5周年記念企画小説
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6.

 若菜は携帯の着信音に顔をしかめた。
 厚志はあれから一度も姿を見せず、用意されていた隣の部屋に引き篭もってしまった。若菜は若菜で自室に戻り、見慣れぬ部屋に戸惑いながら小物を眺め、一つ一つ、記憶の確認をしていた所だ。
 携帯の着信音はなぜだかベートーベンの『運命』だった。
 いったい過去の自分は何を考えてそんな着信音にしたのだろう。若菜はそう思いながら携帯を手に取る。記憶がないためか、どうやって携帯に出たらいいのか分からない。着信音は延々と続き、若菜はひとまず携帯を開いてみたが、やはり操作方法が分からない。この辺りは生活して行く上で必須なのだから、体が覚えていてもいいものなのだが、不便だ。
 どうしようか、と一人で焦っていると部屋の扉が叩かれた。
「若菜」
 顔を覗かせたのは厚志だ。焦る若菜をどう見たのか、厚志は不機嫌な表情のまま部屋に入り込む。鳴り響く携帯を取り上げると着信ボタンを押す。
「若菜に何の用だ」
 いきなり喧嘩腰で話し始める厚志に驚き、若菜は唖然とした。彼には相手が誰であるのか、見ずとも分かっていたようだ。着信音だけで分かるなんてお前は超能力者か。もちろんそんな理由ではないことは、後で分かることになるのだが。
「自分で話せばいいだろ。若菜は病み上がりなんだ。お前の事情に巻き込むな」
「あ」
 厚志は携帯を若菜に渡すことなく通話を切断した。忌々しげに携帯画面を睨みつけ、折り畳むと机の端に置いた。
「誰からだったの?」
「――俺の親父」
 言いたくない様子の厚志だったが、若菜から視線を向けられ続けて口を割る。意外な単語に若菜は双眸を瞠らせて携帯を振り返った。厚志にではなく直接自分にかかってくるなど、婚約者の父とはそこまで懇意にしていたのかと、別の驚きが若菜を襲う。そう知ると、本当に結婚まで秒読み段階の状態にいたのではないかと落ち着きがなくなった。
「あ、厚志の携帯、持ってきてなかったんだ?」
「あー?」
「いやぁ、だって、私に直接かかってくるなんて、いくら婚約者の父親でも、ちょっとねぇ、と思って」
 動揺も露な若菜に何を思ったのか、厚志は不審そうな目つきをしただけで、鼻で笑った。
「あいつを一般常識に当てはめるな。記憶取り戻した時、一般常識に当てはめた自分を呪いたくなるぞ」
「はぁ……?」
 若菜は意味が分からなくて頬を掻いた。
「携帯なら持ってきてる。親父だって俺の電番もメルアドも知ってる。それでも若菜にかけてくる、そういう奴だ、あいつは。俺だって最低限必要なとき以外は連絡も取りたくねぇ」
「はぁ」
 そんなもんですか、と若菜は脳裏に疑問符を浮かべる。厚志は苦々しく「そうだよ」と吐き捨てる。
 階下ではまだ由紀子と美嘉が楽しげに話しているらしく、二人の笑い声が響いてきた。そのことで若菜は今に立ち返る。
「それで、厚志は何の用? 部屋でいじけてたんじゃないの?」
「いじ……あのなぁ」
 厚志は頬をひくつかせたが、諦めたようなため息を吐き出して若菜を見た。
「さっきの会話でもお前、少しずつだけど思い出してただろ」
「ああ。確かに。でもまだ厚志のことは思い出してないけど」
「けろっと言うな。だから、思い出せるようにと来てやったんだよ」
 尊大な態度で胸をそらす厚志に眉を寄せる。昼間は感動した『紳士』の姿が見る間に崩れ去った。残されたのはふてぶてしい笑みを浮かべるガキ大将だ。
