5周年記念企画小説
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7.

 口付けられた若菜は息を止めて瞳を瞑った。
 息苦しさに涙が滲む。かすかに喘ぐと涙が零れた。
 どこか胸の奥を占めていた恐怖が、今は消えている。厚志だからだと思う。少しの間をあけて抱きしめられた。厚志の重さを体で感じる。
 息遣いを近くで聞いて身をよじる。熱は冷めることなく高まっていく。
 恐る恐る瞳をあけた若菜は、目の前に優しい厚志の瞳を見つけて安堵した。いつもはその顔を手の平で押し返すが、今ばかりはそのような気も起きずに見つめる。恐れるものなど何もない。
「なに乱暴を働いてるの!」
 そんな怒鳴り声が一瞬にして甘い雰囲気を破壊した。
 厚志が双眸を瞠って素早く起き上がる。若菜もまた、慌てて起き上がって青褪めた。入口には美嘉がいた。彼女の後ろには由紀子の姿もある。どこから見られていたのかと思うと汗が吹き出てくる。
「母さん……」
「さっきから怒鳴り声が響いてたから、心配になって来てみれば、あなたって子は、もう……!」
 美嘉は険しい顔をしながら部屋に入ってきた。若菜の腕を掴んで引き上げる。少し強引に厚志から引き離す。厚志は首を竦めて小さくなっている。滅多に見られない光景だ。
「邪魔しちゃったみたいね」
「由紀子! なんでそんなに嬉しそうなの!」
「美嘉こそ、そこまで怒ることじゃないと思うわよ。このぐらいの年頃には良くあることよ。ただ、TPOはわきまえて欲しいけどね」
 若菜は誰の顔もまともに見られず顔を背けた。
「でも基本的に私は二人の味方だし、今の状態は望んでた結果よ。結納の日も近いわ」
「そりゃ、あなたの企みは成功して嬉しいだろうけど、今はそういう場合じゃないでしょう? 若菜ちゃんはまだ記憶が戻っていないのよ。こんな大変なときに――」
 美嘉は頬を紅潮させて厚志を睨む。その後ろで由紀子は小さくため息をついた。
 どうやって弁明しようか。
 若菜がそう悩んだとき、外から車のドアが閉まる音が聞こえた。近所に住む者の車ではない。家の直ぐ前に停められた車のようだ。音はとても近くから聞こえた。しかしその音に気付いたのは若菜と由紀子だけだったようで、厚志と美嘉は気付かない。義之が帰って来たときと同じような音に、若菜と由紀子だけが反応した。
 二人が顔を上げて視線を交わしあったときだ。
 玄関の扉が開かれた。
「美嘉」
 呼びかけの声に、言い足りないように言葉を探していた美嘉の口が止まった。厚志もまた信じられないように瞳を瞠る。玄関の扉が閉められ、声の主は直ぐに階段をのぼってきた。
 由紀子が振り返り、誰よりも先に微笑みかける。
「こんばんは。純ちゃん」
 階段を上がってきた純一は強張った顔つきだった。部屋の入口に立ち塞がった由紀子が純一を見上げる。純一が一礼して美嘉のもとへ行こうとしても、由紀子は動かなかった。部屋の入口を塞ぎ続ける。
「美嘉になんの用かしら?」
 普段は温厚な由紀子から放たれる冷たい声に若菜は少なからず驚く。純一も驚いたように瞳を瞠らせ、次いでバツが悪そうな顔をした。
 美嘉の背に庇われていた若菜は窺おうとした。表情は見えなくても、彼女が緊張していると分かる。張り詰めた空気だ。由紀子以外は誰も口を開けない。
「厚志君に用なら通してあげるけど、美嘉に用なら通してあげない」
「由紀子さん」
 悪戯っぽく微笑みながら由紀子は告げる。しかしその瞳には遊びではない真剣さが宿り、純一を糾弾するように見つめていた。純一は困ったように頭を掻く。
「私は美嘉の親友よ。美嘉に幸せになって貰いたいと思うのは当然じゃない? これまでずっと美嘉を不幸にし続けてきた貴方に、どうして美嘉を渡すと思うの。その点だけは私、純ちゃんを許すつもりはないわ」
「お母さん」
「若菜は黙りなさい」
 一つ、思うところがあって口を挟んだ若菜だが諌められた。眉を寄せて口を閉じる。由紀子は若菜を一瞥したあと再び純一を見上げた。
「さ。どっちに用事なのかしら?」
