったが、若菜は聞き流すことにした。この男相手にいちいち突っかかっていたらキリがないと早々に悟った。
「そういえば若菜。お前、指輪は?」
 玄関の鍵を開けていた若菜は振り返って首を傾げた。眉を寄せて「指輪?」と問い返す。厚志は何かに思い至ったように「いや」と手を振ろうとしたが、問い質すような視線に気付いて続きを告げる。
「俺がやった、婚約指輪」
「婚約……」
 何度聞いても慣れない言葉だ。
 若菜はおうむ返しに呟いて、おもむろに左手の指を見た。そこには指輪などない。念の為に右手も掲げてみたが、病室で目覚めてから今まで気付いたこともないのだから、当然ない。婚約指輪といえば非常に高価だという認識が若菜にあるため、罪悪感に駆られながら厚志を見た。
「……分からない」
「そうか」
 厚志の言葉は素っ気ないものだった。予想はしていたのだろう。
 記憶を失くしたあげく、大切だったはずの指輪まで失くしてしまった。厚志は怒ってもいい場面だというのに怒らない。
「あの、ごめんなさい」
 若菜を通り過ぎて玄関に入った厚志に声をかける。消え入りそうなほど小さな声だ。荷物を置いた厚志が驚いたように振り返った。俯く若菜の頭を撫でる。
「若菜のせいじゃないだろ。指輪なんて代わりはあるんだから落ち込むな。らしくないぞ」
 厚志は本当になんとも思っていないような声で告げ、家に上がり込んだ。その後ろ姿を見ながら若菜は呟く。
「……なんか、いい奴に思える」
「俺は元々いい奴だっつーの」
 スーツケースを置いた厚志は若菜に手を差し出した。若菜は素直にその手に従って玄関に上がる。ふと思いついた疑問を投げかける。
「お前は私のどこを好きになったんだ?」
 厚志の笑顔が固まった。
 その顔を見つめ、若菜も質問の気まずさに気付いて赤くなる。手を放して振り、慌てて取り消す。
「悪い! 私が思い出せてないのにそんな質問するなって話だよな! ただ、今、厚志が凄くいい奴に思えてたから疑問に思っただけ!」
 ハハハ、と上ずった笑いを零しながら若菜は耳まで真っ赤になった。逃げるように居間に入る。
「惚れ直した?」
「ぎゃあ!」
 後ろから腕が伸びて腰をつかまれた。息がかかるほど近くで囁かれ、若菜は両手で耳を塞ぐ。心臓が飛び出てきそうだ。体が熱くなる。厚志の顔は見えないが、その声から、彼が非常に上機嫌であることは想像できた。
「ほ、惚れ直す以前に、そんな記憶もないんだってば……!」
「いいぜ。忘れてて」
「は?」
 振り返ると、非常に近い位置に厚志の顔があった。真剣な表情をしていたが、若菜が振り返ると直ぐに笑みを浮かべる。しかし、どこか作ったような笑みだ。疑問に思った若菜だが問い質す前に別のところを突付かれる。
「今のお前が俺を好きになるんなら問題ない」
「な、なんで話がそこまで飛ぶのよ!」
「別に飛んではないだろ」
 若菜は奥歯を噛み締めた。こんな状態に陥った、自分の失言を悔やむ。
「お前がここで結婚を承諾すれば、俺は直ぐにも攫っていくから」
 口の中が乾いていく。色々と衝撃的すぎて鼓動が追いつかない。足が震えて情けなく思う。そんな若菜の頬に厚志の指が触れる。顎を持ち上げられてキスをされた。触れるだけの簡単なキスだ。頭が爆発しそうな気がした。「死ぬ」と思い、瞼を堅く閉ざして熱に耐える。厚志が離れると睨みつけた。
「昨日からお前、私に迫りすぎじゃない? こっちは記憶失くしてるんだけど」
「ああ。だってあれから半年だぜ? 駅で別れてから一回も逢えてなかったんだ。いい加減に限界っつーか」
 若菜はあえて追及しないことにした。これ以上、墓穴を掘りたくない。
「若菜渇望症の初期段階だ」
「末期まで耐えろ」
 からかうように囁かれ、若菜は冷ややかに言い放った。厚志の言う半年前が思い出せなくて面白くない。ふと、新幹線のガラス越しに厚志の顔を見送ったような記憶があった気がしたが、はっきりと思い出す前にそれは消えてしまった。
「それで、さっきの返事は?」
 まるで肉食獣の目だと若菜は思った。厚志が得体の知れない不思議な生き物に見えて言葉を失くす。頷くことも否定することもできずに戸惑う。
「若菜ー。もう帰って来てるの?」
 厚志がそちらに顔を向けた瞬間、若菜は両手を突き出した。
「ぐっ」
 突然の攻撃に反応し切れなかった厚志がうめく。
 若菜は厚志の腕から逃れ、赤い顔のまま振り返った。
「一時保留!」
 厚志は押された痛みに顔をしかめて聞いていないが、構わない。怒鳴りつけて厚志から逃げた。


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 その日の夕飯は豪華だった。
 若菜の、記憶に関しては無事とは言えないがひとまず五体満足での退院祝いとして、由紀子と美嘉が腕を揮ったためだ。母親二人の台所戦争は賑やかに弾み、味付けの仕方や飾りつけなど、それぞれ楽しげに褒めあったり貶しあったりしていた。数年ぶりに再会した友人。そのお喋りは途切れることなく流れていく。
 食卓についた若菜はそれぞれの料理に舌鼓を打ちながら会話に参加していた。
「立派な家よね。義之さんが一人で全部建てたの?」