 そう思い、ガキ大将、の部分に若菜は首を傾げた。しかし琴線にかかったものは直ぐに消える。唇を曲げて厚志を見上げる。
「俺は、明後日には戻らないといけないからな」
「明後日……?」
「本当なら抜けられない仕事を抜けて来たんだ。無事を確認したら直ぐに戻るつもりだったが、若菜がこんなことになってたら、戻るに戻れないだろ」
「いや、別に……戻って貰っても構わないけど」
「ざけんな。こんな状態で大輝たちが来たらどうすんだよ。記憶がなかったら今度こそ情に流されんだろうが」
 若菜は瞳を瞬かせた。
「……たいき?」
 厚志が咳払いする。
「とにかく、一刻も早く思い出せ。誰にも教えてないつもりだが、あの馬鹿親父が情報流してる可能性もある。猶予はねぇ」
 少し余裕のない話し方だった。
「……昼に、思い出さなくてもいいって言ってたのは誰だったかなー」
 そっぽを向きながらからかうように言ってみると厚志の目が細められた。
 寝台に腰掛けていた若菜の隣に、厚志が座る。少し勢いをつけて、若菜の体が揺れるくらいに強く。若菜は慌てて体勢を立て直そうとしたが、気付いたら寝台の上に転がっていた。天井が見えた、と思った途端にそれは厚志の顔に変わる。蛍光灯の影が落ちて、厚志の顔は翳って見えた。
「あのときは条件もつけてたはずだよな」
「条件?」
 なんだっけか、と強まる鼓動を感じながら首を傾げようとした。
「お前が俺を好きになるんだったら、思い出さなくてもいいって」
 若菜の笑顔が固まった。本気で忘れていた。そんな若菜の反応を見た厚志はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて体を近づけてくる。逃げようとした若菜だが直ぐに押さえつけられて体を動かせない。細身の体が寝台に埋まる。ついでに、ここ半年会っていないという言葉までも思い出し、厚志の瞳にただならぬ物を感じて震える唇を開いた。
「ちょ、ちょっと待って。ひとまずそういうことは置いておいて、これは純粋な興味から聞くわけだけど、厚志」
 緊張に声を上ずらせる若菜に、厚志は堪えきれずに一瞬だけ吹き出そうとしたが、賢明に耐えて震える頬をなんとか誤魔化した。幸いにも若菜は気付いていない。
「なんだ?」
「ええと、その」
 若菜は顔を赤くさせたまま言い淀む。あまりにも長い間に厚志の眉が寄せられるのを見て、何とか口を開いた。
「私たちって、一応、覚えてないっていうのは抜きにして、恋人同士だったんだよね?」
「ああ」
 厚志はすんなりと頷いた。
「そうすると、ええと……覚えてないんだけど、こういうことは、何回かあったのか?」
「は?」
 若菜は唇を引き結んだ。赤い顔で厚志を見上げ続ける。
 厚志は最初訝るように若菜を見ていたが、やがて言葉の意味に思い至ったのか、とうとう顔を背けて吹き出した。笑い声だけは抑えているが、肩が震えていれば一目瞭然だ。若菜は起き上がりながら自分の発言を激しく悔やんだ。
「お前にとっては笑いごとかもしれないけど、覚えてない私にとってはすっごく重要なことだ!」
 厚志はうな垂れるようにしながら必死で笑いを堪えている。
 やがてなんとか平常心を保てるようになった頃には、若菜の機嫌はすっかりと損ねられていた。半眼になって睨みつけられて、厚志はまた笑いの波に乗りそうになった。だが若菜に上機嫌な笑みで応じる。
「もちろんだろう。恋人同士だったんだから」
 その単語だけを不必要なほど強調する。
 若菜は赤い顔で「そうか」と納得した。実感はないが、厚志が言うのならそうなのだろう。