「――美嘉に用事です」
 純一が告げた瞬間、彼の前で仁王立ちになっていた由紀子は唇だけで微笑み、その手を振り上げた。強烈な音を立てて、純一は頬を叩かれていた。誰もが呆気に取られながらその光景を見つめる。
「由紀子」
 美嘉がなんとも言いがたい表情で身を乗り出す。由紀子は振り返り、微笑みながら首を傾げる。由紀子に叩かれたまま悄然とうな垂れる純一の背中を押した。
「え、由紀子!」
 目の前に純一を押し出された美嘉は驚き、慌てて逃げようとしたが、純一に腕をつかまれていた。美嘉は先ほどまで厚志に向けていた険しい表情を一変させ、怯えるように純一を見上げる。
「――いまさら、と思われても仕方ない。だが、今回のことは聞き捨てならない」
 頬を赤く腫らせたままで純一は告げる。美嘉の再婚を聞いて来たのだ。しかも、彼はどうやら再婚に反対のようだ。声音は真剣だった。美嘉は惑うように視線を彷徨わせる。
「か、勝手なこと言わないでよ。小田島さんはすごく良い人よ。勝手に決めて勝手に出て行く人とは大違い。私、年齢も年齢だし、これが幸せになるための最後のチャンスだと思ってるんだから」
 純一は堅く唇を引き結んだ。だが、弱々しい美嘉の言葉を鼻で笑う。美嘉は紅潮し、その表情は硬くなった。誰とも視線を合わせないように床を見ながら口早に言い切る。
「厚志には可哀想だけど、私の人生だもの。許されるべきだわ」
「だから小田島と再婚するというのか? 俺はあんな優男に美嘉をやるために離婚したわけじゃない」
「ならなぜ離婚したの! 私は理由も聞かされていないわ。納得できていないのは私も同じよ!」
 純一は美嘉の顎を捉えて上向かせた。涙目になった美嘉は精一杯の強がりを張るように唇を引き結んでいる。
「純ちゃん。美嘉を放して。それは少し横暴だわ」
 由紀子の声に純一はチラリと一瞥し、言われるがまま手を放す。美嘉は床に座り込む。由紀子が代わりに問いかけた。
「私も聞きたいわ。離婚した正当な理由をね。それも話さず、いまさら美嘉の結婚に純ちゃんが口を出す権利なんてないはずよ。追い出されたくなかったら隠さずに言って」
 純一は言いにくそうに奥歯を噛み締めた。その表情が歪む。大人のやり取りを端から固唾を呑んで見守っていた若菜は、東京に行ったときに知った、純一の周囲を思い出した。
「横領」
 若菜は振り返った。それまで黙ったまま傍観していた厚志が口を開いていた。
「親父が離婚に踏み切ったのは、会社内の不正に気付いたからだ。発覚したら会社には報道陣がつめかける。裁判沙汰になったら行動はエスカレートするだろう。幾ら個人情報だ人権だって言ったって、報道の自由とはいつも紙一重のところにある。自宅にまで詰めかけられたら、母さんは自分の仕事に集中できないだろ。あの頃、仕事で小さい賞を貰えたって、喜んでたから」
 由紀子は顔をしかめながら厚志の言葉を聞いた。若菜もまた、厚志が純一に渡していた会計監査の報告書を思い出し、得心がいって息をついた。純一は黙ったまま立ち尽くしている。
「純ちゃんの会社で不正? でも、ニュースでは今まで、そんなことは一度も流れてなかったわよね」
「会社の幹部です。不正と仕事と、ギリギリの位置で見極めが難しい。幸いにも表沙汰になることなく、会社内だけの制裁でことは済みました」
「そうなの? それじゃあ……美嘉の言ってた通りなのね」
「え?」
 純一は由紀子の言葉に瞳を瞬かせた。由紀子は微笑む。
「離婚した原因、美嘉はなんとなく勘付いていたのよ。確証は持てなかったけど、他に好きな人ができて離婚したわけじゃないのなら、それぐらいしか理由として挙げられるものはない、って」
「なんだ……」
 純一は肩から力を抜いた。床に座ったままの美嘉を見下ろす。
「分かってたのか。それなら何で再婚話になんかなるんだ?」
 不思議そうな顔で純一は首を傾げるが、どうでもいいと判断したのか、気持ちを切替えて美嘉に手を伸ばした。
「行こう、美嘉。もう一度籍を入れ直すぞ」
「やだ」
