5周年記念企画小説
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9.

 自宅に戻った二人を迎えたのは不機嫌そうな美嘉だった。彼女は玄関に佇み、厚志が顔を見せるなりその腕に抱きついた。
「母さん……?」
 突然のことに厚志は驚きを隠せない。左手に若菜を抱え、右手に美嘉を抱えるその姿は“両手に花”とも言える。厚志は戸惑いながら美嘉を覗き込んだ。
「話はついたんだろう……?」
「ええ。結局、私が折れることにしたわ」
 厚志から離されても美嘉は俯き加減で、不愉快そうに唇を尖らせた。完全に納得したわけではないようだ。
 厚志たちが戻ったことに気付いたのか、居間から純一と由紀子も出てくる。
 美嘉の様子を見た純一は呆れたようにため息を吐いて近づいた。
「いい加減に納得しろって」
「できません」
 純一の手が触れようとすると、美嘉は邪険に払って体を翻した。堰を切った怒りをぶつけていた激情はそこにない。しかし怒りは治まっていないようで、逸らした顎が純一の拒否を告げていた。言葉も頑なになっている。
 厚志と若菜が顔を見合わせると純一が再びため息を吐き出した。
「厚志の母親には戻ります。もう貴方にだけは任せておけませんから。それに、今なら若菜ちゃんという可愛いお嫁さんもついてくることだし」
 若菜は突っ込みを入れようか迷ったが、口を挟む暇もなく美嘉の眼差しは純一に向けられる。
「でも、浮気性な貴方の妻に戻ることを納得したわけじゃありません。旅行なら一人で行って。だいたい、由紀子を見る貴方の目が既にいやらしいのよ。そんな姿を見せられるこちらの身にもなって。変に遠慮なんてしないで、どうぞ堂々と浮気なされば?」
「あのな」
「それは私としても困るんですけど」
 純一は手で顔を覆って天井を仰いだ。因みにボソリと呟いた若菜の声は地に落ちるばかりで誰にも届かない。美嘉は険しさを増した双眸を純一に向け続けたまま厚志の腕に再び抱きつく。
「もう。美嘉ってばさっきからこれの繰り返しなのよ。純ちゃんがどれだけ説得しても耳を貸そうとしないし。これまでの純ちゃんの行動を振り返れば当然の行為だとは思うけど、このままじゃ埒が明かないものね。ここは早く家族水入らずで頑張ってもらおうと厚志くんを呼び戻してもらったの」
「はぁ」
 若菜は厚志と顔を見合わせた。やはり由紀子の思考回路は良く分からない。
 しかし長年の付き合いから彼女の行動を察知したのか、美嘉が素早く反応した。
「由紀子! 私を追い出すつもり!?」
「ご名答」
「今日はここに泊めてくれるっていう話でしょうっ?」
「それはさっきまで。私の役目はもう終わり。あとは純ちゃんと厚志くんにお任せするわ。それに、友人の私をいつまでも誤魔化しておけると思わないでね。美嘉の性格は分かってるんだから」
 由紀子は悪戯めいた笑みを見せた。美嘉がグッと詰まって体を引く。
「そんなわけで――悪いな若菜ちゃん」
「え?」
 車の鍵を取り出し、純一が靴を履く。彼の邪魔にならないよう少し体をずらしていた若菜は瞳を瞬かせた。
「厚志を連れて行く」
 若菜は目を瞠った。
「待って、純一。若菜ちゃんはまだ記憶が混乱してるの。厚志は充分、若菜ちゃんの支えになってるようだし、まだ……」
「いや。それには同情するが、そうも言ってられなくなったんだ」
 美嘉の声に純一はかぶりを振る。美嘉を見下ろす瞳はどことなく優しさが感じられたが、厚志に向けられた瞳はまるで違った。戦友に向けられるような瞳だ。
 厚志は怪訝に眉を寄せる。
「別のところから連絡があってな。とうとう大輝が表に出てきた。週末に就任披露パーティーを行うそうだ」
 若菜は息を呑み、思わず厚志を振り返る。最初驚いた顔をしていた厚志だが、その表情を崩して笑みを浮かべた。敵意を宿した剣呑な笑み。しかしどこか楽しげでもある。
「面白そうじゃねぇか」
「ああ、お前もそう思うか」
 純一も同じような笑みを浮かべて頷く。
 ――遠くに行ってしまう。