 黙り込んだ若菜をどう思ったのか、厚志は若菜を振り向かせた。
「若菜」
 頬に手を添えて優しい笑みを見せる。その声に胸の奥が痺れた気がして、若菜は息を詰まらせた。まるで悪寒に似た感覚に襲われている。
 厚志は若菜の頬に両手を添えたまま嫌なことを言った。
「俺に告白してみて」
 若菜の目が点になった。
「お前が記憶失くす前は毎日のように告白してくれてた。同じようにすれば、思い出すかもしれない」
 厚志の笑みが恐ろしい。
 若菜は唖然とその言葉を聞きながら、必死で過去の自分を探った。本当に毎日そんな恥ずかしい真似をしていたのかと罵りたい。だが悲しいかな記憶のどこを探しても、そんな光景は思い出せない。
「こ、告白って、なん、何、なんの?」
「俺のことを愛してるって言ってみて」
 キャラが違うんじゃないかと思うほど優しい声音だ。とぼけてしまおうとした若菜だが却下された。厚志は笑顔のまま、若菜の両頬を引き伸ばす。その手には怒りが込められている。
「好きだ、でもいい」
 若菜の頭は真っ白になった。
 ただ厚志の顔を見つめる。どこか縋るような瞳があり、その中に小さな怯えの色が見て取れ、若菜は一瞬だけ我を忘れた。
「厚志」
 ふ、と若菜は自分の気持ちが静かに凪いだことを悟った。名前を呼ぶと厚志が緊張する。見つめてくる一対の黒瞳には哀願が込められていた。そのことで、厚志の言葉は嘘だと直感する。同時に胸の奥が引き絞られるように苦しくなって厚志の手をつかむ。婚約していたなら告白くらいあったと思うのだが、嘘をついてまで今の自分に告白を強要するのはなぜなのか。若菜は厚志の目を見つめたまま口を開いた。
「記憶がない私が言うのは変な話だけど。私は厚志の婚約者だったんでしょう。それなら信じてよ、私のことを。記憶失くす前と今とで自分のこの性格が変わったとは思えない。だから言うけど、いい加減な気持ちで婚約なんてできないよ。それでも不安?」
 告白を聞きたいという厚志の要望には叶っていない言葉だが、厚志は遮らなかった。笑みを消して若菜を見つめる。両手を外して下ろし、距離を一歩詰めると若菜の背中に回す。恐々と触れてくる腕は弱いものだった。若菜は自分から厚志に寄りかかってみる。厚志は硬直し、若菜は厚志の胸にあつらえたように収まる。ずっと昔からこの場所が自分のものであったかのような安心感を覚えた。
 やがて厚志の長いため息がもらされ、硬直が解ける。若菜は強く抱きしめられた。
「不安だっつーの。俺は何回もお前に振られてるんだぞ。幼稚園の頃からずっと拒否され続けてきたんだ。婚約披露のあと、それこそ死に物狂いで勇気かきあつめて告ったっていうのに、やっぱりお前は拒否るし。追いかけてきたと思ったらまた逃げられる。ようやく許されて、今度こそ完全に手に入れようと結婚の話したら、また戻る。そんなんで何を安心しろっていうんだ。それでここに来たら記憶喪失で俺のことなんて覚えてないって言うだろ。俺はお前のなんなんだよ。せめて言葉で聞きたいと思って何が悪い」
 疲れたような吐息を洩らす厚志に、若菜は胸を熱くする。涙と共に、思考にかかっていた靄が洗い流されていくような気がした。先ほどまで目先のことしか見えなかったけれど、厚志の本心を聞いた今では、遥か先まで見ることができるようになった。厚志の服を両手でつかんでしがみ付く。
「厚志の言う『せめて言葉で』っていうのは、私に嫌なことを思い出させないため、我慢してるってこと?」
 厚志の体が少し強張った。それが答えだと知る。若菜が小さく微笑んで顔を上げると、困惑に揺れる瞳が見下ろしていた。探るように視線が動く。