「ええ。職人根性が働いたらしくて、土台から全て、機械まで借りて。そりゃもう楽しげだったわ。地下室を造るって言って聞かなくて。穴を掘るところから始めたのよ」
 由紀子は思い出しながら楽しげに話した。美嘉も、友人のそんな笑顔に頷いて耳を傾ける。若菜は由紀子の話を噛み締めるように聞きながら、必死で記憶を探っていた。父親の顔はまだ思い出せないけれど、由紀子の話に、おぼろげながら働く父の姿が浮かんでくるような気がした。確か現場を録画していたビデオがあったはずだと思ったとき、由紀子が同じことを話した。
「家を建てるときはまだ私たちは東京にいて、あの人だけがここに来ていたから。自分の働いてる姿を娘に見せるんだって、すっごく楽しそうにビデオを回してたのよ。あの頃は若菜もまだ小学校で可愛らしい頃だったからね」
「ちょっと、過去形で言わないでくれる」
 若菜はすかさず合いの手を入れたが由紀子は肩を竦めた。
「今じゃ車にはねられても記憶喪失だけに留まるような逞しさを備えてしまって」
「怪我するよりいいでしょう!」
「こんなやり取りも勘だけで出来るような娘なのに」
「だからしみじみ言わないで。お母さんにそう言われると無性に腹が立つの!」
 様子を窺っていた美嘉と厚志が顔を背けて小さく吹き出す。気付いた若菜は浮かせた腰を落ち着ける。顔を赤くして唇を引き結ぶが、由紀子を睨む鋭さだけは失わない。素知らぬ顔で受け流す由紀子が憎々しい。
「義之さん、東京に出稼ぎに出るようになってからもう長いのよね。どれぐらい?」
「そうねぇ……若菜が小学校の修学旅行のときはまだいたけど……中学校の修学旅行のときは、もういなかったかしら?」
 考え込むような由紀子の声に、若菜も同じく思い出そうとする。
 そう、確か小学校の修学旅行は函館に行った。お土産をいっぱいに抱えながら夜遅く学校に戻ってきたとき、保護者たちが学校の校庭で待っていた。由紀子と義之も揃って迎えに来てくれたことを覚えている。
「中学校のときは確か東京で、ディズニーランド行ったような気がする。あのカラフルなディズニーランドのお土産用の袋買って、迎えに来るのはお母さんだけだから、なるべく荷物を少なくしようと思った覚えが……」
 眉間に皺を刻みながら、記憶を辿り辿り呟く。
 両親が揃って出迎える校庭のなか、家族と長く離れた修学旅行の終わりに由紀子の迎えを見たときは素直に嬉しく、そして一人だけの出迎えを寂しく思ったものだ。
「なんだ。思い出せてるんじゃない」
 由紀子の声に若菜はハッとして現実に立ち返った。その瞬間、夜の校庭を浮かばせていた脳裏は綺麗に白くなる。続きを見たかったのに、という不満は置いておいて、ひとまず嬉しそうな由紀子の笑顔に曖昧な笑みを返す。
「お医者様の言う通り、時間の問題ね。修学旅行のことよりも先に厚志君を思い出して欲しいけど」
 由紀子は目の前の刺身に箸を伸ばして告げる。
 若菜は隣を見た。厚志と視線を交錯させ、逸らす。厚志の瞳は思いがけないほど真摯で直視できない。
 不自然な沈黙が下ろされ、食事を再開しながら厚志が口を開いた。
「今日は、小田島、さんは?」
「彼ならホテルよ。私だけ、今日はこっちに泊まるって言ってきたから」
「ふーん」
 厚志は興味なさそうに呟いた。
「厚志は会ったことあったっけ?」
「いや」
「後で会わせましょうか?」
「要らねぇよ」
 思いがけず強い声が響いた。
「俺は斎藤の姓になってるんだし、母さんが小田島さんと結婚しようと、俺とは戸籍上の関わりもない。会う必要なんかない」
 若菜は思わず厚志を見る。無表情で食事を続ける厚志だが、その声音の端々に不機嫌さが感じ取れた。誰とも眼を合わせようとせず、黙々と箸を動かし続ける。美嘉が哀しげに目元を緩めた。
 由紀子が後を引き継いで体を乗り出す。
「美嘉の再婚のこと、純ちゃんは何て言ってるの?」
 厚志が微かに眉を寄せる。
「知りません」
「あれ。純ちゃんには伝えてないの?」
「一応、伝えてはありますけど……メールでですし、声は聞いてませんので」
「厚志。貴方、まだお父さんのこと嫌ってるの?」
「……別に」
 険悪な雰囲気が漂うなかで美嘉はふと頬を緩めた。
「そう。それなら良かった。貴方に嫌われたら純一の居場所がなくなってしまうもの」
「元からねぇよ」
「そんなこと言わないの」
 カタン、と厚志は箸を置いた。低く「ごちそうさま」と言い置いて立ち上がる。茶碗類を持って台所に片付け、そのまま居間から姿を消した。若菜はその後を追いかけようかと思ったが、異様に険悪な雰囲気に追いかけることができないでいる。
 うな垂れた美嘉と反対に由紀子が苦笑する。
「厚志君も意外と子どもなのね。若菜ほどではないけど」
「――なんでそこで私を引き合いに出すのよ」
「若菜は納得いかないことがあると引き篭もるじゃない。いまだに暴れるし。直ぐに手が出るし。子どもの証拠」
 若菜はうなり声を上げた。非常に想像できる怒りパターンだ。
「覚えてないっ」
 ひとまずはそう告げて若菜も箸を置いた。

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