 男二人の笑みは若菜の知らないところに向けられている。彼らの関心は既にここにない。若菜は喪失の痛みに唇を引き結び、厚志から腕を放した。そのことにも厚志は気付かない。楽しげに、若菜の知らない仕事の内容を純一と展開させている。二人はここに若菜や美嘉がいることすら忘れてしまったようだ。
 若菜の表情から気持ちを察したのか、美嘉が肩を怒らせた。
「二人とも。ここにいる以上は目の前の人間のことも考えなさい。そんなことだと、また愛想尽かされてしまうわよ」
 先に我に返ったのは厚志で、若菜と視線が合うと気まずそうにその視線を逸らす。純一は肩を竦め、美嘉は睨みつけた。若菜は目の前で視線を逸らす厚志になぜか腹が立って口を開いた。
「いいよ。私の記憶は戻ったから」
 厚志以外の驚く視線が若菜に向けられたが、若菜はどの視線にも応えない。
「行ってらっしゃい。私はまた待ってるから」
 隣で聞いていた純一が鼻で笑う。
「まだるっこしい。んな未練ありありな顔してんなら、いっそのこと攫ってけよ。若菜ちゃん一人くらい、充分に養えんだろ。放っておいて誰かに奪われても知らねぇぞ」
「うるせーな!」
 小突かれた厚志は怒鳴りつけたが、純一は笑うだけだ。
「先に行ってる。美嘉、行くぞ。由紀子さんも。毎回、かなり迷惑かけてて、すいません」
「私は全然構わないわ。波乱万丈な方が、人生楽しいですものね」
「同感です」
「そこで同感しないで欲しいわ」
 美嘉が疲れたようにため息を吐き出し、厚志を振り返った。そして外に出た純一を追いかける。
「外まで送るわ。若菜、貴方も来なさい」
 由紀子も先に玄関から出て、振り向きざま声をかける。若菜と厚志だけが残され、玄関の扉が閉められると沈黙が下りた。外から微かに三人の楽しげな声が聞こえてくる。その声も徐々に遠ざかっていく。
 厚志が口を開こうとする気配を感じて息を吸い込む。
「若菜」
「――ついでに、って言う感じで告白されたら一気に興ざめするかもね」
「ついでじゃない。前から俺は本気で言ってただろ」
 また逃げられたりしないようにという意図なのか、厚志が若菜の腕をつかむ。それは正しい判断だった。つかまれる寸前まで、若菜は精一杯の強がりで見送りの言葉をぶつけ、そのまま部屋に逃げ込もうとしていたのだから。
 若菜は唇を引き結んだ。先ほどまで厚志は視線を逸らし続けていたというのに、今は真っ直ぐに見つめてくる。純一の言葉に答えを見つけたのか、やけにスッキリとした瞳だ。若菜が気後れするほどその視線は強い。
「俺と結婚して欲しい」
「私は」
 視線を逸らしながら口を開こうとした若菜だが、その途中で腕を強く引かれ、息を呑んで厚志に倒れかかった。強く抱きしめられる。
「俺との将来を真剣に考えてくれてるって言ったよな」
 耳元で囁かれて硬直した。強い腕は直ぐに放され、解放された若菜は迫る瞳に息を止めた。浅い口付けが落ちる。心が震えて仕方ない。
 唇を離した厚志はポケットから何かを取り出した。
 非常に細かい鎖で編まれたネックレス。蔦模様の小さな飾りの中央に透明な宝石が一粒嵌められ、淡く桃色づいた小さな宝石が両脇に配されている。そのデザインに既視感を覚えた若菜は罪悪感に囚われた。失くした婚約指輪と同じデザインだったのだ。恐らく一対になるよう作られたものに違いない。
 若菜の落ちこみをよそに、厚志はそれを若菜の首にかける。鎖の鳴る綺麗な音が耳をくすぐる。
「若菜」
 唇を噛んだ若菜をどう思ったのか、厚志が呼ぶ。顔を上げられないでいると頭を撫でられた。
「相応しいとか、相応しくないとか、そんなこと考えてるんじゃないだろうな」
「……別に」
「若菜に傍にいて欲しい。親父の言葉に従うわけじゃないが、このまま攫っていけたらと思ってる。怒られるだろうから、できないけど」
「意気地なし」
 せめてもの反抗で、口先だけで非難する。
「後で自己嫌悪に陥るのは若菜だろ。それで『失敗した』なんて落ち込まれるのは、俺だって我慢ならねぇ」