「すっごく大事にされてるんだ、私。凄く嬉しい。厚志がそこまで思ってくれてるなんて、昔からじゃ考えられないことだよ」
「若菜?」
 言葉にされない問いかけに頷く。寄りかけていた体重を元に戻して座る。唖然として見つめてくる瞳を見返す。
「厚志とだったら、って何回も思った。人より面倒な性分だけど、厚志なら途中で投げ出さないで最後まで付き合ってくれるでしょう。そういう所がかなり好き。だから、厚志との将来も真剣に考えてた。これからも、拒否ることはあっても、排除はしない。私も色々と考える。どうすれば厚志が不安じゃなくなるか、考えるよ」
 若菜の頬に口付けが落ちる。瞳を細めてそれを受け入れ、厚志の首に腕を回す。病室で初めて会ったときのような、不快な感情は消えている。元から、記憶喪失ではあっても心のどこかで覚えていて、本当に嫌悪感を抱いていたわけではなかった。
 横たえられた若菜は自分の心臓の音を数える。穏やかで、特別に早い訳でもない心音。駅で厚志と別れたときからずっと不安だったものが、このときを持って解消されたかのようだ。もちろん新たな不安は湧き上がるだろうが、ひとまず今の時点で苛まれることはない。強い解放感と安堵感、そして不思議な高揚感に包まれている。
 若菜は静かに降る愛しさを抱き締めて腕を広げた。厚志の首から腕を放す。小さく、けれど抗い難い力で厚志を押し返す。躊躇いながら触れていた厚志の手が止まる。見下ろしてくる瞳にかぶりを振る。また拒否してしまうことになる、と痛みを覚えながら体を起こした。
「厚志と一緒にいると退屈しないよね」
 高鳴る心臓を宥めるように意識して呼吸を繰り返す。厚志の怪訝な視線が突き刺さる。少し不満そうな表情に笑う。
「私、凄くマイペースな奴だからさ」
「知ってる」
「自分のペースを崩されると冷静じゃいられなくなるの」
 何が言いたいのか分からないように厚志は眉を寄せた。若菜は気合いを入れるように「よっ」と言って立ち上がり、深呼吸する。
「結婚って、自分の人生の中で、その先のペースを決める重大な選択だと思う」
「……ああ」
「一時のペースの乱れで一緒になって、平静に戻ったときに、失敗した、とか、なんか違う、とか、思ったり思われたりするのが嫌なの。結婚したあとも自分のペースを守れるか不安なの」
 厚志が立ち上がった。部屋の蛍光灯が遮られ、若菜には影が落ちる。若菜は厚志から視線を逸らさないまま見上げ続けた。
「だから、時間を貰った。厚志のペースを知るためと、私のペースを知って貰うためと、それ知ったあとも厚志が私に愛想を尽かさないか、少し不安だったから。今更だけどね」
 がしりと頭をつかまれて若菜は顔をしかめた。厚志の表情は真剣そのもので、ひとまず口出しは控える。厚志の瞳が揺れ、なんとも言えない間が生まれる。
「いつから、思い出してるんだ、この頭は」
「薄々と?」
「んな説明で納得してたまるか!」
「厚志が言ったんじゃん。喋ってるうちに思い出すかもなって。その通りになっただけだ」
 若菜が唇を尖らせると厚志は唖然として両手を若菜から外し、視線は若菜に据えたままで僅かに後退し、やがて大きくため息をついた。
「……若菜」
「ん?」
「ちょっと、殴らせろ」
 若菜は笑顔のまま固まった。
「すっげぇムカついた。殴らないと気がすまない」
「いやいやいやいや。穏便に行こうよ厚志くん」
 厚志にかかった精神的負荷は相当なものだっただろうと思う。だがそれで殴られるのは割に合わない。今回は若菜が悪い訳ではなく、本当に不可抗力だったのだから。むしろ生きてて良かったと安心して欲しい場面だ、と若菜は口を空回りさせながら思った。