 純一の眉が寄せられる。若菜も、聞き違いかと思って瞳を瞬かせる。だが次に顔を上た美嘉には強い怒りが宿っていて、聞き違いではないと悟る。美嘉は由紀子を睨んだ。なぜ話してしまったのか、と責めるように。けれど由紀子は反省することもなくため息をつくだけだ。
「美嘉?」
「私の意志を無視して勝手な話ばかりね」
「なに怒ってるんだ。離婚した原因、美嘉は知ってたんだろう?」
 美嘉は更に不機嫌に純一を見つめた。
「怒るわよ。怒って当然でしょう。あれは知ってたなんて言わない。勝手に推測しただけよ。そう思い込まなきゃやってられなかったもの。突然離婚届に判を押させて、勝手に厚志を引き取って行って。私は訳がわからなくてその晩は泣いて過ごしたわよ。今でこそ落ち着いていられるけど、それは純一のお陰じゃない。自分で立ち直っただけよ。それなのに、また現われて、勝手なことしか言わないで!」
 若菜はふと、目の前で怒りに包まれている美嘉が、将来の自分の姿のような気がした。勝手で横暴な厚志に翻弄されて、理不尽な怒りを溜め込むのだ。容易く想像できる。
「私、もう疲れたの。小田島さんだったら安心して一緒に」
 スッと純一が美嘉のそばに膝をついた。美嘉は一度肩を震わせ、頭を下げている純一を見る。その表情が怪訝そうに曇る。若菜も厚志も、ただその光景を見守った。
「迷惑をかけてすまなかった。だからもう一度俺と結婚してくれないか。不幸になると分かってて小田島に渡すわけにいかない。俺には美嘉を幸せにする義務がある」
 膝をついたままの純一はそこで顔を上げた。美嘉は凍りついたように微動だにせず見守っている。純一は美嘉の頬から髪を払って耳にかける。
 そうして、それ以上触れることを躊躇って腕を下ろした。
「義務感だけで、と言ったらまた勘違いして怒るだろうな。由紀子さんと良く似て早とちりも多いから」
 微かに笑みを浮かべる。
「挽回のチャンスが欲しい。今まで以上に、美嘉には側にいて欲しい」
 徐々に緊張を緩ませていた美嘉だが、再びその体は強張っていた。見守っていた若菜は不思議な違和感に首を傾げる。眉を寄せて美嘉を見つめ、隣に来ていた厚志の服を掴んだ。
「――由紀子。若菜ちゃん。私のわがままに付き合ってくれて、ありがとう」
 不可解な言葉に純一の眉が寄せられる。
 美嘉は先ほどまでの動揺を綺麗に消し、無表情のまま立ち上がった。膝をついたままの純一を見下ろす。唇を引き結ぶ。
「けじめ、つけましょう。純一」
「けじめ?」
「美嘉?」
 何を言っているのか、美嘉の表情から不穏な気配を感じた由紀子も問いかける。
 美嘉は微かに表情を険しくさせて呼吸した。
「離婚した今だから言える。再婚なんて、しなくていいわ。これまで義理で付き合って貰ってたのは私の方なんだから」
 純一が立ち上がった。何を言われているのか分からないように眉を寄せたまま美嘉を見つめる。若菜と由紀子も不可解なままだ。企みが成功した今、再婚の道に背を向けるような真似をなぜするのか。これも企みのうちなのだろうかと記憶を取り戻した若菜は考えるが、なぜか違う気がした。
 美嘉はひたりと純一を見据えて口を開く。
「純一は私と好きで結婚したわけじゃないでしょう。貴方が厚志に強要していたように、ほとんど政略結婚に近いものだったわ。仕事上、不都合が生じるから近くにいた私を選んだだけ。あの頃はまだ若かったから。妻も持たない男に仕事を任せられるかって、上役から言われての結婚だったと聞いてるわ。でも今は、そんな考え持った上役なんていないし、純一ももう認められているし、離婚したいま、再婚する必要なんてないはずよ」
 微かに瞳を潤ませて、倒れないように気を張って、美嘉は絞り出す。
 口を開きかけた純一を目で制する。
「いまさら私相手に取り繕う必要もないわよ。ここまで迎えに来てくれたことは嬉しいし、感謝するわ。でも結婚した当初から分かってたの。純一が本当に好きなのは由紀子。それでもいいと、私は思ってたけど……ここに来て、やっぱり思い知らされた。このまま再婚なんてできないわ。いい加減、純一は純一の好きなように生きたらいいのよ。もう誰に縛られることもない」