 頭に置かれていた手が頬を滑って肩に落ちる。そのまま顎をつかまれて上向かされた。潤む瞳に気付かれる。短い沈黙の後に厚志の瞳が微かに翳り、やや乱暴に手をつかまれた。そこで取り出されたものに若菜は目を瞠った。
 厚志がポケットから次いで取り出したのは婚約指輪だった。車にはねられ、失くしたと思っていたものだ。それがなぜここにあるのか、厚志が持っているのか、信じられない気分で見つめる。
「母さんがずっと持っていたらしい。さっき、出て行く時に渡された」
「美嘉さんが……?」
「そう」
 それは幸せの象徴。互いをかけがえのない者として認めた恋人たちだけに許された誓いの証。心そのもの。
 事故に遭ったときから持っていたなら、若菜が目覚めたときや退院したときなど、渡す機会はいくらでもあっただろうに。
 手を取られ、以前されたように指輪を嵌められようとした若菜は、手が震えていることに気付いて思わず拳を握った。厚志が顔をしかめる。
「……今まで、それこそ何回願ったか知らないけどな、若菜」
 固く握られた拳に触れる。
 小さなため息を零されて、若菜は唇を噛み締めた。両足に力を込めて何とか奮い立つ。
「もっと頼れよ、俺を。そのまま全体重預けたって俺は倒れないんだからな。むしろ俺がいなくなれば倒れるぐらいに頼ってみせろ」
 若菜はスッと息を吸い込んだ。震えていた心に落ち着きが戻る。肩から力が抜けた。そして厚志を真っ直ぐに見返した。
「そんな女には絶対にならない」
 逃げ道を用意されたことが気に食わない。それは厚志の気遣いで、奮い立たせるために言葉を選んだに過ぎないことは分かっていた。若菜は誘導されるまま腹を立てた。怒りは容易く活力となる。
 拳を開いても、震えることはない。
 厚志は唇だけで笑い、左手の薬指に婚約指輪を嵌めなおした。変わらない輝きが戻ってきた。
「若菜」
「一緒に暮らせばいつでも会えるんだよね」
「え?」
「職場に泊まらない限り夜は帰って来るし、朝は顔見ながら会話できる。いつでも抱きつけるし、喧嘩もできる。楽しそうだよね」
 嵌められた指輪を見下ろしながら呟く。腕を下ろし、厚志に抱きつくと動揺が直に伝わってきた。その慌てぶりがおかしくて若菜は笑みを浮かべる。言っていて少しも羞恥心は浮かばなかった。単なる事実の確認だからだ。
「若菜」
 驚きなのか掠れた声で呼ばれ、若菜は笑みを浮かべたまま顔を上げる。
「結婚話の返事は、“考えさせて下さい”」
 純真無垢そのままの笑顔で告げられた返事に、厚志は声を詰まらせた。口を開け、それでも言葉は出てこない。だが、『嫌だ』と断られたことから考えれば大した進歩だと思うことにしたらしい。諦めを顔に出しつつも受け入れられた。
「次に会ったら、もう次はねぇからな」
「分かってるよ」
「本っ当ーに、分かってんのか?」
「本っ当ーに、分かってます」
 背中を抱かれたままなので二人の距離は近い。そのまま睨み合い続けるが、いつしか距離は縮まりゼロとなる。さほど抵抗もなく深い口付けが何度か繰り返された。望みはその先へと繋がるが、そのような時間も余裕もない。体を離し、落ち着くように呼吸する。
「外まで送る。お母さんたち、待ちくたびれてるんじゃない?」
 と、そこまで言ったところで若菜は先ほど、由紀子と美嘉に邪魔されたことを思い出した。もしかしたら今回もどこか途中から見られていたんではないか。自分の気持ちに余裕がないせいで周囲を気にしている暇もなかったが、好奇心の塊である由紀子ならば考えられる。
 そんな若菜と同じ思いを抱いたのか、厚志もまた素早く玄関の扉を確認した。
 扉は由紀子が出て行ったときと同じようにピタリと閉じられている。そこに誰かの影が映っていることもない。どうやら杞憂だったようだ。
 安心してため息を吐き出した若菜は厚志と顔を見合わせ、どちらからともなく笑みを浮かべて笑い声を上げた。そうして、玄関の扉を開けた。

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