 若菜の抵抗を物ともせず、厚志は若菜に向き直る。その瞳は剣呑な光を宿し、本気で怒っていると知れる。曖昧な笑みを浮かべていた若菜は引き攣った。
「確かにね。今回は本当に悪かったと思うよ。事故なんかに遭った私の迂闊さにも腹立つと思うよ。でもさ、ほら、そこは寛大な心でさ」
「なにが寛大な心だ。都合のいい時だけ」
「だって忘れたくて忘れたんじゃないんだから!」
「だから、その怒りを、ちょっとぶつけさせろって言ってるんだ」
「ぬいぐるみにでもぶつけてしまえ!」
「いいや。ぬいぐるみにぶつけたって、気をつけるのは若菜だろ。二度と事故なんか遭わないように分からせないと」
「言葉で話せば分かるよガキじゃないんだから!」
 肩にかかる厚志の手を振り払う若菜だが、厚志はそれ以上の強さで若菜をつかんだ。微かな痛みに若菜は顔をしかめる。そして唇を引き結ぶ。ため息を吐き出し、眼鏡を外して目を瞑った。
「……いいけどね、別に。グーで殴ったら殴り返すけど。平手だったらある程度は我慢できるし。ほら、早く」
 もうこれは何を言っても駄目だと思い、潔く心を決めることにした。
 寝台の上に正座して待つ。
 厚志が動く気配がし、その両手が若菜の頬を挟む。若菜は顎に力を入れて眼を固く瞑った。
 そして。
 パンッという軽快な音がして、若菜は思わず頬を押さえる。
「い、ったーいーっ!」
「よし」
 目を開けると、まだ仏頂面だがどことなく満足そうな厚志の顔があり、若菜は肩を怒らせて身を乗り出した。
「叩くことないでしょう!」
「なんだよ。若菜だって覚悟決めてたじゃねぇか」
「違う! そうだけど違う! 今のは絶対叩く場面じゃない! 普通、恋人同士だったらここは、叩きたいけど我慢してキスするくらいの場面じゃないっ?」
「阿呆か。意外なところで乙女思考してんな。俺は叩くと言ったら叩くんだ。ああスッキリした」
「こっちは全然スッキリしないよ!」
 噛み付くが厚志は肩を竦めるばかりだ。
「ああもう、ぜーったい違う。私が覚えてる厚志はお前じゃない」
「いったいどこの厚志くんですかー」
 馬鹿にした棒読み口調に若菜はますます怒りを募らせていく。
 唇をわななかせた若菜を一瞥し、厚志は吹き出す。堪えきれないように肩を震わせた。
「本当に思い出したんだな?」
「おうともよ! この屈辱、二度と忘れるもんか」
 厚志は笑いながら若菜の頬に触れた。叩いた手に大した力は入れていなかったのだが、若菜の興奮もあって頬は赤く染まっている。若菜の腰を引き寄せて口付ける。
「……こんなこともあるんだな」
 黙ったまま口付けを受け入れた若菜は、小さな呟きに瞼を震わせた。
 間近で見る厚志は意外なほど真剣な表情をしている。先ほどまで見せていた揶揄の色はない。そんな表情に若菜は息を詰まらせた。厚志の服を掴む。
「他に忘れてることはないのか?」
「詳しくは質問されないと分かんないけど……厚志とのことは思い出したよ。多分ね」
「こういう奴だよお前は」
 フッと笑う息が首筋にかかり、若菜は動悸を抱えたまま厚志を見た。笑顔を浮かべる。
「お褒めに預かり光栄です」
 厚志は疲れたようにため息をついた。
 しばし沈黙が下り、若菜は厚志に寄りかかったまま口を開いた。
「時間、ちょうだい」
「やだ」
 小さな声は強い声によって一刀両断された。
 若菜は思わず厚志を見る。そこに先ほどまでの笑みはなかった。まるで子どものように拗ねた目をして厚志は膝を抱える。ガキ大将がそのまま大きくなったかのようだ。ちっとも可愛くない。
