5周年記念企画小説
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8.

 部屋に二人を残したまま階下に下りる。
 由紀子に続いて居間に入ろうとした若菜は厚志に止められた。振り返ると玄関を指される。
「外に出ようぜ」
「え?」
「散歩。いいだろ?」
 若菜は瞳を瞬かせた。
「別に、いいけど……」
 もう少し二人だけの時間を持ちたいと思ったのも理由の一つ。しかしさすがに言葉には出せず、若菜はためらう素振りを見せながら頷いた。
 誘われるまま外に出ると、微かに汗ばむ空気に包まれる。玄関は幾らか暑気が遮断されていたのだろう。自宅の前に純一の車が停まっているのを見つけて近づく。由紀子に言い置く厚志の声を背中で聞きながら、若菜は夜空を見上げた。雲のない空には無数のきらめきが宿っている。
 厚志を待たないままゆっくりと歩き出す。大きく深呼吸した。直ぐに追いついてくる気配を感じて視線を戻す。
「明後日、東京に戻るんだっけ?」
「ああ」
 若菜の歩調に合わせながら厚志は隣に並び、ごく自然に手を繋いだ。季節柄、暑くて少し遠慮してもらいたい行為ではあるが、若菜から解くことはない。心は落ち着いたまま受け入れる。
「おじさんの口調じゃ、また当分こっちに来れないね」
「面白がってるだろ」
 苦い表情で見下ろす厚志に笑ってみせる。内心では寂しいと思っていたものの、もちろん顔には出さない。荷物になるなど御免だ。
 夜半の住宅街は静まり返り、声は小さく反響して聞こえた。そこかしこで虫たちの合唱が響いている。しかし二人が通れば自然と息を潜め、いつもは聞こえる犬の遠吠えも今は聞こえない。
 厚志は視線を前に向けた。
「母さん、どうするんだろうな。俺が口出しできるようなもんじゃないけど」
 若菜は厚志を見上げた。
「小田島と結婚が決まってたんだろ。あの母さんが、幾ら情に流されたって、そこまで決めてた意志を翻すとは思えない。あれでいて強いから。だいたい親父が動くのが遅すぎたんだよ。越後グループとの契約がまとまった時点で迎えに行きゃ良かったんだ。それを今まで、たかくって後回しにしてた結果がこれだ。自業自得だろ。まぁ、それぐらい忙しかったんだが」
 どこかで聞いた台詞に若菜は複雑な心境だった。病院で美嘉の再婚話を聞いたあとに廊下で厚志が洩らしていた台詞だ。あの時の言葉にはこのような意味があったのかと沈鬱になる。
 東京駅で別れてから約半年。厚志ですら若菜に電話もままならぬ状況が続いていたのだから、会社の代表らしい純一はさらなる忙しさに追われていたのだろう。想像はできる。共に仕事をする同僚として理解もできるが、同じ立場の女性としてはどうだろうと首を傾げてしまう。やはり少しくらいは自分のことも優先して欲しいと願って当然ではないだろうが。
 若菜は美嘉が自宅を訪ねてきたときのことを思い出していた。
「少し意外だよね」
 厚志の視線が若菜に向けられる。
 若菜は視線を道路の向こう側に固定させたまま続けた。
「厚志がこんな風に話してくれたこと、なかったから」
「……なんの話だ?」
「いつもは勝手に自己完結してたじゃない。こうやって私に話してくれたことがなかった」
 厚志は首を傾げる。
「……そうだっけか?」
「そうだよ。おかげで私は話が見えなくてイライラさせられっぱなし。自己完結できるなら確かに厚志にとっては簡単で、話す手間も省けて楽なんだろうけど」
 若菜は一拍置いて厚志を見上げた。
「私も――自分のこと話すのは得意じゃないし、面倒くさいって思うから、厚志の気持ちは分かるんだけど。でも、まぁ……こうして話してくれると、やっぱり信用されてるんだとか、頼られてるんだとか、そういうのが感じられて嬉しいかもしれない。話聞いたからって私に何ができるって訳でもないんだけど。でも、厚志がなに考えてるのかは分かるよね」
 安心する、と笑うと厚志は複雑な表情になる。
 美嘉にはこの時間が足りなかったのだ。純一が出張ばかりで電話もほとんどしないため、それは当然と言えば当然なのだが、こんな簡単なことで信用できるのなら自分も何か話してみようという気になる。
 夜道は三叉路に分かれていた。何気なく左への道を選んでそのまま歩き続ける。直ぐ先にはいつかストーカーに襲われた神社があった。夜道という要素も手伝って、普段なら決して歩くことのない場所だが、今は厚志がいるため警戒心はさほどでもない。何があっても大丈夫だろうという強気な姿勢まで首をもたげる。
 若菜は率先して歩きながら言い淀んだ。
「美嘉さんは、小田島さんとの結婚は考えてなかったよ」
 厚志の視線が若菜に向けられる。かなりの間をあけて、「はぁ?」という声が響いた。若菜は結果的に厚志まで騙す羽目になったことを重く思いながら振り返る。
「駆け引き」
 なるべく言葉を選びながら慎重に告げる。しかし厚志の表情は強張っていく。
 若菜は努めて明るい表情を見せた。
「健気だよねー、美嘉さん。私も協力するとか言いながら記憶失くしちゃったから、ちょっと罪悪感あったけど、結果としては目論見が成功して良かったよ」
「ちょっと待て。若菜」
 さりげなく、繋いだ手を解こうとしていた若菜は腕を引かれて息をつめた。やはり流してはくれないか、と浮かべた笑みが強張る。
「どういうことだ?」