「美嘉、何を言ってるの。私はとうに義之と結婚してるのよ」
「結婚してたって関係ないじゃない。想ってるのは自由よ。だけど、そんな純一のそばで暮らすのが耐えられなくなっただけ。今回の目的とかなり違ったけど、これでいいの。変なわだかまり抱えたまま再婚しなくて良かったもの。由紀子には悪いけど。ずっと、妬ましかったから」
 美嘉は視線を逸らした。由紀子は困惑したように手を伸ばそうとしたが、その手は途中で諦められた。言葉を探し、やはり声は出てこない。
 二十数年にも及ぶ結婚生活が偽りの上に成り立っていたという、そんな言葉に、若菜は唇を引き結んだ。どこからともなく怒りが湧きあがる。誰に向けて良いものか分からず、ただ足を踏み鳴らした。その場の視線が若菜に向く。
「――厚志の前でそんなこと言わないで」
 美嘉がハッとしたように瞳を瞠り、口を手で覆った。
 若菜は怒りを抱えたまま純一を睨む。
「お母さんに手出ししたら、お父さんに代わって私が殴り倒してやるからね」
「そんなことしない。由紀子さんのことは今でも大切だが、それは自分の青春時代の思い出のようなもので、懐かしい気持ちしかない。手なんか出せるか。義之を怒らせるつもりもない」
「ふうん。私と厚志の婚約披露のとき、ホテルのバルコニーでお母さんの肩抱いてたあれも、ただの懐かしい思い出としてのことなわけ」
 若菜が冷たい声で応じると純一は困ったように目尻を下げた。
「そういうのを身から出た錆っていうの。厚志の将来のためになるような行動してくれませんか。厚志が見習ったらどうしてくれるんだ」
「しねぇっての」
 厚志がぼそりと呟いたが誰の耳にも届かなかった。
「それで。どう収拾つけるつもり?」
 純一に対して遠慮するつもりのない若菜はなぜか胸を張りながら睥睨する。その姿に何を思い出したのか、純一は苦笑しながら肩を竦めた。
「収拾、ねぇ。美嘉が俺のこと信用すれば収拾はつくと思うんだが」
「私が美嘉さんだったら絶対信用しないね。今までの行動が行動だからね」
「はっきり言うな。傷付くだろ」
 美嘉はさきほどの言葉がよほど堪えているのか何も言わない。青い顔をして俯いているだけで、由紀子がその側に寄った。
「ずっと妬まれてたことはショックだけど、私はずっと美嘉のこと好きだからね」
「だって由紀子、嫌になるくらい自分本位だもの」
「そうね」
 弱々しい声に由紀子は相好を崩して美嘉の肩を抱く。直ぐに離れ、純一に向き直った。
「旅行に行ってらっしゃいよ、純ちゃん」
「お、いいこと言うね」
「結婚してた間も忙しくて一緒にいられなかったんでしょう? それが一番いいわ。今なら厚志君がいるものね」
「ああ。前よりはずっと楽だ」
「ちょっと待てっ?」
 まさかここで飛び火が来るとは思っておらず、厚志は目を白黒させた。美嘉もまた口を挟む暇がなく、呆気に取られている。話は純一と由紀子により次々決まっていく。
「佐藤に関わってた不正疑惑のほとんどもあいつの活躍で幕を下ろしたんだ。俺としては実に楽になった。1年くらい美嘉と旅行してても余裕だろう」
 それは暗に、厚志がこれから忙しくなることを示していた。
「どさくさに紛れて……」
 厚志が忌々しそうに舌打ちした。若菜は小さく笑う。
 さ、と由紀子が話を打ち切った。
「美嘉。あまり意地張り続けてると若菜みたいになってしまうわよ。ほどほどにね。離婚してからも純ちゃんのことばかり気にして、会話の中に入れて。好きでい続けてる証拠でしょう。純ちゃんは純ちゃんなりに美嘉のこと想ってるんだから、ちゃんと信用してあげて。分かってるでしょう?」
 美嘉は床を見つめたままだ。その眦に少し力が加えられる。葛藤しているようで、簡単には頷けない。
 けれど誤解さえ解ければ時間の問題だろう。
 若菜は由紀子に手招きされるまま廊下に出て、美嘉と純一を残したまま部屋の扉を閉めた。

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