「やだって、あのな」
 若菜は呆れた。だが振り返った厚志の瞳に言葉を詰まらせる。彼の瞳に揶揄する色はない。
「記憶がないときの記憶も、あるんだろ」
「ええっと、昨日のとか、さっきのってこと?」
「ああ。全部。あるんだろ?」
「それは、あるけど……」
 若菜は顎を引く。
「なら時間なんてやらねぇ」
「え、ちょっと」
「今のお前の言葉聞いて、なおさら思った」
「厚志?」
「スッキリはしたけど、腹は立つ」
 言葉は意味を成さない。若菜を押し倒したのは乱暴な力だった。組み敷く力は強い。見下ろしてくる眼差しは静かだが、潜む怒りに背中が凍える。
 若菜は動けなかった。
「気持ちが変わらないか確かめたいっていうのは俺のことを信用してないってことだろ」
「気持ちっていうか……」
「同じだろうが。大体、俺の気持ちはこれ以上いくら待ったって変わらねぇよ」
 若菜は眉を寄せた。
「そんなの分かるもんか」
「分かんだよ。何年想い続けてると思ってんだ。いまさら変わらねぇよ。だいたい若菜は幼稚園の頃から思考回路も行動パターンもほとんど変わってねぇんだ。俺の気持ちが変わる要素は一つもねぇ。ならこれからも変わらねぇだろ」
「幼稚園って!」
「それよりも!」
 さり気なく失礼だ、と反論しかけた若菜を厚志は強く遮る。封じられた言葉に若菜は唇を引き結び、瞳に怒りを宿らせて厚志を睨んだ。同じくらいの強さで厚志も睨み返す。
「これ以上待ってたら、若菜の気持ちが変わる方が高い。冗談じゃねぇ。時間なんて絶対ぇやらん」
「なんだよそれ! じゃあ信用してないのは厚志のほうじゃないか! 私だって気持ちは絶対変わらないからね!」
 しかし厚志は鼻で笑う。
「そんなの分かるもんか。お前は薄情だからな。今回のことで思い知った。あんなにアッサリと忘れられるもんなんだ」
 若菜は羞恥心に顔を赤くさせ、唇を噛んだ。
「不可抗力だって言ってんでしょ! 厚志だって、ああいう状況に置かれたら絶対に」
「いいや。俺は忘れない。お前と一緒にするな」
「なってみてから言え! 説得力の欠片もないわ!」
「ぜーったい忘れないね」
「あぁあその言い方! むっかつくなー!」
 若菜は両足をばたばたと動かした。組み敷かれていなければ拳で殴っていたところだ。あいにくと拳は厚志の手に封じられている。
「絶対忘れないなんて、あるもんか!」
「ある」
「ない!」
「ある」
「ないってば!」
 まるで低次元な子どもの喧嘩になってきた。だが若菜は気付いていない。怒り心頭のまま、目に悔し涙まで浮かべている。息切れを起こす若菜に厚志は腰を屈め、目尻の涙を舐めとった。
 怒りとは違う意味で紅潮し、絶句する若菜に意地悪げな笑みを向ける。
「絶対、忘れないね。なんでだか教えてやろうか」
 若菜の喉で空気が鳴った。そんな若菜に厚志は笑い、再び腰を屈める。熱を含んだ吐息が耳をくすぐり、低い声で囁きを落とす。
「愛してる。若菜が欲しい。だから、絶対に忘れない」
 からかいは含んでいるものの真剣な声音に若菜は絶句し続けた。解放された手で厚志の服をつかむ。触れられた胸を、心臓が突き破りそうな勢いで飛び跳ねている。厚志には伝わっているだろう。
 ――それに、忘れたりなどしたら、お前は離れていってしまうかもしれないから。
 厚志は最後にそんな呟きを落としたが、許容範囲突破中の若菜の耳には届いていなかった。

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