 険しい表情の厚志に問い詰められる。若菜は視線を逸らした。
「いやぁ、だから。美嘉さんも大人だからさ。おじさんの離婚原因には薄々感づいてたわけじゃない? で、厚志からの手紙とか、私のお母さんからの電話とかで、離婚の原因になったものが大方片付いただろうと予想もできるじゃない。一応、そのときはおじさんを信用してたから、迎えに来てくれると思ってたらしいのよ。でもいつまでもおじさんが来ないから、もしかしたら本当に嫌われて離婚したのかもと考えるようになったわけね。もしもそうだったら、ここまで信じて待ってた私が馬鹿みたいじゃないって、美嘉さんは笑ってて。それで、えーと。私も協力しようかなっと」
「言ってる意味が分からない」
 思い切り手を握りこまれた。痛みに顔をしかめる間もなく腕を引かれ、間近で覗き込まれる。不覚にも胸を高鳴らせて顔を逸らそうとしたが、厚志は強引に若菜の顎をとらえた。
「す、推測してみれば?」
 厚志は思い切り眉を寄せた。
 しばらく沈黙が流れ、やがて厚志は脱力したようにため息をついて、その場にしゃがみこんだ。若菜は厚志の頭を撫でてやる。睨まれた。
「女ってのは……」
 言葉は続かずため息に消える。
「最後の最後で美嘉さん自ら破綻するような言動取ったのには驚いたけど。本音もあるけど、きっと本音じゃないよ」
 思い出した若菜はふと表情を強張らせ、慌てて取り繕う。厚志に笑いかけたものの厚志は笑わない。思い出したくない言葉を思い出させてしまっただろうかと若菜は眉を寄せた。偽装結婚の末に生まれた、望まれていない子ども。そんな意味にも取れる発言は、やはり自分であれば聞きたくない言葉だ。
「美嘉さんは厚志のこと嫌ってたわけじゃないよ? 言葉が滑ったというか、いやだから、あれは本音じゃなくて、隠された意味もなくて、おじさんに対する愚痴なだけだと思うから」
 若菜はなぜ自分が慌てているんだろうと思いながら必死で弁明する。しかし他人のことなので断言はできず、言葉も尽きる。それでも何とかしたくて方向転換してみた。
「厚志のことは私が信用してるから、安心して。誰が離れていっても、私だけは側にいるから。それなら安心でしょうっ?」
「安心って……」
 厚志は絶句したあと吹き出した。
「相変わらず、他人の心配しすぎだ」
 しゃがみこんだままの厚志に腰を屈めると髪を引かれ、キスをされる。熱は直ぐに離れたが灯った熱は消えない。見つめていると厚志は立ち上がった。
「本当に、何度も……若菜がいてくれて、良かったと思う」
 これまでの揶揄するような笑みはなりを潜め、向けられた瞳は優しく熱いもの。ゆっくりと意味をしみこませた若菜は気恥ずかしさに顔を赤くして微笑んだ。頼られるのは自分だけの特権だと信じて心を奮わせる。厚志が弱気なときこそ強くいようと決意を新たにする。
 肩を抱かれ、再び口付けが降りようとしたとき。
 携帯の着信音が二人の邪魔をした。
 どうやら厚志のポケットに入っていた携帯らしい。厚志は舌打ちし、しぶしぶ若菜から体を離す。そして誰からの着信だと液晶画面を見て、微かに目を瞠った。横から若菜が覗き込む。どうやら純一からの着信のようだ。
 意外な人物からの着信に若菜が驚いていると、厚志は背中を向けて電話に出る。
 まるで浮気の証拠品を隠すような仕草だ、と若菜は他人事のように背中を見つめる。
「どうなったよ」
 若菜も聞き取ろうと耳を近づけるが、あいにくと声は聞き取れない。厚志もさほど話をするわけではなく、生返事ばかりをするため会話の内容がまったく想像つかない。会話は驚くほど短い。厚志は直ぐに電話を切った。
 液晶画面を見ながら眉を寄せ、厚志は再びポケットにしまう。
「美嘉さん、返事したって?」
 早く結果を聞きたくて問うと厚志は複雑な表情のままかぶりを振る。
「戻って来いとしか聞いていない」
「なんだそれ」
 若菜は呆れたが、厚志の携帯に純一から着信があることじたい大した進歩だと思って笑った。
「仕方ない。戻ってやるか」
 努めて尊大に胸を張り、厚志と腕を絡めて元来た道を引き返し始めた。厚志は嫌そうな声を上げたが逆らわず、結局は家路を辿る。
「……なんでまだ笑ってるんだよ」
「え?」
 上機嫌でにこにこと笑みを絶やさない若菜に、厚志は少々不気味さを覚えたのか問いかけた。自覚がなかった若菜は驚いたが、やがて更に笑みを強める。
「だって、ねぇ?」
 厚志の怪訝な視線が突き刺さる。
「お父さんからの着信は全部拒否設定だって、前に言ってたじゃない。ちゃんと解除してたんだなーと思ったら、自然と笑みが」
「ばっ、馬鹿やろう、あれは仕方なくだ! 母さんの再婚話を伝えるために……! 今まで拒否設定し直すこと忘れてたんだよ!」
「忙しかったもんねぇ?」
「信じてねぇだろっ?」
「信じてるって」
 厚志の腕にぶら下がるような格好となりながら、若菜は笑う。反対の腕で髪をぐしゃぐしゃにされても腕は放さない。家に戻るまでそれは変わらず、また、言い訳しながらも目の前で拒否設定しない厚志を嬉しく思った。溝は容易く埋まらないだろうが、埋める姿勢を褒め称えたい。
 遠距離恋愛の必然ともいえる別れが間近に迫っていることを感じながら、若菜は家に戻った。

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